第5話

 やはり酔っている、いま聞こえたのは空耳だったのだ、と安堵しながらおもむろに首を戻すと、すでに正面の窓ガラスにあった男の顔は消えていた。

(飲み過ぎたせいで気味わるい幻視を見たに違いない)

 宮部は振り払うように、大野木と飲んでいた場面とその時の会話を思い浮かべる――。

 二十二才で私立K大学経済学部を卒業し、大手の商社に入社した。その後紆余曲折があったものの、三十過ぎで三年付き合った女性と結婚をした。俗に言う社内結婚である。

 そしてすぐに子供ができた。妊娠したことを妻に聞かされた時、自分が父親になることが信じられなかった。と同時に、家族に対しての責任というものを強く感じるようになった。仕事に対してもこれまでとは明らかに取り組み方が違った。ところがそれはたった二ヵ月しかつづかなかった。妻が流産したのだ。

 待望の第一子が流産した宮部の心の糸が音を立てて切れた。一度切れたものはそう簡単に元へは戻らない。仕事には集中できなくなるし、妻の顔を見るのが辛くて飲んで帰る回数も多くもなった。

 しばらくそんな毎日をつづけていた宮部の気持がある日突然入れ替わった。

 これまで宮部がどれだけ遅くなっても妻はひと言も文句を言わなかった。流産した責任を強く感じていたからだ。そんな妻の姿を見ていて、ようやく自分がしていることに気づいた宮部は、顔を下げ泪を流して妻に謝罪をした。

 そんな悲しい日々をようやく忘れた一年後、妻はふたたび妊娠をした。今度は昨年の轍を踏まないように、夫婦はもちろんのこと双方の両親も必要以上に気遣った。

 やがて無事に長男を出産し、「英人(ひでと)」と名づけた。夫婦はようやく生まれた英人を盲愛した。その英人もいまでは無事に高校に入学が決まり、これからはじまろうとしている受験戦争本番に向けて準備を整えているといったところだ。

 宮部は思った。

 あと会社勤めも十年そこそこで終わる。その間に最低でもやらなければならない親の責任として、英人を一流大学に入れ、そして卒業させなければならない――。

『俺のようになってしまったら終わりだから、くれぐれも健康に気をつけろ、命あっての物種だ』と、死んだ土田が遺してくれたとされるメッセージを口の中で何度も反芻した。


電車が駅に着いた。暖房の効いていた車内から出た宮部は、身震いをしながら改札に向かう。降車客は二、三人しかいなかった。

最終のバスまではまだ少し時間があったが、つい早足になった。バス停まで行ってから腕時計を覗き込む。まだ五分あった。すでに五人がバスを待っていた。宮部は風を避けるように建物の影に行くと、タバコに火を点けた。

半分ほど喫った時、ゆったりと車体を揺らしながらバスが向かって来るのが見えた。行き先を報せる電光掲示には、鮮やかなオレンジ色で『みどり公園口』と表示されていた。

ここから宮部の降りる「池田町」までは三十分ほどかかる。都心から離れているので通勤にはそこそこ時間がかかるが、糖尿病が原因で目をわるくした上に膝を痛めて自由に歩行のできない母親のことを考え、マンションより一戸建てをと、三十五年のローンを組んで購入した。いまから十年前のことである。

当初は疎らでしかなかった建物も、いまでは新興住宅地に変貌し、買い物に難儀をしていた妻も随分楽になったと喜んでいる。

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