第2話 水晶峰の削り氷
イノリの朝は早い。
いつ来るかわからない旅人を待って、話を聞くだけじゃないか、と思うかもしれない。だが、自分が使う場所を自分できれいにするのは社会人としての基本だ。
真っ白な部屋、ふかふかと頼りない絨毯。まるみを帯びたテーブルと一体になった、床から伸びる快適なスツール。のどが乾いたら好きな飲み物だって在る。それが朝起きたら勝手に準備がされていると思ったら、大間違いだ。
丁寧にテーブルを拭いたあと、力を入れて布を絞り、もう一度丁寧に空拭きする。すると、まるみを帯びたテーブルにすこし、つやが出たような気がする。そのことに気づくまで、何度も試行錯誤をした。手を動かす。昨日より今日が、すこしきれいになった感じがする。その時間を、イノリは気に入っている。
トントントン、なんの音。
今日も来訪者がやってくる。
***
人間。美少年。未成年男性。金髪。華奢で、抱きしめたら折れてしまうそうな細い身体。西方でも限られた地域の特徴である金の髪と青みがかった碧眼。よくあるまがい物ではない。“紀録の書庫(save room)”に、それは存在できない。白い世界に鈴が鳴るような音が響く。
「名前は?」
「カンヴァル。商家の生まれです」
甘やかなソプラノの奥に、教育と教養が感じられる響きだ。イノリは少し、機嫌がよくなった。帝国が広いと言っても、その大部分は荒野である。荒海である。荒山である。その間にへばりつくように農地や放牧地が点在し、帝国の食と富を支えている。ゆえに、華やかなりし都市部の印象とは裏腹に、帝国臣民の大多数は農民であり、奴隷であった。貧しさとは、視野の狭さである。寝床と労務と排泄を往復してきた人々とのままならない交流は、十日も続けば飽きが来る。どうせ働くのであれば、美少年と過ごすほうがテンションが上がる。知が冴える。
「飲み物の好みは? なんでもあるぞ」
「なんでも、よろしいのですか」
「くどい」
「では、水晶峰の削り氷を。なんでもよろしいのですよね」
イノリはこめかみを押さえた。はー。かわいい。ではない。美少年は飲み物に氷をオーダーした。それは、氷をあたためれば水となって溶け出し、やがては天に昇って雨となる。地と水の理を弁えているということだ。同じ働くにしても、話し相手は知的な美少年がよいではないか、よいではないか。
「わぁ……! すごい!」
「そうだろう」
声に出てしまった。この部屋にはなんでも在る。未踏峰の処女氷を割り砕いた結晶といえど、例外ではない。イノリは美少年の率直な賞賛に、自分のことのようにプライドをくすぐられた。
「味付けはいいのか。果実もあるぞ。南部のイチゴなどがおすすめだ」
「果汁を使えば氷が溶けてしまいます。お姉さんのような美しい方と過ごす時間を削って捨てる無粋は商家の流儀ではありません」
「きみ、何人それで抱いたんだ?」
えっ? 美少年は傷ついたふうでもなく、驚いた様子でもなく。心から意外そうな顔をして見せたのだから、年頃の小娘たちなど赤子の手をひねるようなものだったのではないか。
「せっかくだからおいしく食してもらいたいのだがな。もったいない」
「では、茉莉花の茶を粉にしたものを少々頂けますか。水晶峰の氷はほのかに甘いのですが、時に文明の香りが懐かしくなりましたもので」
「溶ける。食べろ」
イノリは半眼になった。だんだん、うさんくさくなってきたのだ。だが美少年が旺盛な食欲を発揮しはじめると、その様子をじっと眺めていた。
「キーンって、ならないのか」
「はい、不思議と。海氷とは、中身が違うようです。僕の15の祝いに父がこんな」
巨大な岩山を手で示す。
「海氷だったものから切り出してくれた氷を初めて食べた時は、キーンとなったものです。僕は初めて知る痛みさえも、大人になった証のようで、嬉しかった」
さらりと、こちらも未踏の海の味を自慢されてしまった。しょっぱいのか、と聞こうとして、やめた。なんだか、負けたような気がするからだ。好戦的な気分になってきたことを自覚しながら、イノリはスツールに腰かけた。やっぱり、磨きたての椅子は気持ちが引き締まる。
* * *
執務中。(刑務時間内の飲食を禁止する法律は存在しない。ただし、休憩は認められない。)
* * *
イノリは悔しかった。美少年が語る自慢話、いや、四海を巡る冒険譚に、テンションが上がってしまったからだ。聡い美少年だとは思っていたが、美食の本質が未知にあり、乗り越える困難が大きいほど得られる味わいは大きい、という考えには、
「それな!」
と言ってしまったほどだ。だが、遅めの昼食後はイノリのターンだった。だんだんと、弁舌なめらかだった美少年の表情が翳り始めたのだ。
「帝国法はご存知ですね」
「無論。そらんじてやろうか?」
「ご冗談を。帝国法、とりわけ財法の複雑怪奇な条文と付帯事項をすべて把握している者などいずれの学院にもおりません」
イノリは、美少年が深く、深くため息をつく間に、本当に帝国法とその抜け道を全部教えてやろうかなと思った。時間はたくさんあるのだから。
「で?」
でも聞いてしまった。好奇心は猫をも殺す。日々退屈を持て余しているイノリにとって、この男の没落の物語の香りは、極上の蜂蜜よりも甘く甘く胸をとろかしたのだ。
「ある年、死文化していた条文が発掘され、税制が一新されました。法…神? 税」
「法人税な」
イノリは少し気分が良くなった。
「消費税。通商関税。法人税。ぜいたく税。わけのわからない税が世にあふれ、徴税の方式が一新されたんです」
「それまでの抜け道が」
「すべて潰されました」
美少年の額に、その見た目にふさわしくない深い深い皺が刻まれた。
「どんな税にも抜け道はあるんじゃないか?」
「商売の余地なら、ありました」
イノリの瞳に、心からの賞賛の色が浮かぶ。帝国通商史を紐解けば、そんなに生易しいものではなかったことは誰にでもわかる。それはただただ商人を殺し、人を殺し、国を殺すためだけにあるような狂った税制だった。
「取引を内需に絞り、利ザヤを稼ぐことに専念する。人は麦を食べねば死ぬのです。それがどんなに狂った値であっても、パンは売れるのです。僕の商会は理想を失った豚に堕ちました」
「そのパンで命をつないだ人もいたんじゃないかな」
「そうかもしれない。でもそんなことはどうでも良かった」
囁くようなトーンに声を落とした美少年の眼差しに、イノリはまたテンションが上がって、ハッとしたように立ち上がった。
「ちょっと待って!」
無邪気にテンションを上げながら。踊るように軽やかに。夢見るように残酷に。
「ヒントもらいすぎちゃった」
それはすごくすごくテンションが上がる謎かけだった。果てしない時空のパズルの先。ひとつの無駄も許されない選択と叡智の果てに辿り着いた男がいる。この男は、百年に一人の本物だ。口角が、ありえない形に吊り上がる。
「きみは最高だよ。チューしたい! わたしにはわかる。わたしだけがわかる。システムコール! アンサー!」
勝利を確信して、高らかに叫ぶ。彼の言葉には、彼の選択には無駄がなかった。全てを削ぎ落し、歩み続けた者だけが至る世界の秘密。
「カンヴァルが夢見たものを応えよう。それは四海の向こう側! 未知なる美食の探求!」
高らかな叫びに応えるように、白い世界が真っ白に発光した。
光が収まった時に、机に伏しているのは紅顔の美少年ではなかった。それは、美食と老いの残骸だった。
「きみは、海の向こうのドリンクをオーダーすれば良かったのにね」
それでは、意味がないんです。
「そうだね」
イノリは少しはにかんだような音色の幻聴に、ひどく落胆したような、平坦な表情で返事をすると、机の汚れを床に突き落とした。ふわふわの絨毯が、それを音もなく受け止める。
「でもね」
床の汚れをふわふわのモップで拭いながら。
「四海の向こうには、何もないんだよ」
吐き捨てた。
「そこには何も」
Chapter2“The Merchant”re:corded.
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