第3話

 当初自分の仕事が取り上げられる寂寥感と、第一線を退くという敗北感に見舞われ、しばらく悩んだ時期があったが、時の流れは休むことがない、会社の将来を思うならばそれも仕方がないと頭を切り替えることにした。

「それに較べて、俺なんて小さな会計事務所の一社員。いまだに独立もできてない意気地なしだ」

「そんな言い方するのはやめろ。人の生き方なんて様々だ。いつものおまえらしくないぞ。それはそうと、仕事のほうは忙しいんと違うか?」

 宮部は目の前の焼き塩サバに箸を入れながら訊く。

「もう少ししたら年末調整と下期の納税で忙しくなるけど、給料計算が済んだとこだからそれほどでもない。それに、昔と違っていまはパソコンでやるから流れ作業のようなもんだ」

「じゃあ、久しぶりだし、今夜は土田を偲んで存分に飲むとするか」と、宮部。

「望むところだ。きっとあいつも喜んでくれるだろう。でも俺は結構遅くまで電車があるけど、おまえは大丈夫なのか?」

「そんなこと心配しなくていい。帰りたくなったら這ってでも帰るし、何ならホテルに泊まったっていいんだから」

「はッ、はッ、は。それなら気兼ねはいらないな」

 明るく笑った大野木は、高く手を挙げて店員を呼ぶと、熱燗を二本頼んだ。

「まだこれからだという時に、一家の大黒柱を失って、さぞ土田の奥さんも途方に暮れていることだろうな」

 一瞬口をへの字に結んで目を瞑った宮部は、胸のポケットからタバコの函を取り出した。

「どうして?」

「どうしてって、だって長年連れ添った亭主が亡くなったんだぜ」

 宮部は正面に大野木を見ながら目尻を上げて言った。

「そんなことを言うってことは、どうやらおまえの家庭はうまくいってるようだな」

「おまえの言ってる意味がわからない」

「だってな、世の中幸せに家庭生活を営んでるばかりじゃないんだ。いい例が俺だ。俺んとこなんて十年くらい前からずっと冷戦状態がつづいてる。必要以上の会話もなく、ただ淡々と毎日を過ごす。もちろん夫婦生活なんてない。最初の頃はそんな生活に耐えられなくて深酒をして気を紛らわしたけど、いまになるとそのほうが楽でいいと思うようになった。こんな家庭もあるんだ、だから亭主が死んでも悲しがる女房ばかりじゃないってことだよ」

 大野木の話し振りにはどこか真実味があった。

 宮部は大野木の話にすぐにはピンとこなかったが、世の中は様々だからまんざらでもないと考えたあと、自分の家庭が平凡ながらも毎日帰りたくなるのをあらためて感謝した。

「そうだったのか。だけど、そうなるには何らかの原因があったんだろうな?」

「ああ、おまえの言うとおり、原因はあった。まあ簡単に言うと、価値観の違いからくる性格の不一致というところだろうか。例えば、俺は家というものにそれほど執着がないけれど、うちのやつは必要以上に欲しがり、子供の教育に関していえば、本人の意思を無視して自分の勝手に描いたレールの上を走らそうとする。そうなったら傍から何を言っても聞く耳は持たない。そんなことが何度も繰り返されると、会話するのが嫌になる。その先に起こることが想像できるからだ。キザな言い方かもしれんけど、長いこと同じ時間を過ごして来ても、そんなもの何の意味も持たない」

「そんなもんかね」

「そうさ、そんなもんだ」

 大野木は届いたばかりの熱燗が入ったぐい飲みを一気に呷った。

 ふいに店内が騒々しくなった。奥で飲んでいた四、五人の客が帰るようだ。宮部は、ぐい飲みを手にしながら出口に向かうさばさばしたサラリーマンの顔を横目で見る。彼らもやはり一日の憂さを酒と愚痴で晴らして家庭に戻り、そしてまた明日をはじめることだろう、とそんなことを考えた。

「それに較べたら俺なんか本当に幸せなほうだな。夫婦の会話はあるし、息子も素直に育ってくれた。嫁と姑の関係もうまくいっているようだし。ただ……」

「ただ、何だ? 何か不安なことでもあるのか?」

「まあ俺にしてみれば仕方のないことだと思うんだけど、女房にしてみれば、仕事が忙しくなって家に帰るのが遅くなる日がつづくと、うるさいくらいに躰の心配をしてくる」

「いい奥さんじゃないか」

「そうなんだけど、顔を合わすたびに口にされると、ありがたいどころか逆に煩わしく思えてしまう。だけどまあ、あと十年ほどすれば定年退職になるから、それまで何とか無事でいたいというのは本音だけどな。それまでにリタイアするのだけは嫌だ」

 宮部は冗談めかして言ったが、いつも胸の隅に持っているのは事実だった。

「そりゃあそうだ。土田には申し訳ないが、少なくともあと三十年は生きないと、これまで頑張ってきた意味がない」

「確かにおまえの言うとおりなんだけど、いまから十年前――つまり四十の頃は時間が潤沢にあって、何に対しても前向きに考えることができた。ところが、五十を過ぎるようになると信じられないことに、残された時間がわずかしかないように思えて、足の爪先からじわじわせり上がって来る焦燥感におびやかされることが多くなった」

「宮部の言ってることはよくわかる。俺だって同じだ。いや、俺たちだけじゃなく、誰でもそうなんじゃないのか。だって森羅万象すべてが間違いなく終焉に向かって歩んでいる。残された時間の過ごし方については、すでにものを言わなくなった土田だが、ちゃんと忠告を遺してくれているじゃないか」

「はあ?」

「つまり、俺のようになってしまったら終わりだから、くれぐれも健康に気をつけろ、命あっての物種だ、とな。ま、土田に限らず、いつの場合もそうだけど、死者は生者に対して無言のメッセージを遺してくれている。あとに残された者がそれに気づくかどうかが問題だ」

 大野木は牧師か僧侶が聞かせる説諭のような言葉を口にしたあと、ぐい飲みをビアグラスに替え、ぬるくなった日本酒を波立たせながらついだ。

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