第664話 その身の内を照らす光に

ささやかな水音に、ピクリと耳が動いた。

「……まだここにおったか」

幾分安堵した気配を感じ、ルーは不機嫌に吐き捨てる。

「はっ、他に居場所なんてねー」

「ほうか? ……ぬしは見つけたのかと、思うたが」

寄るな、と明確に態度で示す獣を意にも介さず、サイサイアは静かに歩み寄って目を細めた。

「美しいの、ほんに良き輝きよ。げに羨ましきことじゃ」

「てめーにはやらねー」

ぐ、と鼻面に皺を寄せて威嚇する様は、立派な神獣を幼く見せるに十分なものだ。少なくとも、サイサイアにとっては。


くつくつと堪えきれない笑みを浮かべ、老いた神獣はゆっくりと首を振る。渇望する己を自覚しながら、視線を引きはがした。

「いらぬよ。儂にはその覚悟ができん」

諦観を浮かべた微笑みをちらりと流し見て、ルーは鼻を鳴らした。

「てめーは半端だ。ただ先送りにしてどうなる」

「そう言うでない。じゃが、そうよの……何ともならんのはよう知っておる。ラ・エンのようであったならのう、許されるなら儂一人で背負いたかった。育てたからには継がさねばならんが……それでよいものか。ぬしは、潔いの」


長いため息を吐き、ルーが不機嫌な顔をするのも知らぬげに、側の木陰に腰を下ろす。

「わしらは、どうしたら良いかの。滑稽なことじゃ、自ら追い落としておきながら、いつまでもその手を待っておる。すべきことを定めたケイカの方が、よほどまともかもしれん」

「あれは、ただの敵だ」

睨み付ける鋭い金色を、柔らかな金色が見つめ返した。

「ぬしは、それを選んだということじゃの」

「……選んでねー」

「まだ、ということか。ぬしも大概、揺れておる。しかし、儂もその光には抗いがたいわ。マーガレットがおらねば、惹かれたろうの」


長いしっぽがぶん、と揺れ、サイサイアがひっそりと笑みを零す。

「おうおう、狭量なことよ。心配いらぬよ、儂は捨てられぬ。この傷と記憶は朽ちるまで儂の中に。そして、ゆくゆくは……渡さねばならん。延命にすぎぬとも、在り続けることを選ぶならば」

ふと、笑みの種類が変わったことに気が付いて、ルーはサイサイアを見据えた。

「……延命に、何の意味があろうかと思っておった。じゃがの、あったではないか。ぬしは、儂らに感謝せい」

向けられた眼差しの柔らかさを避けるように、漆黒の獣はふいと視線を逸らす。

「あいつは、関係ねー。普通に生きて、普通に死ぬ。俺は続きを望んでねー」

「普通……はてさてそれは可能だろうかの。ぬしが望まぬでも、のう?」

ふて腐れた獣を見る目は、地底湖に似た深い深い色をしていた。


「良いよ、また、いつか延命の意味があるやもしれぬ。残る儂らが続けようぞ、今までの通り。原始の4獣がおらねば、どこまでもつかの。次代が間に合うかもしれん、間に合わないかもしれん」

サイサイアは言葉を切ってため息を零した。

「……ケイカが、本懐を遂げるやもしれん。もし、それが――」

「それを、望んでいたと思うか?」

言葉を遮った鋭い双眸に捉えられ、穏やかな金の瞳がわずかに揺れる。

「……そうだの、あやつに期待するはむしろ、裏切りか」

苦笑したサイサイアがおもむろに立ち上がって湖へと歩を進める。ようやく帰るのかと、ルーは四肢を寛がせてしっぽを揺らした。


「ぬしの傷は、記憶は重すぎる。光をもって祓う選択に何の疵瑕しかがあろうか。わしは、止められぬよ。同じく、ケイカのそれもな」

「――消さねー、何も。俺のものは、俺が持っていく。誰にも渡しはしない」

湖に身を沈めながら、サイサイアは瞠目して黒い獣を振り返った。決してこちらを見ない獣を視界に収め、その内に宿る光に目を細める。

強突くごうつ 張りが。ならばわしは焚き付けようぞ、ぬしの身の内をあまねく光が照らし、縋る影なぞ消し飛ばすように」

「なっ……!! てめーは! それでいいのか!」

「よい、と言ったの。止めぬとも。ああ、煽るとは言っておらなんだ」

ふぉふぉ、と笑ったサイサイアは、跳ね起きたルーを見て、水中へ没していった。

ルーの瞳の中には、こちらを見た温かい慈愛の金色だけが残っていた。



目覚めたオレは、現状に不満を隠せない。

いや、眠ってしまったのは想定の範囲内だ。それはいい。

だけど、目覚めたら漆黒のふわふわが目に飛び込んでくるはずだったのに。

ちゃっかりルーの魔力でもって回復を早めれば、少し休んで起きられるはずだったのに。

「……どうして帰ってきてるの?」

むくりと身体を起こし、昼近いであろう明るい室内を見回した。既に、ラキとタクトの姿もなくて、なんとなく面白くない。

今日もいい日差しを浴びてご機嫌なムゥちゃんが、窓辺で手を振っているだけだ。

「ムッムゥ~!」

ぴかぴかの笑顔につられてへらりと手を振って、慌てて唇を結び直す。


せっかくの御神酒の会だったんだよ! 厳かに一緒に飲んで、それから、しみじみと語り合おうと思っていたのに。お酒の力を借りて、いつもよりルーだって饒舌になったかもしれないのに。

なのにどうして、帰ってきちゃったのか。

――だって、ルーがどうしても連れて帰れって言うの。ユータは寝ちゃってたの。

オレが寝るのはいつものことだ。そのまま極上ベッドで目覚めると思っていたのだけど。


『どんな顔すればいいか、分からなかったんでしょうね』

訳知り顔のモモがまふっと弾むのを眺め、ちょっと肩をすくめる。もしかして、あの御神酒をひとりで飲んじゃったから? まだ残っていたはずの瓶が空になって手元にある所を鑑みるに、きっとルーが飲みきったのだろう。だけどオレ、そんなことで怒ったりしないのに。

それに、どっちにしろオレはあの輝くお酒を飲むのはやめておくつもりだったよ。

だって普段顔色ひとつ変えずにお酒を飲むルーでさえ、あんなに恍惚としていたんだから。もしオレが飲んだらどうなることやら。


でも、ひとりでお酒を飲んだことは怒らないけど、ひとりで楽しんだのだったら怒る。

オレは、一緒に飲みたかったの! 普通の(?)御神酒はまだあるんだから!

「せっかくチーズせんべいとか、色々作ったのに」

『あなた、あの雰囲気でチーズせんべいを出すつもりだったの?』

『俺様、チーズせんべい片手に御神酒は違うと思うぜ』

……ふむ。言われてみれば、そうかも。

それに、思いの外魔力を使っちゃって、とてもあのまま起きていられる状況じゃなかったし。

「うーん。じゃあ、いいか! ルーには『特別』をあげたし、もらったから!」


途端にご機嫌の波が押し寄せてきて、もう唇は結んでいられない。

だって、聞き間違いじゃないよね、言ったもの。あのルーが、『うまい』って!

思い出せば、まだほんのり重い身体も、飛び起きてふらつく身体も、やり遂げた証みたいで心が躍る。

きっとあれはルーにしかあげちゃだめなもの。サイア爺やラ・エンには出さないつもり。そもそも同じものを作れる気がしない。


もちろん、生命魔法水でも怒られるんだから、カロルス様たちには普通の御神酒だからね! オレは何度も同じ失敗はしない!

『してるだろ』

すかさず入るチャトの指摘は聞き流し、ご機嫌でベッドを下りた。もしやこの御神酒なら、オレも一緒に晩酌できるんじゃない? うわあ、大人だ。

夜のしじまの中、響くは酒を注ぐ音と、微かな衣擦れ。時折開いた唇がぽつりぽつりと懺悔するような過去を語り――。

しっとりした大人の時間を想像し、オレの瞳はきらきらと輝く。

『主には懺悔する過去いっぱいあるもんな!』

『……あなたは酔っ払ったあなたを知らないものねえ』

肩では、哀れむように嘆息するモモが揺れていた。

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