第5話 君へつながる、空の本
〜羽ばたこう、今一度〜
自分でも、なぜ、そんなところを歩いているのか、よくわからなかった。
何か、とても重大なことがあって、家を出たような気がする。
ちなみに、私の名前は、東堂威。
読みは、たけるだ。よく、たけしと間違われる。孫にも漢字違いの同じ名前をつけてしまったので、ややこしいのなんの。
夕暮れの町なかを歩いていると、初めて京都に来てから、ずいぶん長い年月が経ったのだなと、よくわかる。
昔は風情ある町家のならんでいた街並みも、今やビルとマンションだらけだ。わびしくなったものだ。
そんなことを考えながら、歩いていると、ビルのすきまに本屋を見つけた。こんなところに本屋なんてあっただろうか?
そもそも、ここは、どこだろう?
五条にある、うちの近所であることは、たしかなはずだが。
なんとなく、惹かれた。
あの本屋に行ってみたい。
行かなければ後悔する。
誰かに呼ばれているような気すらした。
吸いよせられるように、本屋の前に立った。
古めかしい町家だ。
きっと、古書店なんだろう。
どれどれ。孫の喜ぶような本でもあるだろうか?
孫も大学を卒業する。
推理小説が好きなようだから、昔の探偵小説でも置いてあればいいが。
私の身内は、もう同居している二人の孫だけだ。
生涯に二度、結婚した。しかし、二人の妻も、大勢いた子どもたちも、みんな若くして死んでしまった。
今の私には、二人の孫だけが宝だ。
とはいえ、大学生ともなると、なかなか喜ばせるのが難しい。昔はアニメの人形さえ買いあたえておけば喜んだもんだが。
そんなことを考えながら、本屋の引き戸をカラカラとあけた。なんだか、薄暗い。一瞬だが、何も見えなくなった。
ところが、一歩、足をふみいれた瞬間だ。
急に、あたりが、さんさんと明るくなった。陽光の明るさだ。まぶしいほどの青空が広がっていた。
な、なんじゃ……これは?
いつのまに青空市場に迷いこんだ?
じじいをからかってるのか?
いかに、よわい百とはいえ、まだまだ詐欺にひっかかりはせんぞ。
今時のバーチャルリアリティとかいうやつか?
しかし、本屋であることには違いない。
青空のただなかに、本だなが並び、奥にはカウンターごしに店主の姿が見える。
ないのは壁と床だけだ。
「いらっしゃい」と、店主は言った。
よく見ると、店主は孫の猛だ。
若いころの私に瓜二つの孫が、私が若いころに着ていた古い着物を着て、そこに、すわっていた。
瓜二つながら、男前なもんだ。感心する。
祇園の芸妓たちが黄色い声でさわぐのも、しかたない。いやいや、さわがれたのは、私だったな。
「猛か? さては、どっかの町家をかりて、ドッキリを仕掛けたな? どういう仕組みか知らんが、なかなかのもんだな」
笑いかけるものの、猛は愛想笑いをくずさない。
「お客さんは一見さんだね。まあ、たいていの人は一生に一度しか来ないがね。何か見てくかい?」
「他人行儀な口をきくなあ。まだドッキリを続けるつもりなのか」
「見ないんならいいんだが、こんなチャンス、二度とないよ。あんたが、これまでに、つむいだ言葉の数だけ、本がある」
「ふうん。孫のみやげが欲しいなあ」
「ほんとに? そんなもんでいいのか?」
「それより、この床は、どうにかならんのか。今にも落っこちそうで、不安定でいかん」
足もとを見ると、一冊の本が足の下にある。
つまり、本の上に乗ることで浮遊しているーーように見える。
「まあ、どうせ、ただのドッキリなんだろうがなあ」
笑って、足をふみだした。
すると、私の体は、ガクンと支えを失って、まっさかさまに落下する。
猛の姿が、みるみる遠くなる。
「そこの本は、好きに使っていいからな。じいさん」
そんな声が、ふってくる。
まったく、年寄りをからかいおって。
ドンーー!
と、強い衝撃があった。
暗い。今度は、なんだ?
まわりには、たくさんの本が散乱している。
本の山のなかに倒れていた。
「年寄りに乱暴するんじゃない!」
叫んで、おどろいた。
声が若い。
若いと言っても、たぶん、八十くらいだが、なんとなく、さっきより体力を感じた。孫といっしょに暮らすようになったころの自分のようだ。
本のかげから、もう一人の孫の顔がのぞいた。
しかし……さすがに、これは違和感を感じる。
推理小説好きの大学生の孫が、どう見ても、六、七さいになっている。
「薫か?」
しかも、着てるのは黄色い女児の着物だ。
孫は男の子のはずなのだが……。
「なんだ。なんだ。そんなカッコしてると、ばあちゃんに、そっくりだなあ」
「あそこにな。行かなあかんのえ」
かわいらしい指が示すのは天井だ。
いや、天井はない。本の山の向こうに、やはり、まだ青空が見える。
「ここはな。底なんよ。これをこうしてな。のぼってくんよ」
一冊の本を空間に置くと、まるで台に乗せたように、宙に浮かんだ。
そういえば、最初、私は本の上に乗っていた。つまり、これをふみだいにしろということか。
私がうなずくと、孫の薫は、ニッコリ笑って、走っていった。見えない階段をあがるように、どんどん、空の上部へと進んでいく。
「薫。薫。行ってしまうのか?」
「うちは、上で待っとるさかい。かならず来てや。かならず。かならずえ」
「都子さんみたいな京都弁だなあ」
薫は二度めの妻に似てると、以前から思っていた。女の子の着物を着て、あんなしゃべりかたをされると、ほんとに見わけがつかない。
ともかく、待ってるというのだから、行ってみるか。
本を腕いっぱい、かかえ、空間に等間隔に置いていった。置いた本を足場にして、さらに置いていく。
ありがたいことに、手が届かなくなると、本は自動で手もとまで飛んできた。
ドミノ? ドミノだな。
いや、積み木に似ている。
または、ブロックだ。
薫はレゴが好きだった。
兄の猛は、野球やサッカーや、体を動かす遊びが好きだったのに、薫は女の子みたいに、おとなしかった。一日中、レゴを組み立てていても、あきなかった。
その点は手のかからない子どもだった。
だが、夜中に泣かれるのには往生した。
「じいちゃん。じいちゃん。ねえ、お父さんとお母さんは、どこ行ったの? なんで帰ってこないの?」
「お父さんとお母さんは死んだんだよ。薫」
「なんで死ぬと会えないの? お父さんとお母さんに会いたいよ」
人は死ぬと、肉体を失う。
二度と会えない。
幼い薫には、それが理解できないようだった。
でも、もう大人だ。
じいちゃんが死んでも、薫も受けとめられるだろう。
猛もいるしな。
二人には、これから、たくさんの出会いがある。
そう思って、ドキリとした。
(死ぬ? 死んだら……だって?)
そういえば、今朝、薫が大声だしてたような?
ーー猛! 猛! じいちゃんが……じいちゃんが、息してない!
とかなんとか……。
青空に本をふんで浮かぶ自分の姿を見れば、なにやら、納得がいった。
(そうか。死んだのか。そうか。そうか。そろそろだろうとは思っていたが、また急なことだったな)
とすると、これは、天国への階段か?
見あげても果てが見えない。どこまでも青く澄んだ空が続いている。天国とは、はてしなく遠いところにあるらしい。
そのうえ、階段を作るのは自力。
なかなかの狭き門だ。
疲れたので、本を何冊か敷きつめて踊り場を作った。
そこに腰かけると、とうとつに幻に引きこまれた。
「……ねえ、威さん。うちの最期のワガママ、聞いてくれる?」
病院のパイプベッドの上で、都子はささやいた。
もう声がかすれて、うまく、しゃべれない。
若い体に、癌の進行は速かった。
今から三十年近くも前のことだ。治療も今ほど確立されてはいなかった。
いつか、こうなることはわかっていた。
できるだけ別れが遅ければと願ってはいたが。
「うん。なんだ? なんでも言ってごらん」
やさしく応えると、都子は泣きだした。
涙をボロボロ流しながら、枯れ木のような手で、私の手をつかんだ。
「うちが死んでも、あの人のところへは、もどらんといて」
少なからず、ショックだった。
都子は気づいていたのか。
雪絵が本当は、まだ生きているということに。
最初の妻は死んだーー
そう言い続けていたが、それはウソだ。
事情があって別れた。
雪絵は、まだ生きているに違いない。
きっと、彼女のふるさとに帰り、ひっそりと暮らしているだろう。
戸籍上は行方不明からの死亡扱い。
だから、気づかれていないと思っていた。
私が今でも、雪絵を愛していることを。
「ごめんな。うち、イヤな女で、ごめんな。ワガママばっかり言うて。あんたが好きや。誰にも渡しとうないんや」
わあわあ泣きだす妻を抱きしめた。
都子は裏表のない性格で、感情がめまぐるしく変わった。
泣くときは子どもみたいに泣くし、怒るときは鬼のようだ。でも、笑い声も、たえなかった。
雪絵とは正反対の女。
都子の無邪気さに、どれだけ救われたことか。
「すまない。都子」
そんな言葉が聞きたいんやないと、都子は、また泣きじゃくった。
ひどいことをした。
なぜ、あのとき、愛してるのは、おまえだけだよと、ウソでもいいから言ってやらなかったのだろう?
都子は私のために、すべてをなげだしてくれたのに。
ただ、ウソをつくことが、ためらわれた。
雪絵は不幸な女だから。
心の奥底に残している雪絵への想いを否定することは、不幸な彼女をより深い地獄へ、つきおとすことのような気がした。
「約束するよ。雪絵には二度と会わない。おまえが、おれの最後の妻だ」
誓うと、都子は安心したように眠りについた。
享年は四十二さい。
都子は三十さいも年下だった。
ほんとうに、なんで、あそこまで惚れこんでくれたんだか。
たしかに、おれは、いい男だった。
だからって、出会ったころ、都子は十八。
おれは四十八だったんだぞ。
じゅうぶんな、おじさんだ。
それも、わけありのおじさん。
ふうっと、ため息をついて、また本で階段を作る。
もっと若いころに、都子と会ってれば、おれは、どう感じたんだろうなあと思う。
そう。このくらいだ。
本をふみしめる足に力が、みなぎる。
三十すぎくらいだろうか。
おとろえていないと自分では思っていたが、まったく違う。このくらい若いころなら、都子の情熱に応えることができたのだろうか?
本を次々、なげながら、かけあがっていく。
的確なコントロール。
力強い跳躍力。
いっきに数百メートル、高みに、のぼった。
それでも、まだまだ、空は果てしない。
かけ続けると、となりに、蝶々もようの黄色い振袖をきた都子が、よりそってきた。
「待って。待って。威さん。速いわ。うち、もう走れへん」
「みやちゃんは、家に帰れ。暗くなると、親御さんが心配するぞ」
「いやや。うち、まだ威さんといたい」
「夕立が来るぞ」
「ええよ」
「せっかくの振袖が台なしになるぞ」
「それでも、威さんといたい!」
言ってるそばから、雨がふりだした。
すごい雷雨だ。
あわてて、都子の手をひき、神社の軒下に逃げこんだ。
「ああ、ふったなあ。とうぶん、帰れないぞ。これ」
「真っ暗や。夜中みたい」
青白い稲光が夕闇を切り裂く。
きゃっと悲鳴をあげて、都子は抱きついてきた。
そのまま、強く、くちびるをおしつけてくる。
「……みやちゃん」
「うち、威さんといっしょになりたい。あかん?」
「アホ言うな。おれが、いくつだと思ってるんだ?」
「年なんか関係あれへん! うちは、威さんやないと、いやや」
「みやちゃんは若いから、勘違いしてるんだろ。それに、おれは独り身が気楽なんだよ」
「じゃあ、なんで、いつも、さみしそうな顔しとるん?」
ハッとした。
そんなこと、ほかの女に言われたことはなかったから。
雪絵以外の誰にも。
都子の若さが怖かった。ひきずられそうだ。
だが、ひたむきな視線の前に、ウソはゆるされない気がした。
「みやちゃん。死にたくなければ、おれといっしょになるなんて言うな。うちの家系はな。呪われてるんだよ。一族に一人だけ長命の男子がいて、それ以外は、妻子も、みんな死ぬ。若くして死ぬ。それはもう絶対なんだ」
だから、雪絵とも別れた。
親兄弟をみごとに一人残らず失って、自分はもう生涯、一人で生きると決心した。
呪われた一族の自分が最後の一人になるのだと。
どんな女でも、この事実を知れば、さける。
そう思ってたのにーー
「ええよ。うち、威さんといっしょになれるんなら、死んでもいい」
思わず、抱きしめていた。
一人で生きるのは、やはり、つらかった。さみしかった。よりそいたかった。誰かと。
「こんな、おれでも、ほんとにいいのか?」
「ええよ。好きやから」
あのときは、ほんとに嬉しかった。
「都子。都子。だから言ったのに。おれといると死ぬぞって」
青空をのぼり続ける。
都子はヒラヒラ、蝶のように舞いながら、頭上から手をさしのべてくる。
「でも、それでも、うち、幸せやったえ」
「おれのほうこそ、幸せだったよ。毎日が楽しくて、楽しくて、しかたなかった。かわいい子や孫の顔も見れた。なにもかも、君のおかげだ」
あと少しで、都子に手が届く。
天国の門が見える。
だが、そこで、本が手元に来なくなった。
尽きたのだ。
あと少しなのに。
ほんの数メートルで、天国にいる都子のもとへ行けるのに。
(そうか。おれの生前の言葉で、つむがれた本だと店主は言った。おれの言葉が足りなかったから……)
あとわずかのところで届いてなかったのだ。
あのとき、都子の心に。
何が足りなかったのかは、わかってる。
ほんの、ひとこと。
愛しているよーーと。
「ごめんな。みやちゃん。君のところまで、行けそうにない」
宣告した瞬間、ガラガラと本がくずれた。
がれきのような本の雨とともに堕ちる。
どこまでも、どこまでも、深く沈む。
おれは地獄に行くのか。
二人の女を不幸にした罰で。
おれは今でも雪絵を愛してる。それは事実だ。謝罪もしない。自分の心にだけはウソをつけない。
でも、みやこ。
今、会いたいのは君なんだ。
もう一度、君の笑い声が聞きたかった……。
天国から都子の声がひびく。
「威さん! ここに来て! うちのこと好きやのうてええから。二番でええから。ちょっとでも好きなら、おねがいーー」
都子は泣いている。
涙の粒が、ハラハラこぼれおちてくる。
(ちょっとでもだって? バカを言うんじゃない。大好きだよ。君も、雪絵も、同じほど愛してる。だから、苦しかったんじゃないか)
どちらにも、申しわけなくて。
どちらにも、うしろめたくて。
「愛してるよ! 都子。来世では、君に、まっさきに出会おう。約束する。そのときまでーー」
さよなら……。
どれだけのあいだ、地獄で罪をつぐなえば、ゆるされるだろう?
しかたのないことだ。
身から出たサビ。
だが、その瞬間に旋風がまきおこった。
落下する無数の本が風のように吹きあげてくる。
形が変わっている。
羽毛? いや、鳥か?
数えきれないほどの白い鳥だ。
いっせいに羽ばたき、おれをつつむ。
体が上昇する。
そっと、何かが指さきに、ふれた。
目の前に、都子の顔があった。
笑っている。
「うち、イラチやし。来世までなん待たれへん」
「君らしいね」
笑顔は、とても、なつかしい。
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