第532話 みそぎ
「オレ、お酒の造り方なんて知らないよ?」
やらせてもらえるなら、ぜひとも参加してみたいけれど。
『心配いらぬよ、やってもらうのは単純なことじゃ。御神酒じゃからの、作る工程が大事なのじゃ。まずは禊の場へ行こうかの』
しばらく森を歩いてたどり着いたのは、滝……だろうか? 木々に囲まれ、比較的浅い滝壺がひっそりと水面を揺らしている。ここへ近づくにつれ、たくさんついてきていた妖精たちが潮が引くように去って行った。名残惜しげに手を振る様子からするに、禊の場所は普段立ち入り禁止なのかな。
『うむ、ちょうど良い水量じゃの』
岩壁を這うように流れてくる水は、テーブル状に突き出た岩盤で支えを失い、水煙となっておぼろに崩れている。ほのかな風に、白く霧のようにふわふわと揺れていた。
「きれい! ここに入っていいの?」
もっと修行みたいなものだと思っていたから、楽しそうな光景にうずうずと心が逸る。
『そうじゃ、ここで好きなだけ身を清めてから、これを着てくれるかの? ああ、拭くものもいるのう』
チル爺がぽんと空間から取り出したのは、生成りの服だろうか。触れてみると、綿でも麻でもない上等の肌触りがする。
「拭くものは持ってるからいいよ。チル爺はどこかへ行っちゃうの?」
『そうじゃのう。禊は基本的に1人で行うものじゃ。お主、見た目は幼いが1人で大丈夫じゃろ?』
1人で遊ぶよりチル爺がいる方がいいけれど、これは水遊びじゃないものね。少々不満はありつつ頷くと、チル爺も重々しく頷いて立ち去ってしまった。
「冷たっ! でも気持ちいい」
試しに触れた水の冷たさに、知らず口角が上がる。とっても冷たくて、こんな所に入ったら怒られそうだけど、仕方ないから。だって禊だもの、入らなきゃいけないんだから。
水遊びする気温でもないけれど、冷たい水が苦行になるほどでもなく、ワクワクと心が躍った。
誰も居ないし、すぱんと全部脱いで足を浸す。荒く角が取れただけの石ころが足裏に少々痛く、きゅーんと冷たさが沁みる。
たまらず両腕を固く胸元に縮め、きゃあっと歓声を上げた。オレの高い笑い声が水音に混じって木々の中に吸い込まれていく。はしゃいだ自分の声がおかしくって、子どもの笑い声って本当にころころしてるんだな、なんて思った。
しばしじっと冷たさを堪え、ざぶ、ざぶ、と1歩1歩足を進めると、じりじり上がってくる水位にくすくす笑いが止まらない。お腹まで水が来た途端、一段と冷たく感じて足をばたばたさせた。それに伴ってぱちゃぱちゃ揺れた水が、なおさら冷たい。
『主、なんで冷たいのにそんな嬉しそうなんだ?』
「そんなこと言われても、知らないよ。だって、笑ってしまうんだよ」
ほんと、なんでだろう。分からないけど、降り注ぐ温かな木漏れ日を仰いで、大きく笑った。
「慣れると、すごく気持ちいいね」
滝壺は、一番深いところでオレの胸下あたりまで。段々指先が冷たくなってきたけれど、身体は慣れてきた。ひりりと冷たい水は、本当に穢れを落としてくれているように心地良い。
『スオー、冷たいのイヤ。あったかいなら入る』
――ラピスもあったかいの好きなの!
「温泉? いいね! またみんなで入りたいなあ」
そんなこと言ったらこの後温泉に入りたくなっちゃう。禊なんだから、このあと温泉へ、なんてことはできないけれど。
オレは白く煙る滝を見据え、ゆっくりと歩を進めていく。澄んだ水は足の爪までしっかり見え、とろとろ揺らめく光がオレの足を照らしている。茶色やグレーの川底の中、小さな足はびっくりするくらい白く見えた。
「わあ、もっとお水が多かったら秘密基地ができそう!」
水煙をあげる滝は、突き出た岩で砕けてシャワーのように細かく降り注いでいる。もっと水量があれば、滝の裏側へまわれるだろう。
吸い込む空気にたくさん水が含まれて、鼻の中でぱちぱちするような気がする。水煙に手を差し入れれば、霧雨みたいな感触だ。
滝の中に入るなんて、本当にいいんだろうか。こんなわくわくすることをやっちゃってもいいんだろうか。
オレは重くなってきたまつげをひとつ瞬き、ぐいっと大きな1歩で滝の中へ身体を滑り込ませた。
「…………」
そっと閉じていた目を開ける。
滝行になんてなりそうもない、心地良い霧雨が身体を打っている。とても冷たい。冷たいけれど、身体も慣れてしまって、痺れるような心地よさがあった。
くるりと向き直ると、水煙の向こうに明るい森が見えた。
なんだかオレ、水の神様にでもなったような気分だ。龍神様って、こんな感じなのかもしれない。
きゅっと縮めていた両手を広げると、目を閉じて降り注ぐ滝を顔に受ける。
冷たいなあ。さっきまで温かかった頭もすっかり冷えて、身体の表面の感覚が鈍くなっている気がする。
だけど、すごくいい感じ。
そうだ、舞いを舞ってる時のような。あの、心が浮かぶような感じ。
こういう場所で舞えば、どんなに素敵だろう。
ちょっと、やってみようかな。そんな風に手を挙げた時、ぎこちない動きに気がついた。身体が強ばってしまって、とても優雅に舞えそうにない。手なんてすっかりかじかんで感覚がない。言うことを聞かずに震える身体を、ただ残念に思った。
「ピピッ!」
水音に混じって、耳元でティアの声が聞こえた。次いで、温かな魔力が流れて、心臓がとくりと音をたてた気がする。
『ゆうた、冷たすぎるわよ! 早く出なきゃ!』
『身体がうごかなくなっちゃうよ? ぼく、ここへ出てきちゃダメなんでしょう?』
心配するみんなの声に、ハッと意識がクリアになる。慌てて滝から出ると、オレの身体は歯の根も合わないほどに震えていた。
――ユータ、大丈夫なの? ラピスみたいに真っ白なの。
『あうじ、おくちがへんないろ!』
そうだろうな、と苦笑すると、どうにかこうにか足を動かして水から抜け出した。
「さ、さ、さ、む……」
かじかむ手がじれったくて、魔法で身体を乾かすと、急いでチル爺に渡された服を広げる。
「ふ、くじゃ……な、ない……?」
渡されたのは服じゃなかった。ただの大きな布に首を傾げ、ひとまずぐるぐると身体に巻き付けた。
『ぼく、もう出てもいい?』
禊は終了したから、もういいだろう。そもそも、召喚獣は出てきてもいいんじゃないだろうか。頷くと、シロと大きいチャトが飛び出して瞬く間にオレを包み込んだ。
『ゆーた、氷みたい』
『冷たい』
「あぁ~……あったかい。2人は、お布団みたいだよ」
まさに溶け行く氷のように、冷たさがみるみる消えていく。代わりに2人が冷えてしまうのが申し訳ないと思いつつ、その温かさに身体が柔らかく解け、ふうっと息を吐いた。
身じろぎに伴って身体を浮かせてくれたシロが、伸ばしたオレの足の上に腹を伏せた。
「シロ、あったかいけど動けないよ」
『まだ冷たいから、動いたらダメだよ』
メッと諭すような水色の瞳に、じゃあもう少し、と両手で目の前の白銀の毛を梳いた。ことんと頭を後ろへ倒すと、ふかっと耳まで温かい。シロと寄り添うように伏せているチャトが、背中を温めてくれる。
「ありがとう。気持ち良くて寝ちゃいそう」
『寝ればいい。おれは寝る』
宣言通り目を閉じたチャトが、ぱたん、ぱたんとしっぽで眠りのリズムを取り始める。
寝たら、ダメだと思うんだ……これから、お酒造りをするんだから……。
冷えていた身体が、反動で指先までぽかぽかとしてくる。唇やほっぺまでじわじわと温かく、きっとりんごのような色になっていることだろう。
どこもかしこもふわふわで、身を寄せたシロとチャトの呼吸が肌から伝わってくる。
こんな、こんなの……無理だよ……。
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