第3話 テオの夢

 テオは夢を見た。

 最近よく見るようになった夢だった。

 夢に出てくる場所は違うこともあったが、どの夢にも必ず同じ女の子がいた。ただ不思議なことに、女の子の顔は夢の中ではぼやけてしまっていて、どんな顔なのはっきりかはわからなかった。こんな顔だろうというなんとなくのイメージしかわからなかった。

 わからないのは顔だけで、他の様子で夢に出てくるのが同じ女の子だとわかった。髪の毛は長く肩よりも伸びていて、服装はいつも白のワンピースだった。


 テオの住んでいる雪の降る寒い地域とは違い、温かい地域のようだった。そして女の子はどうやらテオよりも年上らしく、常にお姉さんのようにふるまった。

 女の子が出てくる夢にはもうひとつ特徴があり、それは決して大人が出てこないということだった。他の人間が出てくることはほとんどなく、二人だけの場合が多かった。


 この日見た夢の場所は、どこかの野原だった。周りに建物はなく、平らな緑の風景が広がっていた。ただし、平らとは言っても、所々に大きな木が生えていた。空は青々と広がり、雲ひとつない。

 テオと女の子は一本の大きな木の陰に座っていた。女の子は草に止まっていた一匹の黄色い蝶を見ている。テオは女の子が蝶を見ているのを退屈そうにして見ていた。


「ねー、蝶なんかずっと見てて楽しい?」


「楽しいわよ。テオは楽しくないって言うの? そっか。まだ子供だからしょうがないね」


 女の子はからかうように言う。

 テオはそのことが気に食わなくて、しばらく黙って蝶を見ていた。蝶は羽を動かすだけで、その場から動く気配はない。


「僕が今から逃げるから、つかまえてね」


 あまりの退屈さにテオは立ちあがって、女の子から離れながら言った。そうして軽く走り出すと女の子のほうを振り返ってみた。けれど、女の子は追いかけようとせず、まだ座ったままだった。


「はやくっ。追いかけてよ。それとも足が遅くてつかまえられないの?」

 女の子はテオの挑発に、しぶしぶ立ちあがった。


「もうっ。しょうがないなぁ」


 そう言って女の子はテオのことを追いかけた。二人はしばらく何もない野原を自由に走り回って、先ほどとは別の場所に一本だけ立っている大きな木の所に行った。

 テオと女の子は木を中心にして、木の周りをぐるぐると走る形になった。テオが走っていると、つかまえようとして木の周りを走っている女の子のワンピースの裾がひらひらと舞っているのが見えた。

 いつのまにか逃げているんじゃなくて、逆にテオが追いかけているような形になっていた。テオは走る速さを遅くして、逃げている形になる適切な距離を保った。

 

 しばらく走っていると突然、女の子とテオがぶつかった。女の子が走るのをやめて立ち止まったので、木の周りを回っていたテオは女の子に追いついてしまっていたのだった。


「ほーら、捕まえたっ!」


 ぶつかった拍子にしゃがみ込んでしまったテオは逃げ切ることができずに、女の子に腕を掴まれてしまった。


「テオは甘いわね。ずっと木の周りをまわっているんだもん。頭を使えばこれくらいのことを思いつくのは簡単よ」


 テオを見下ろす位置に立っていた女の子は得意げな顔をしていた。その顔を見て、テオには対抗心がわいた。テオは掴まれていないほうの手で、女の子のワンピースの裾を持つと、思いっきり上に持ち上げた。


「きゃっ」


 女の子は突然の出来事に動揺して、テオを掴んでいた腕を離し、めくれ上がったワンピースの裾を両手で抑えた。テオはその隙をついて立ち上がり、追いつかれないように力いっぱい走り出した。


「テオったら、待ちなさい。もうっ。許さないんだから」


 女の子は笑いながらも怒っているかのような口調で言ってテオを追いかけだした。実際に起こっているのかどうかは分からなかった。


「やーいやーい。つかまるもんかぁ」


 そう言いながら、女の子につかまらないように走っていると、テオは不思議と体が軽くなった気がした。体が軽くなったからか、走る速さも段々と速くなっていく。女の子とどんどん距離が離れていく。


「待って。ねぇ、テオ、待ってよ」


 遠くから聞こえてきたのは、さっきまでと違って泣きそうな女の子の声だった。走りながら後ろを振り返ると、女の子は走るのをやめていて、地面に座り込んでこちらに手を伸ばしながら叫んでいた。

 何かがおかしいと思い、周囲を見回してみると、テオの体は前を動いている黒い人の影のような物体にロープでつながれ、引っ張られていたことに気がついた。体が軽くなったのも、走る速さが速くなったのもそのせいだった。影の黒さが、周りの景色を侵食して行くように黒く染めていく。

 ロープを振り払おうと必死でもがいているところで、テオは夢から醒めた。


 テオが最初にする仕事はスコップで雪を掻くことだった。まずはホームの屋根に積もった雪を屋根に上って掻く。一日の間に積もった雪はそれなりに多く、これを行わないでいれば、屋根が雪の重さに耐えかねてつぶれてしまう。毎朝絶対に忘れることのできない仕事だった。テオはもう何年もやってきて慣れているので簡単にやっていたが、結構大変な仕事だった。


 屋根の雪をすべて下ろし終えると、次はホームに積もった雪を線路のない側に掻く。屋根があるとはいえ、夜の間に雪はホームの中に入り、踝の辺りまで積もるので乗客が来る前に掻いてしまわないといけなかった。


 テオがその仕事をしている間、サイモンおじさんはゲートに電源を入れ、いつ乗客がやってきてもいいように準備をしていた。ゲートの調整をするのはサイモンおじさんの仕事だった。テオはゲートに触る事を禁止されていた。そのため、何かゲートに異常があった時は、自分で対処はせずに、サイモンおじさんを呼びに行くことになっていた。


 テオが働き始めてから初めてゲートが異常を示した時、パニックになったテオは触ってはいけないと言われていたにもかかわらず、ゲートに触れて対処をしようとしたことがあった。

 テオがゲートに触れる前にサイモンおじさんが駆け付けたために、その行為は未遂に終わったのだが、サイモンおじさんはテオを酷く叱った。普段何をしても怒ることのないサイモンおじさんに怒られたことで、テオの中には絶対にゲートを触ってはいけないということが植え付けられた。


 この出来事が起こった裏には、サイモンおじさんがテオにゲートに触れてはいけない理由を説明しなかったことに原因があった。

 ただ、触れてはいけないとしか言っていなかったのだ。

 きっと触れてはいけない理由をテオが知っていたならば、パニックになっていたとしても絶対に触れていなかっただろう。とはいえ、その理由は簡単に説明できるものでもなく、サイモンおじさんは悩んだ末に説明をしないでいたのだった。


 最初の列車が来る前にゲートの準備とホームの雪掻きを終わらせておき、列車が来ると乗客の誘導をする。最初の列車の時には列ができていないので、どうしても整理しないと上手く綺麗な列になってくれないのだ。

 とはいえ乗客は素直に従ってくれるので、整理するのは簡単だった。これが終わってしまえば後は、トラブルがある時以外、ホームを箒で掃いているだけで良かった。


「あらあら、あなたは偉いのね。こんな歳から働いて」


 杖をついたおばあさんが掃除をしていたテオに話しかけた。テオに話しかける人がいないわけではないが、それは珍しいことだった。

 たいていの乗客は列車の中で話し相手を見つけて互いにずっと何かを話しているのだが、そのおばあさんは珍しく、話し相手もいなく一人のようだった。


「そんなことないですよ」


 テオは掃除のせいで頭からずれていた帽子を目深にかぶり直した。


「まぁまぁ、謙遜しちゃって。そんな若いころから働いている人なんて滅多にいないわよ」


「本当にそんなことないと思います」


「まぁ、照れちゃって。聞いてくれるかい。私の息子なんだけどね、20代後半になるまで働くことなんて一切しなかったのよ。なんだかよくわからないけど、音楽の夢を追いかけるんだってずっと働かないでいたの。ほとんど部屋に閉じこもっていたわ。私の夫が、他の人よりも多く稼いでいて、お金には困ってなかったから、夫も私も甘やかしすぎたのよ。駄目ね」


 おばあさんは笑いながら言った。テオもおばさんに合わせて笑顔を作った。


「結局、息子の音楽の夢は失敗しちゃったわ。でも今は息子もきちんと働いて家庭を持っているの。不思議よね。あんなに怠けた生活を送っていたはずなのにね。いつまでも子供みたいに思ってたけれど、そうじゃないのよね。気がつかないうちに、大人になっているのよ」


 おばあさんはテオではなく、どこか遠くを見つめていた。失われた遠い昔を懐かしんでいるようであった。けれど、テオにはおばあさんが過去を懐かしんで感傷に浸る気持ちがよくわからなかった。


 というのも、テオはここにきて働くまでの間の記憶を一切持ってなかった。ここにきて働き始めてからの記憶しかない。だから、自分がどこからやってきたのかを知らなかったし、家族のことさえ知らなかった。どんな両親で、どんな兄弟がいたのか。それもわからなかった。


 さらに言えばテオの毎日の生活にはさほど変化はなく、黙々と仕事をこなしてきただけだった。ただ、同じような毎日を繰り返してきただけで、懐かしむような記憶は持ち合わせていなかった。ここから一切外に出ることもなく、誰かが特別に会いに来ることもない。本当に代わり映えのない毎日だった。


 けれど、テオはそれでも幸せだった。

 生きていくのに困らず、自分の居場所があって仕事があって、存在理由がきちんとあったからだ。過去を知らなくてもテオは幸せだった。むしろ、下手に自分の過去を知ってしまえば、この暮らしが崩れ去ってしまうのではないかという不安もあって、過去の事は考えないことにしていた。


 そしてテオはこの日々が何も変わらないことを望んでいた。

 何よりこの土地が好きだったし、この仕事が好きだった。

 サイモンおじさんが好きだった。

 だからずっとここにいて、この仕事をして生きていければいいと思っていた。このままの生活が続いて行くことで困ることは何もなかったのだ。


「あらまぁ、私ったら、黙っちゃってごめんね。ちょっと昔の事を思い出していたのよ。もうずいぶん昔の話だけれどね。あの頃は本当に色々あったわ」


 おばあさんが、テオの顔に視点を戻して言った。

 おばあさんはそれから自分の息子がテオと同じくらいの歳のころは大変だったという話、夫が先に死んでしまって長い間一人で暮らしているという話、息子であれ

だけ甘やかしたのに、今度は孫を甘やかしてしまっているという話を長々とした。


 テオは嫌な顔をせずに、おばあさんの話を興味深そうに、時には相槌を打ちながら聞いた。テオの聞き方が良かったので、おばあさんはとても楽しそうに話をした。

 テオとおばあさんが別れた時、おばあさんは十分に話を聞いてもらえて、とても満足そうだった。テオはいつも他の人たちの話を会話に参加せずとも聞いていたので、どのように聞いていれば相手が喜ぶかをよくわかっていたのだった。

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