第7話
それでも仕事が片づいたのは七時を過ぎていた。きょうぐらいは早めに仕事を切り上げて気分転換をと考えていたものの結局はこの時間になってしまった。
コートを小脇に抱えて会社を出ようとした時、同僚の田崎が声をかけてきた。
「おう、宮ちゃん、きょうは早いね」
この十日間ずっと遅かったのを見ていたからこの言葉が出たのだろうが、宮部はこれでも遅いほうだと胸の裡で思った。
「ああ、ちょっと用があってね」
宮部は田崎の顔を一瞥したあと、エレベーターホールに向かう。
退社時間が重なっているせいで、なかなかエレベーターが降りて来ない。上司と顔を合わせたくなかった宮部は、いっそ階段で降りようかと思った。
やっとエレベーターの扉が開いたと思ったら、先客が七人ほど乗っていた。コートを持ち替えて遠慮がちに乗り込む。エレベーターは都合よく一階までノンストップで降りた。
四基あるどのエレベーターからも会社が退けたサラリーマンが吐き出されて来る。宮部はその波に紛れ込むようにしてビルを出た。
身を切るような師走の冷たい風にたまらずコートの袖に腕を通す。吐く息が白い塊りとなって冷たい闇のなかに呑み込まれてゆく。
木枯らしの舞う舗道は忘年会に向かうのか、数人のグループが愉しそうに話しながら追い越して行った。
駅に近づくと、会社帰りのサラリーマンやOLが、街から聞こえて来る少し早いクリスマスの音楽に合わせるかのように、一定の歩速で目的の場所に向かって歩いている。宮部もつられるようにして、電飾が鮮やかに闇の中に浮かび上がっている街の中にコートのボタンをかけなおし、肩をすぼめてホームへ急いだ。
ホームで電車を待ちながら、傍にいた若い男女を見て、誰もが普段の会社帰りとは違う表情になっているようだと思った。やはり彼らも忘年会に向かうのだろう。自分も若い頃はどんな些細なことにでも一喜一憂しながら時間をやり過ごしたものだ。
羨ましくて仕方ないといった目で彼らの横顔を眺めた。
やがて人ごみに圧されながらも、滑り込むように入って来た電車に乗り込み、五つ目の駅で下車をした。
駅前の通りを横断り、しばらく歩いて左に曲がる。その店は裏通りの中ほどにあった。
路地には小さなラーメン屋に簡易食堂、それに紫色の照明看板を出したスナックが軒を並べている。店の前には、酒飲みの気持を揺るがす『飲み処・ひさご』と書かれた白い提灯が師走の冷たい風に細かく揺れている。
宮部は躊躇なく店のガラス戸を開けて中に入った。
「いらっしゃーい」
ママの元気のいい声が響く。久しぶりに聞く声だった。
「やあ、ご無沙汰」
コートを脱いでハンガーにかけながらいい、入り口に近いカウンターの隅に席を取った。
「ほんと。随分ながいこと顔見せなかったわね。どう元気してる?」
ママはおしぼりを手渡しながら笑顔を送った。
「ここんとこ忙しくてね」
おしぼりで顔を何度も擦りながら言う。
「あら、いいことじゃない。……で、飲み物は?」
ママは早速仕事に入る。
「そうだな、まず、ビール」
「銘柄はいつものでいい?」
ママはちゃんと覚えていてくれた。
「ああ」
店に入っての手つづきがこれで済んだ。
おしぼりを丸めながら店の中を見廻すと、宮部のほかにサラリーマン風のふたりづれが二組とひとりで飲んでる客の五人がいた。
「ひさご」は、鉤型になったカウンターがあるだけの小ぢんまりした店で、満席でも十人がやっと。白木のカウンターには大皿が三皿ほど並んでいる。煮魚、筑前煮、揚げ物、どれも旨そうな顔を見せていた。カウンターの隅にある銅製のおでん鍋からはゆらゆらと白い湯気が立ち昇っている。
宮部は、この店の適当な広さと少し幅の広いカウンターが好ましく思っている。
店はママと三年前に入った若い板前がいるだけで、ママは店を開ける前に大皿料理を拵えてしまえばあとは客の相手をする。客が来てからの注文は板前に任せっきりである。
客はほとんどが中年のサラリーマンで、料理の味もさることながら、小顔で目許がすっきりとした美人のママを目当てに通って来る。この時期はこういった店が以外に空いている。ほとんどが大人数を集客できる店で忘年会をやるからだ。
宮部は煙草に火を点けながらビールを待つ。有線からは演歌ではなく、ラブバラードの曲が流れている。演歌が嫌いなママの趣味でそうしていた。
「はい、お待ちどうさま」
ママは箸とお通しの小鉢を宮部の前に置き、「どうぞ」とビール瓶を傾ける。
「ママもどう?」
宮部はビール瓶を奪うようにして勧める。
「いただくわ」
ママは白くて細い指でグラスを囲むようにして差し出した。
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