第8話
形ばかりの乾杯を済ますと、宮部は一気に泡立ったビールを咽喉の奥に流し込んだあと、ふうと大きな息を吐いた。その時、ほかの客の「ママ、おかわり。焼酎ちょっと少なめで」と大きな声が聞こえた。
客の用を済ませたママは、ふたたび宮部のところに戻って来て言う。
「何か造りましょうか、きょうはブリのいいのが入ってるけど」
ママはよほど仕入れたものに自信があると見えて、言葉に澱みがなかった。
宮部はそれだけでネタの想像がついた。
「それもらうかな。それと、おでんを適当に」
宮部は少し考えて、「ついでにあれも」といって、大皿に盛ってある筑前煮を指差した。
宮部は手酌でビールをグラスにつぐ。上顎を火傷しそうな大根のおでんを頬張りながら冷えたビールを呷った。筑前煮を箸で摘みながらふと仕事のことを考える。知らず知らずのうちに、いつもの癖で明日のスケジュールを頭の中で組み立てている。もう何十年とそうして繰り返してきたために、躰に染み込んでしまって抜けきらない。
「宮部さんやないですか。お久しぶりィ」
ふいにカウンターの折れた辺りから嗄れ声が聞こえてきた。
カウンターに載ったカサブランカの活けられた大きな花瓶で見えなくて、宮部が声のするほうに首を倒すようにして覗き込むと、出来上がった顔で宮部に愛想を振り撒く玉木の顔があった。
久しぶりに玉木の顔を見た時、宮部は一瞬新しい記憶のなかにどこかで会ったような気がした。
玉木という人間は以前この店でたまたま隣り同士になり、話を交わしているうちに意気投合し、それが切っ掛けで、以来お互いがひとりの時は自然と隣りに坐って飲むようになった男である。連れの男には見覚えがなかった。
「やあ、玉木さん。何ヶ月ぶりかですね。お元気ですか」
ひとりで飲みたかった宮部だが、声をかけられた手前返事をしないわけにいかない。適当に相槌を返しておけば、もう随分飲んでいるようだからすぐに帰るだろうと思い、しばらく我慢することにした。
「まあ、ぼちぼちですわ。宮部さんは相変わらず忙しいんでっか」
玉木は、丸い大きな赧ら顔を見せながら、こてこての関西弁で言った。
「ええ、まあ。玉木さん、きょうは早くから?」
仕方なく宮部は挨拶代わりに訊く。
「そうでんねん、五時半から飲んでますわ。会社へ戻ると、何やかんやと用事が出来まっからね。たまにはこういうことがあってもよろしやろ。もうちょっと飲んでからよそへ行こと思うてますねん」
そう言ってから玉木は嬉しそうな顔をしてビールグラスを呷った。
「結構ですね」と、そこまで話をした時、四角い皿にきれいに盛られたブリの刺し身が目の前に出された。ブリはママが言ったとおりキラキラと耀く脂の乗った上物だった。
それを見たとたん、せっかくの刺し身だからと思い、ママに日本酒を追加した。
玉木との会話はそこで途切れてしまった。まあ、どうせ向こうも話がしたかったわけではないだろうと勝手な推測をする。
宮部はこの店に通うようになって随分となる。たまたま仕事で通りかかった時、酒飲みの勘というやつで、一度入ってみたいと思ったのがそもそも。
一見高級そうに見えたのだが、思い切って入ってみると以外にそんなこともなく、ママも客あしらいが上手く、それが切っ掛けでちょいちょい足を向けるようになった。
通いはじめて間もない頃、聞き上手なママと世間話をしている時、たまたまギョウザの話題になった。
じゃあ一度土産に買って来る、と約束をした宮部は、一週間後にギョウザを持って店に現れた。時間が遅かったせいもあったが、都合よくほかの客がひとりもいなかった。酒を飲んだ上でのことと、あてにしてなかったママはたいそう喜んで、以前店で包丁を握っていた板前と三人でギョウザを突っついた。
ギョウザを食べながらママが、
「宮部ちゃんは真面目ね。ちゃんと約束守るんだもん」
と、感心しながら言った。
「そうかなァ」
宮部は少し照れ臭そうに俯いた。
「だって、あまり大きな声で言えないけど、うちのお客でゆったこと守るの宮部ちゃんぐらいよ。ほかのお客は口ばかりなんだから、ねえ、タカちゃん」
と、板前に向かって言ったのを覚えている。
以後土産のギョウザが発端となって急速にママとの距離が縮まった。ママもまんざらでもなかったらしく、宮部が店に顔を見せると急に声に艶をのせるようになった。
それからしばらくして、常連客やその連れが十二人ほど参加するママ主催のゴルフコンペが催された。その中に宮部も混じっていた。結果は宮部が二位でママは八位という成績で終わった。
これまではコンペが済むとひさごに戻って二次会で盛り上がるのがコースとなっていたのだが、飲酒運転の取締りがうるさくて、下手をすると店を閉めなければならなくなるという口実で、ゴルフ場での解散ということになった。しかしこれはあくまでもママの計算
された筋書きでもあった。
ママはゴルフ場でほかのメンバーを見送ったあと、宮部の車に来た時と同じように平然とした顔で乗り込み、宮部に車を出させた。
時折宮部にルームミラーを見て欲しいと言い、後ろにメンバーの車がいないことを確認しつつ国道を走った。やがて国道から少し離れたところに見える妖しげな場所に宮部を誘った。
宮部は随分前からママの気持を察していた。別に夫婦仲がよくないことはなかったが、男の性と言うべきなのか、征服欲に流されたと言えばいいのかわからないままママの誘惑を受けた。
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