第2話 幽霊
強烈な眩しさに導かれて、目を開けると隣に美和が眠っていた。幸せそうな顔をして、眠っている。外で鳴いている鳥の声が微かに聞こえる静かな部屋の中に、美和の呼吸音がたゆたう波のように揺れて響きわたっている。朝だからなのか、部屋の空気が透明に澄んでいるように思えた。
平和な日曜日の朝。
きっと多くの人達がこんな穏やかな朝を迎えているのだろう。隣に大好きな美和がいて、忙しさに追われることもないこの時間が、愛おしい。
この幸せな時間が永遠に続けばいいのに、と美和を見つめながら思う。けれど、実際には一週間に一回、それも午前中のほんの一瞬しかこの幸せな時間は訪れてくれない。
隣にいる美和が体をくねらせる。美和はベッドの上に一つしかない薄い掛け布団を僕から奪って身体に巻きつけていた。動いたことで剥がれた布団の隙間からは、美和の健康的な白い肌が見えた。
美和は薄い水色のキャミソールを着ているだけなので、肌の大部分が露出していた。鎖骨から大きな胸にかけて通る紐から生地へのラインが甘美な曲線を描いていて、色っぽい。理想的といっても良いくらい綺麗な体をしている。モデルとして活躍していたっておかしくはないくらいだ。
そんな朝の時間に似合わない不埒なことを考えていると、『家路』のメロディーが部屋の中に鳴り響いた。設定している携帯電話の呼び出し音だ。時計を見るとまだ朝の8時。いったい日曜日のこんな朝早い時間に誰からの電話だろう。
「おはよう。休みの朝に電話して申し訳ないけど、昨日の深夜にサーバートラブル が起きたみたいなんだ。一応、今日出社している人員で対処にあたっているんだ が、どうも根幹的な部分がやられているようで簡単に対処できそうにないんだ。 一人でも多くの手が必要だから、もし今から会社に出て来られるなら、なるべく 早く出てきてくれないか?」
電話の相手は会社の上司だった。かなり緊急な案件らしく、捲し立てるような話し方に焦りが感じられた。上司の声の後ろから聞こえてくる音は、騒々しく、社内の慌ただしい様子が伝わってくる。
うちの会社はオンラインゲームの制作、および運営をしている。プログラマーの正社員として採用されたが、新しい作品を作るという仕事ではなくて、既に出来上がって運営していたオンラインゲームのゲーム内で実施されていくイベントのプログラミング担当をやってきた。上司の話だと、どうやら今朝から担当しているオンラインゲームがトラブルのせいで運営が出来ていないらしい。
ちょうど他のプロジェクトのマスターアップが目前に迫っていてそちらに掛かりっきりになっている社員も多いので、急なトラブルに対応できる人手が足りないのだろう。ただでさえ、残業が多いのに休みの日に出社なんてしたくはないけれど、代わりに明日を休みにしてくれるというので出社することになった。
「どうかしたの?」
出社できるように寝巻から服を着替えていると布団にくるまっていた美和が、布団に纏わりついたまま起き上がって、完全に発声しきれていない猫なで声で言った。
「急なトラブルで休みがなくなったんだ。ごめん、会社に行ってくるよ」
それを聞いた美和は、せっかくの休みなのにとか、今日は買い物に付き合ってくれる約束だったのにと不満を言い続けた。自分だってせっかく二人とも休みの日なのに、今から会社に行って仕事なんかしたくない。でも会社の非常事態のようだし、上司の頼みを無視することはできない。
仕方がないので、思い切って幼い子供みたいに駄々をこねている美和を抱き寄せて、唇に口づけをして黙らせた。美和はうっとりとした顔をして、それ以上何も言わなかった。そうして美和が落ち着いた隙に、すばやく家を出た。
車に乗っても美和の柔らかい唇と触れ合った感触が残っていた。手で触れてみると、まだほのかに唇が湿っていた。帰ったら思いっきりキスをしてやろうと思いながら、車を発進させた。
日曜日の朝だからか、道路は普段よりも空いていた。その影響か、かなりのスピードを出している車がちらほらいる。普段の渋滞の憂さ晴らしでもしているのだろうか。これだけ空いているとそういう気分にならないわけではないが、見ていて危なっかしい。
車を走らせていると、道路の先の方に猫が座っているのが見えた。
猫はこちらに顔を向けている。
距離があったので、車が近づけば何処かへいなくなるだろうと思ってブレーキをかけずにいたが、近づいても猫は一向に動く気配がない。このままでは轢いてしまうと思ったので、慌ててブレーキをかけた。
車はなんとか猫を轢く前に止まった。
フロントガラスから見える猫の姿は驚く様子も、動く様子もまったくなかった。猫が頸から掛けているペンダントのようなものに太陽の光がきらりと反射して目が眩み、背後からクラクションの音が鳴った。
クラクションを鳴らしたのは距離が離れて後ろにいた青い普通車で、隣の車線に移って走り去って行った。前を走っていた車が突然ブレーキをかけて止まったら驚くのは仕方がないが、道が空いていたので距離も離れていたし、クラクションを鳴らす必要はないんじゃないかと思うと嫌な気分だ。
猫があまりに動かないので、本物の猫ではなくて精巧な作り物じゃないかと思い、気になって車を降りた。目の前に行っても、動く様子はまったくない。
生きているのか確認しようとかがむと猫は前触れもなく急に動きだし、胸の方に飛びかかってきて軽く体がぶつかると、何処かへ走り去って行ってしまった。ただの肝が座っている猫だったとでもいうのだろうか。
なんともお騒がせな奴だ。とにかく轢かなくてよかった。
余計な時間がかかったと思いながら車に戻り会社に向かって走らせていると、途中の道路で何台かの車が不自然なところに止まっていた。何事かと止まっている車の先を見ると、トラックが普通車と衝突して煙を上げている。
その様子から、事故が起きてからまだそんなに時間が経ってないようだった。普通車の方は、運転席側の方が完全に潰れていた。原形をとどめていなかったので、最初見た時には気が付かなかったが、よく見るとこの車は先ほどクラクションを鳴らしてきた車だった。
もしあの時、猫が道路にいなくてそのまま進んでいたとしたら、あのトラックにぶつかっていたのは自分だったのかもしれないと思うとなんだか恐ろしかった。もちろん、運転の違いによって事故が起こらなかった可能性も十分にあるが、結果的にあの猫に救われたと言えるのかもしれない。遅れてしまうが、道が通れないので仕方なく回り道をして会社に向かった。
「日曜日に運営できないとか洒落になんねーぞ。早く原因を探して、利用できるよ うに直さないとこのゲームの運営自体が終わっちまうぞ」
会社に行くと、廊下からでも聞こえるくらいの声で、上司の怒号が飛んでいた。
「おう、やっと来たか。どうやら昨日からSサーバーが完全に停止しているらしい んだ。今、手わけして原因を探しているから、さっそく取り掛かってくれ。とり あえず、現状はチーフに聞いてくれ」
上司の額には汗がべっとりとしていた。さっそく、チーフの元に行って、問題の起こっているサーバーの状態を教えてもらう。
どうやらSサーバーの中でも一つのエリアの中で深刻な問題が起こっているようだった。そのエリアで起こっている問題の影響で、サーバー全体に2次的被害を起こさせているらしい。
「問題になってるエリア、噂のエリアなんです。やっぱりかーって感じですよね」
自分のデスクに着くと、最近契約社員としてここで働き始めた、隣のデスクの岩田が話しかけてきた。
「噂って?」
「えっ、知らないんですか。あのですねぇ、主にあるギルドを中心に広がっている 噂なんですが……どうやらここのエリアに出るらしいんです」
「出るって何が?」
「そりゃもちろん幽霊ですよ。プレイヤーでもなく、NPCでもない男のキャラク ターが出るって噂です。いつも変な動き方をしていて、変なことをしゃべってい るらしいんですよ」
岩田は顔を近づけて来て他の人達に聞こえないように小さな声で言ってきたが、その内容の馬鹿馬鹿しさには呆れた。
「はぁーまったく。デジタルなデータの世界に幽霊なんて出るわけないだろうが」
「わからないですよ。デジタルなデータだからこそ、そういう心霊的な電波を受け 取りやすいのかもしれないじゃないですか。ただでさえ、よくわからない力です からね」
「でもなぁ、デジタルな世界こそ、きちんとした法則で動いているんじゃないか。 そんな分けのわからない力に干渉されたらたまったもんじゃない。うちらプログ ラマーの存在意義はどうなるって話だ」
「う……まぁ確かにプログラマーという仕事をしている以上、そんなこと信じるべ きではないですよねぇ。すいません……でも子供のころからそっち系の話が好き なんですよ。この世の中には不思議なことであふれていますからね」
「まぁ、そりゃ俺だって幽霊みたいな超常現象を信じないわけじゃないけどなぁ。 でも今回の話は幽霊の仕業だなんて思えないな。もし本当にそういう動きをして いるキャラクターがいるならそれは、改造プログラムを使った悪質なユーザーの いたずらな可能性が高いだろ」
「ユーザーの違法プログラムですか……でももしかしたら、端末の外で、つまりP Cを操作しているのが幽霊って可能性だってあるかもしれないわけですよ!」
「そんなことあってたまるかって話だよ。幽霊がPCを操作するなんてありえない だろ。無駄口叩いてないで、早く原因を探さないと今日は仕事終われないんだか らな」
「ちぇー」
岩田はつまらなそうな顔をして、作業に戻った。
先ほど上司が言っていたように、早く利用を再開できるようにしなければならない。もちろん新規の客を獲得するのも大切だが、オンラインゲームは固定客に向けて商売をしているようなものなので、このトラブルを区切りにとサービスの利用を止められてしまってはたまらないのだ。一回のトラブルでも利用者の信用をなくしてしまえば、それで終わりなのだ。
一度離れてしまった客を再び呼び戻すのはオンラインゲームの性質上、不可能に等しい。
パソコンが起ちあがったので作業を開始しようと思ったが、その前になんとなく気になって右ポケットの中に手を入れてみると、宝石のように透き通った青い色の石が入っていた。こんな石にはまったく見覚えがない。さらにポケットの中を探ってみると、他にも見たことのない紙切れが入っていた。硬い材質の小さな紙で、矢印といくつかの数字と文字が書いてある。
一体これは何だろう。こんなものを自分でポケットに入れたことはない。自分ではないとしたら、美和が入れたのだろうか。でも一体どんな理由でこんなものを入れたのだろう。何の箱にも入れられていないこんな裸になったままの石がプレゼントってわけはないだろうし、入れる理由が分からない。
不思議に思ったけれども、そんなことにかまっている暇はなかった。家に帰ってから美和に見せて聞けばいいことだ。今はトラブルを解決するために原因を探さなければならない。
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