第558話 幻惑

「……あったかいね」

真っ黒な空に、白い湯気が上がる。カップを包んだ両手からは、じわじわと熱が伝わって熱いくらい。

熱せられた両手を頬に当てれば、その頬の冷たさに驚いた。

「うまぁ。なんか沁みるぜ」

タクトの吐いた息が、闇の中でひときわ白く見えた。


オレたちは交代で寝る時間だけれど、なんとなく一緒にいたくて、こうして身を寄せ合うようにホットミルクを飲んでいる。

背中のシロと両側の2人のぬくもりで、今はちっとも寒くない。

「これ、何が入ってるの~? 美味しい~」

「林檎ジャムとスパイス、蜂蜜も入ってるよ」

言わばホットフルーツミルクだろうか。ジャムだけでも甘いのだけど、とびきり甘くしたかったので蜂蜜を入れた。シナモンっぽい香りのスパイスと、林檎がよく合っていると思う。


温かいもの、甘いものを摂ると心が落ち着いてくる気がする。

ざわざわしていた胸も、こくりと含んだ甘いぬくもりに溶けていくようだった。


ぬるくなった最後のひとくちを呷った頃には、寄せ合った身体が暑いくらい。

「よし! 美味いモンも味わったし、寝るか!」

巻き付けた毛布を振り払って、タクトが立ち上がった。途端に冷たい空気が触れて、ぶるりと震える。

「そうだね~そろそろ寝なきゃ~」

「うん……おやすみ」

最初の見張りはオレと決まっている。隙間の空いた毛布をかき寄せ、立ち上がった2人を見上げて微笑んだ。

しっかりと温まった毛布はほこほこして、辺りにはフルーツミルクの甘い香りが漂っている。背中にはシロがいるし、大丈夫、見張りくらいできる。


きゅっと唇を結んで前を向いた時、ぽんと頭に手が置かれた。

「今日は、シロたちに任せちゃダメかな~?」

「お前、今無理だろ。俺たちで見張ってもいいけど……なあ、シロとモモがいれば大丈夫だよな?!」

2人に見張りを任せてオレだけ見張らないなんて選択肢はない。だけど、シロやモモ、ラピスたちが見張ってくれるなら……今日は甘えてもいいだろうか。

『いいよ! ゆーたおやすみ!』

『いつも私たちに任せればいいって言ってるでしょう』

元気に答えた2人が、既に見張り体勢に入っている。

『夜歩きに行く時なら、気をつけておく』

ぐっと伸びをしたチャトが、片翼を上げて毛繕……羽繕いしつつそう言った。


そっか、今は夜にうろつくことも多いチャトもいる。頼もしいメンバーが増えたものだ。頼っていいのかどうかは、今ひとつ分からないけれど。

「みんな、ありがとう!」

オレは感謝を込めて、まとめてぎゅうっと抱きしめた。



同じ暗闇でも、テントの中だと落ち着くことができる。それに2人の存在があればちっとも怖くない。

耳が勝手に外の物音を拾おうとするのを振り切って、両隣の音に集中した。

時折ばたり、と音をたてて風に煽られたシートが形を変える。灯の消えたランプはシルエットになってわずかに揺れた。

「目、閉じなきゃ眠れないよ~?」

含み笑いが聞こえ、温かい手がそっとオレの目を塞いだ。ああ、悔しいけれど……安心する。オレは素直に頷いて力を抜いた。


――誰かに起こされているのを感じて、うっすらと意識が浮き上がってきた。

「痛っ」

べち、と割と容赦のない衝撃をほっぺに感じ、渋々目を開ける。

「あれ……まだ夜」

寝ぼけ眼をこすってみたけれど、目を閉じる前と変わらない暗闇だ。

『モモとシロが呼んでる』

うつらうつらしながらオレをひっぱたいていた蘇芳が、それだけ言ってぽふんと布団に戻る。

何か一大事かとハッと覚醒したけれど、それならこんな起こし方はしないだろう。


そっとテントから抜け出して顔を出すと、頭にモモを乗せたシロが立ち上がって前方を見つめていた。

「どうしたの?」

毛布を身体に巻き付けて歩み寄ると、ちらりとこちらへ視線を走らせた。

『ごめんねユータ。あっちに何かいる? 明かりをつけてみて』

困惑気味のシロの指す方には、ただ風に揺れる草原が広がっていた。言われるがままにライトをつけると、手元の眩しさに思わず目を閉じる。と、揃って揺れていた草が一部激しく揺れた。不自然に響いた音に目をやると、シロたちが見つめていた辺りから草の揺れが遠ざかっていくのが見えた。

『逃げたわね』

『うん。何だったのかな?』


まだ前方を睨み付ける2人に首を傾げる。レーダーで見たけれど、とても小さな気配だったよ? 動物か小型の魔物じゃないだろうか。野営では特に珍しくもない出来事だと思うのだけど。

『ねえゆうた、あなたには何か見えた?』

「うーん、草に隠れて何も見えなかったよ。小型の魔物じゃない?」

草の揺れ具合からしてホーンマウスよりは大きいけれど、せいぜいゴブリンくらいじゃないだろうか。

ぽん、と跳んできたモモを受け止めると、手の平でふよふよと伸び縮みした。

『私たちには見えていたわよ。……大きな魔物が』

「えっ? 何がいたの?」

『トカゲの大きいやつ! すっごく固いトカゲがいたでしょう?』


それってもしかしてアリゲールが変異したやつのことだろうか。

「さすがにここにはいないんじゃ……」

水場から遠いし、あの巨体だもの。いたらすぐに分かるし、レーダーでバチバチに気配を感じると思う。

『だけど、私にはしっかり見えたのよねえ。だけどさすがに変よねって』

『あのね、何か変だったの。ぼくも見えたけど……なんだか薄かったの。それに臭いがしなかったし、気配も軽かったよ』

「レーダーでもそんな気配なかったよ。薄いってどういうこと?」

尋ねると、シロが耳を伏せて首を傾げた。

『うーん。ええと……目の前で見てる気がしなくて……あ、しゃしん! しゃしんとかてれびを見てるみたいだったよ』

もしかして……。ハッと手の中のモモを見つめると、頷くようにぽんと跳んだ。


『ええ、これが幻惑なのかしらって。きっとフェンリル相手に幻惑を見せるのは荷が重いんじゃないかしら。そしてあなたには全く効かないのね』

じゃあ、さっきのが幻惑蝶? だけど蝶々って普通、飛んでるんじゃないだろうか。ガサガサと草を揺らしていった『何か』を思いだし、眉根を寄せる。

『起こしてごめんね、見て貰った方が良いかなと思って! もう大丈夫だからおやすみ!』

シロは難しい顔をしたオレの背中を押して、テントに押し戻した。

テント内に響く色々な寝息と寝顔に、途端に安堵感と眠気が襲ってくる。

オレ一人で考えたって仕方ない。全ては明日だ。

ひとつあくびをして納得すると、まだ温かい寝床に潜り込んだのだった。



「うん、幻惑蝶だって普通に飛んでるはずだよ~。森の中を飛ぶには大きいから、あんまり活発に移動はしないみたいだけどね~」

翌朝、昨夜の出来事を二人にも話して聞かせると、一様に首を捻った。

「もしかしてそれも幻惑だったってことなんじゃねえ?」

「そんな幻惑必要? それに、多分オレは幻惑の効果がないと思うんだ」

肩で胸を張ったティアを見るに、しっかり幻惑への抵抗はできそうだ。

オレたちは簡単に朝食をすませ、しっかり日が昇ってから再び村に向かっている。何事もなかったように村人が戻ってきていないだろうかと淡い期待を寄せていたけれど……。


「やっぱ、いねえな」

「いたらいたで、それも怖い気がするけど~」

確かに。明るい中で見る村は、やっぱり人の気配がなくてジオラマか映画のセットに迷い込んだみたいに思えた。


「なんだこりゃ、どういうこったよ?!」

オレは突如響いた大声に思わず飛び上がって振り返った。

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