第6話

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 十二月は普段の月とは違う。一年の締めくくりの月であると同時に、新しい年を迎える準備に忙しい月でもある。

宮部の会社でも同様、客先への今年一年の挨拶と、毎年恒例のカレンダー配りで蜂の巣を突っついたような忙しさがまさにはじまろうとしていた。

そんな月初めの月曜日、宮部が会社に顔を出すと、部屋のなかがいつもと違う騒然とした空気に包まれているのに気づいた。

「どうした、何かあったのか?」

宮部は主任の横山を捉まえて事情を訊く。

「部長、すいません」

「すいませんではわからんだろ。わかるように説明しろ」

「はい。じつは……発注ミスが見つかりました」

「何やってんだ!」

 宮部は内容を聞かないまま怒声を浴びせた。

だが、その時点では過去の経験からしてたいしたことはないと高を括っていた。ところがあとから進退問題に及ぶくらい重大な過失であることに気づくことになる。

 部下の横山の説明によると、タイの商社に冷凍エビの発注をしたのだが、サイズの違う品物が届いてしまった。宮部は上司に報告する上においてもどこに原因があったかを知る必要がある。ただちに関わりあった部下全員を呼んですべてを調べたのだが、不思議なことに発注過程では何も問題は見つからなかった。

 上司への報告を原因が解明するまで先延ばしにするわけにもいかず、とりあえず現在わかっている状況だけでもと思い、支店次長に事情説明をしたところ、すぐにバンコクに飛べと指示を受けた。しかし、宮部が自席に着くか着かないうちに支店次長から、バンコクには別の者を行かせるから、きみは客先にコンタクトを取ってすぐにでも謝罪に廻れ、と電話が入った。

 宮部はすぐに女子社員にランク別にした顧客リストをプリントアウトさせ、次に部下をふたりひと組にして客先を割り振った。部長の宮部は当然のことながらAランクの客へ顔を出すことになる。だがその数はA4の用紙にびっしり3枚はあった。しかしいま躊躇している場合ではなかった。

 それからの宮部は、朝早くに出社し、部下の横山と一緒に一日中客先廻りに奔走する。と言っても、午前中に三軒顔を出せればいいほうで、下手をすると一軒が精一杯ということもある。通常の営業とは違うのだ。

 昼休みの一時間は移動時間に当てるためゆっくりランチを摂っていることもできず、仕方なくコンビニかファーストフードの店で済ませる毎日がつづく。午後は午後で精力的に得意先を訪問するのだが、それでも六、七軒廻れればいいほうだ。この調子で行けば最低でも十日は必要となる。だがこればかりは何日かかってもやりきらなければならなかった。

 ぼろ布(ぎれ)のようになって会社に帰ると、今度は通常の業務が待っている。毎日がこれの繰り返しだった。徹夜に近い日が何日もつづき、ビジネスホテルの世話になることもしばしばで、妻にホテルへカッターシャツや替えの下着を持って来させたことも二度ばかりあった。

 幸いにも輸入品が地域限定だったために客先廻りも予定どおり十日で済んだのだが、五十になった宮部には相当堪えた。

まだ年末の挨拶廻りが控えていたが、ゴタゴタがやっとひと段落したせいで気が緩んだのか急に躰が脱力感を覚え、たまらず宮部は会社を脱け出して病院に向かった。

医師に症状を説明すると、医師は「おそらく過労のせいでしょう」と、あっさり診断を下した。治療室に呼ばれた宮部は、簡易のカーテン式衝立に囲まれたベッドに横たわり

黄色い液体の入ったガラス瓶を見ながら点滴を受けると、すぐに躰が熱くなり、それと同時に疲労感が足先から脱け出して行くように思えた。

 帰りに処方箋を受け取り、その足で近所の調剤薬局に向かう。薬剤師に薬を受け取る際に、「食後三十分以内に二錠飲んで下さい。お大事に」といわれ、恭しく薬袋をいただいて店を出た。薬剤師にかけられた優しい言葉が救いに思えた。

ランチを済ませ、いわれたとおり二錠の錠剤をミネラルウオーターで嚥下する。点滴のせいか躰が少し楽になったような気がしている。仕事に就きながら、きょうばかりは仕事を早目に切り上げ、会社の連中とではなく仕事を離れてひとりでゆっくりと飲みたい心境になった。

五十の声を聞くと、若い時と違ってなかなか疲労が抜け切らず、そのせいなのか時折り首から頭にかけて鉛を嵌め込まれたような重い痛みが突き上げて来る。後頭部に鈍い痛みを感じるたびに、もう少し躰のことを考えて仕事をしないとそのうちに取り返しのつかないことになるかも知れない、という不安が顔を覗かせる。

そう言えば、そのことを医者に話さなかったのを思い出す。なぜ言わなかったのだろう……少し後悔をする。

巷でよく耳にする言葉に、「人生、細く、長く」というのがある。人間の細胞というものは耐用年数が決まっていて、若い時に無理をしつづけると、歳を取った時にガタが来るのが早いというわけだ。思い返せば、そんなこと百も承知であるはずなのに、家族への責任と生活のために、何の躰の保証もないままにがむしゃらに突っ走って来てしまった。

(もう少し自分を大事にしないと――)

 今度病院に行ったら必ず医師に話そうと思った。

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