やはり、酒場の主人は戻ってこない。

 戻ってくるときには、ムエレ親分とやらの身内を山ほど連れてくるのだろう。

「お客さんたち。今にここへ、ムエレの子分が雪崩れ込んできて、修羅場になりますぜ。命が惜しければ、ここから出て行くのをお勧めしますよ」

 店の隅で酒をチビチビ飲みながら、札で遊んでいた三人は慌てて店の外へ出ていった。

「みなさん。人間の中にも、約束を守ることを大切に思っているものがいることを、ここで証明して見せますから、そこで見物していてください」

 鹿人しかびとに声をかけておく。戦いに巻き込まれる可能性もあるが仕方ない。ここは俺の腕前を見せておく必要がある。

「ネリーとシーネは、部屋に入って中から扉を閉めて隠れているんだ。俺がやられたら、金だけもって窓から逃げ出すんだ。まあ、いらぬ心配だがな」

 上からこちらをうかがう二人にも声をかけておく。こちらは一人。酒場のまわりを取り囲んで火を放ったりはしないだろう。

 喉が渇いた。勝手にエールを注ぎ、一気に飲み干す。さあ、準備はできた。


 ムエレは、なかなか姿を現さなかった。出入りだというのに、これほど反応が鈍いとは大した親分ではないのだろう。それとも、この町で喧嘩をするような相手がいないということか。

 たっぷりと待たされ、こちらから殴り込みをかけようかと思った時、酒場の外に人の気配がした。

 外から中をうかがう目、目、目。

「逃げも隠れもしない。こそこそせずに、中に入ってくればどうだ」

 ビビったと思われては負けの世界。面白いように挑発に乗ってくる。ゾロゾロと酒場に入ってきたのは十四、五人。でっぷりと太った、仕立てのいい服を着ているのがムエレ親分か。手に手に短刀、剣、槍、棍棒を持っているのが子分たち。

 気持ちの悪い沈黙があたりを支配する。ええい、面倒だ。

「お控えなさって」

 膝を曲げ、腰を下げて手のひらを上に向ける。

 喧嘩に来たら、仁義を切られた。それだけで場の空気が変わった。なぜ鹿人を助けるのか、相手は何者なのか、そういった疑問が霧散したのだ。渡世人が相手なら理由は一つ。縄張り争いだ。この町の縄張りを、どこかの親分が狙っているということ。この得体えたいの知れない男は、どこかの組織の先兵なのだ。

「手前、生国知らず。父母の名も知らず。天涯孤独の名をユーエン、通り名を八角棒と発します。お見掛け通り、しがない者でございますが、曲がったことが大嫌い。人間のくせに、約束を守らない畜生にももとるクズに一言いいたくてまかりこした次第です」

 けなののしり日常茶飯事。面子メンツを潰されては、渡世人として生きていけない。だが、ムエレ親分はグッと怒りを飲み込んだようだ。

 そのとき、鹿人の一人がポツリとつぶやくのを、俺はきき逃さなかった。

「オマエ、ユーエントチガウ」

 違うというのなら、父親を知っているということだ。敵を前にして、思わずニヤリとしてしまう。

「流れ者の分際で、このムエレ様をクズ呼ばわりするとは頭がおかしいのか。お前はどこの身内だ」

 俺の笑顔を挑戦と感じたのかもしれない。やたらと強気な侵入者。その後ろ盾を知るまでは手を出さないつもりなのか。

「心配するな、どこの身内でもないぞ。俺を殺しても誰も文句をいってくる相手はいない。殺せれば、だがな」

 これ以上我慢することは、親分としての沽券こけんに関わる。本当かどうかはともかく、誰とも関係がないといわれたのだ。見逃すわけにはいかない。

「やれっ!」

 ムエレの号令一下、子分たちが襲いかかってくる。

 腰を引き、腕を精一杯伸ばして剣を突き出した男が二人近づいてくる。典型的なチンピラの剣術。しかし、チンピラ剣術もバカにしたものではない。腰が引けているから、急所に攻撃が届きにくい。腕を伸ばしているので間合いが長い。腰の入っていない一撃でも当たり所が悪ければ大けがをするし、一対一ではないから、ケガをさせれば他の仲間が仕留めてくれるかもしれない。

 だが、そのチンピラ剣術は棒の前には無力だった。

 二度鋭い突きが繰り出され、それぞれの右手の甲を打つと、鈍い音を立てて二本の剣が床に転がる。

 そのまま踏み込んで、人中を二度突けば、口から血を吹き出して戦意を喪失した男が二人できあがり。

 二人の頭越しに突き出された槍の螻蛄首を掴むと、そのまま強く引き寄せる。槍の使い手は剣を失った男とぶつかり、体勢を崩したところに側頭部を痛打されて崩れ落ちた。

「死にたい奴からかかってこい!」

 一喝すると、敵の中に躍り込んだ。

 打っては殴り、突いては叩く。敵の半分が床に倒れ伏すと、ムエレが逃げ出すのが見える。

 親分に逃げられては面倒だ。隠しポケットからつぶてを取り出すと、その後頭部へ向かって投げつけた。

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