朧月と夢

――夢を見ていた。近くて遠い日々の夢を。朧気で克明な日々の夢を。


 妙に冴えてしまった目を恨み、台所へと向かう。窓から入る月明かりは、ぼんやりと自分を見ていた。蛇口をひねり、コップ半分ほどに水を汲む。一口含むと、春先だというのにひどく冷たく感じられた。飲み干す気は失せ、残りをシンクに流す。


 寝室に戻り、雑に敷かれた布団の上に腰を下ろした。狭い狭いと愚痴をこぼしていたはずの部屋は、自分ひとりを収めるには広すぎる気がした。カーテンの隙間からは、やはり月明かりが届いている。


 どうにも落ち着かなくなり、カーテンを開け、ふと窓から空を見た。月を取り巻く雲は、絶えず少しずつ動いている。確かに時は、平生となんら変わりなく進んでいる。だというのに、その流れは自分だけを置いてけぼりにしているようだった。自分の時間は、いつからか止まってしまっているのではないか。明けない夜はないと云う。しかし、この夜だけは、永久に続く気がした。この朧月に、世界は見下ろされ続けるのではないか――


 日頃は感じない孤独感が刺さった。月明かりが嫌になり、窓辺から離れ布団に体を投げ出した。なんとなしに時計を一瞥すると、やはり時間は進んでいるようだった。自分を置きざりにして。胸に手を当て、鼓動を感じてみる。それを確かめたところで、死んでいるような心地が拭えなかった。寝間着の薄さゆえか肌寒さを感じて、しっかりと掛布団を被り、機械的に目を閉じた。





 まどろみの中で、人が近づいてくる。よく見知った彼女は自分の隣に来て、佇む。すると、いつかどこかで、二人で見た光景が、とめどなく広がった。あの日見た桜が、花火が、紅葉が、銀世界が、辺りを彩る。あの頃のように、二人は同じ景色を瞳に映している。隣に目をやると、彼女はこちらを見返して微笑んできた。手を伸ばせば届くはずなのに、どうしてかその距離は無限にも感じられた。こんなにも鮮やかに描かれたキャンパスの中で、自分だけはモノクロに塗られている気がした。


 彼女は自分に、とりとめのない話を始めた。本当にどうでもいい、それを聞いたところで一銭の価値もないような類の話を。しかしその安っぽい話に、自分はかけがえなのない価値を見出してしまうのだった。かつてはそうは思わなかったはずなのに。彼女と交わす言葉の一つ一つが値千金に感じてしまう。彼女の表情が、声色が、仕草が、この上なく心地よかった。


 夢想感の中でも、時は刻まれていたようで、短くも長くも感じたこの逢瀬にも終わりが来たようだった。二人を囲む桜は花びらを散らし、花火大会は終了のアナウンスを告げ、彩った木々は化粧を落とし、積もる雪は水となり流れた。辺りにはもう何も無い。ただ白色な世界が広がるだけ。キャンパスから色が抜けた。


 そんな世界の中で彼女は未だに色を持っていた。洒落た格好がよく似合う彼女は、自分に向かって手を振ると、踵を返し離れていく。とっさに手を伸ばすと、自分の手が黒い輪郭に白色があるだけの存在になっていることに気づいた。どうやら自分もこのモノクロな世界の一部に過ぎなかったらしい。感嘆も程々に、一心に彼女を追いかける。しかし、決して追いつくはずもないことを、頭のどこかでわかっていた。いつの間にか視界から最愛の人の姿は消え、世界は完全に白色不透明で埋まった。伸ばし損ねたこの手は、もう二度と届かない気がした。





 目を覚まし、寝ぼけ眼で窓辺を向く。月は去り、代わりに太陽が自分を見下ろしていた。数時間前に広く感じた部屋は、相変わらず自分一人には有り余るようだった。



――夢を見ていた。ありふれたようで、かけがえのない日々の夢を。もう戻らない、決して戻れない日々の夢を。













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