第642話 その道の専門家?

「わあ……すごい。まさに秘境、だね……!!」

ふわりと吹き上げる風が、オレの髪を持ち上げて首筋を撫でていく。もう少し、と足を踏み出すと、ぐいっと後ろへ引っぱられた。

「危ねえだろ、さすがに」

タクトがオレの手を掴んで離そうとしない。だけど、オレは危なくないんだよ? だって、ほら、そこに翼があるでしょう。

さっそく偵察でもしているつもりなのか、はたまた居心地のいいお昼寝場所を探しているのか、青い空に浮かぶオレンジ色を見上げた。


「すごい場所だね~、よくこんなところ見つけたね~」

傍らではラキがタクトを支えに、そうっと眼下を覗き込んでいる。

眼下には断崖絶壁、と言うに相応しい光景が広がっていた。

恐らく大昔に崩れたのだろう、ざくりと大地を切り落としたように立ち上がったむき出しの岩肌。遥か遥か下には、広大な森と、そこに続く平野が見える。

王都まで見えるんじゃないかとぐるりと見回して、はっと息を呑む。


「きれい……」

さっきまでの荒々しさとは裏腹に、背後には穏やかな光景が広がっていた。

オレたちがいるのは、山のてっぺんだ。前は絶壁だけど、後ろはお椀のようになだらかに窪み、中央にはきらきらと日の光を反射する泉が見えた。周囲には背の低い植物が生い茂り、文字通りもこもこした緑の絨毯みたいに見える。

『どう? 素敵でしょう。ちょっと待ってね』

山の頂で得意げにしっぽを振ったシロが、ゆっくりと目を閉じて鼻面を天へ向けた。

低く、遠く、長く、周囲に知らしめるように。

静かな野山に、フェンリルの穏やかな咆吼がたなびいて消えた。


「……すっげ。シロ、すげー! びりびり来るぜ!」

『そう? ここで吠えるのは気持ちがいいんだよ! あと、魔物が来なくなるから遊べると思うよ!』

弾んでじゃれあう1匹と1人は、まるで二匹の犬みたい。

フェンリルが魔物払いをして、その庇護の元遊べるなんて、なんとも贅沢な休日に違いない。


「ねえ、じゃああの泉のそばでゆっくりしようよ!」

「「賛成!」」

先を競うように駆け下りるタクトたちを追って、オレたちもゆっくりとお椀の底へ向かう。

びっしりと生い茂った柔らかな草花は踏み出す足をふわふわと受け止めて香り、エメラルドグリーンの泉は深く澄んで、まるで作り物のような印象を受ける。

「絵本に出てくる聖域みたいな場所だね~」

サラサラと髪を掻き分けていく風を受け、ラキが目を細めて伸びをした。

「聖域かぁ……」

オレが知る聖域は、ラ・エンの森。印象が違いすぎて、少し驚いた。だけど、確かにここは楽園みたいだもの、きっと聖域と聞いてイメージするのはこういう場所なんだろう。ああ、生命の魔素が豊富だから、その影響もあるのかな。


空と、草花と、泉。そして、澄んだ風。

肩から力が抜けて、縮まっていた身体が広がっていく気がする。これが開放感というやつか。

『俺様、主はいつも抜けてると思ってたぞ! あ、力がね!』

……どっちにしろけなされているような。せっかく大らかな気分でいたのに! あっという間に大自然から矮小な人間に戻ってしまって、じろりと足下のチュー助を睨み付ける。

『あうじー!』

ところがにこにこと手を振るアゲハと目が合ってしまい、つい相好を崩して微笑んだ。

ここなら安全と踏んだのか、チュー助とアゲハもきゃっきゃ言いながら草花の間を走り回っている。

泉は深そうだから、注意しておかないと……まあ、チュー助たちからすればどんな泉も深いけれど。


『あ、タクト待って!』

さっそく半裸になって泉に飛び込もうとしたタクトが、シロに引き留められた。

「なんでだ? 魔物もいねえと思うけど」

『これ、お水じゃないよ。ぼくは大丈夫だけど、みんなも大丈夫なのかな?』

「えっ、水じゃねえの?!」

素っ頓狂な声に、オレたちも慌てて駆け寄った。

「シロ、水じゃないってどういう――あ!」

そうか、作り物みたいに見えたのは、プールみたいだからだ。泉の中には岩と、水しかない。

生物がいない。水草も、虫も、魚もいない。

この地形……もしかして! 期待を込めてシロを見つめると、案の定こくりと頷いた。


『そう、おんせんだよ! おんせんのニオイがするし、熱いよ。ゆーたたちが入っても大丈夫かなあ?』

飛び上がりたいのを抑えて、ふむ、と腕組みをする。一見、もうもうと湯気が上がってもいないし、ましてや沸騰なんてしていない。ここまで熱気が伝わることもないし、少なくとも100度近いようなことはないだろう。温度だけなら、ちょっと触ってみればいい。多少の火傷なら治せるし!

だけど、強酸性や強アルカリ性、なんてことになったら目も当てられない。治せるだろうけど……さすがにねえ。ましてや毒性があったりなんてしたら。

「うーーん。こんな最高のロケーションで、温泉が目の前にあって、入れないだなんてないよね?! 絶対に挑戦すべきで、乗り越えなきゃいけない試練だと思うんだ」

「いや~僕はそこまでチャレンジ精神旺盛じゃないけど~。命賭けてまで入ろうとは~……」

オレの熱意にラキが若干身体を引いた。

「えー、俺入ってみてえ! なあ、ちょっと手つけるからさ、なんかあったら治してくれよ!」

「ま、待って待って! タクトがもし大丈夫でも、それってオレたちが大丈夫って証明にはならなくない?!」

「あ、そっち~? 天秤が温泉に傾きすぎて心配の方向性がちょっと違ってる気がする~」


やんやと騒ぎながら、なんとか方法を考える。丁度いい温泉かどうか判別する魔法なんて、考えられる気がしない。何か、こう水質が分かるとか、水の分析とか――そうだ!

さっそくお鍋に泉の水を汲んで、とりあえずお鍋は無事ということは確認できた。

「オレ、ちょっと心当たりがあるから待ってて!」

言うなり、お鍋と共に転移した。こういうことなら、とっておきの人がいるよね!


「こんにちはー! お久しぶり!」

しんと静かな中を、オレの声が反響していく。特に返事はないけれど、気にせず奥まで進んだ。

真っ暗な中で、ささやかな水音が聞こえた気がする。

「――おうおう、久しいの。ぬしはいつも良き光をまとっておるな、心地良いよ」

最奥の地底湖から浮き上がるように、燐光を帯びたようなお爺さんが現われた。邪魔なお鍋を一旦脇へ避け、オレは当然のように駆け寄ってしがみつく。

ラ・エンに似た、深い深い慈しみの気配。全てを受け入れる海のようなそれは、オレを大きなものの懐にいる安堵感で満たしていく。

「オレも、サイア爺の気配が心地いいよ!」

「ほうか、ほうか。嬉しいことを言うてくれる。して、どうしたかの? 何か用なのであろう?」


カサカサした大きな手がオレの頭を撫で、白檀のような香りを感じる。このまましがみついていたいのを堪え、そうだった、と顔を上げた。

「そうなの。オレ、今遊びに行ってるんだけどね、そこの温泉に入れるかどうか聞こうと思って!」

絶対に、サイア爺なら分かると思ったんだ! 

信頼を込めた瞳で見上げると、一瞬キョトンとしたサイア爺が、その高貴なご尊顔をくしゃりと歪めた。

「――っふ! ほっほほ! っほ、す、すまぬ、つい……!!」

サイア爺にあるまじき爆笑具合に、今度はオレがキョトンとしてしまう。

「は、ふぅ……、すまぬな、儂はおん、温泉に入れるかどうかなぞ聞かれ――っ、聞かれることがなかったでの。どれ」


……案外、サイア爺って笑い上戸なのかもしれない。そんなに面白いことだったろうか。

時折ぶり返す笑いの発作に苦しみつつ、サイア爺はお鍋を引き寄せたのだった。

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