第485話 不安定なら、支えればいい
「戻って! 早く!」
言いながら飛び出し、しんがりを務めて両の短剣を抜く。
ざわざわと足下から立ち上るような嫌な気配に、ぐっと両手に力が入った。
「どうしたんだ?! 他のアリゲールが――?!」
無事陸へ上がったテンチョーさんが、オレの視線を追って目を剥いた。静かだった湖からは波が押し寄せ、みるみる湖面に影が広がっていく。
「ユータ! お前も来い!」
ぐっと影を睨んで構えたところで、強い力で襟首を引っぱられた。駆け戻ってきたタクトに、引っつかまれて退避する。手近な藪に飛び込んだ途端、ざばりと一際大きく波が押し寄せ、湖面に大きな影が立ち上がった。
「なんだ、あれは……」
身を潜め、テンチョーさんが思わず声を零した。
なんだろう、あれ……。
それは、大きな頭でぐるりと周囲を見回すと、アリゲールの亡骸に目を留めた。
ゆら、と水面がS字に揺れて、その身体の末端が思ったよりも後ろにあることが分かる。川の方へ近づくにつれ、徐々にその姿が水上へと現われた。
横たわった赤いアリゲールが、まるで小さなトカゲのように見える。それは、躊躇なくその亡骸を咥えると、天を仰ぐように一息に呑み込んだ。
ガコ、ガコンと顎を鳴らす重い音が聞こえる。
これだ。これのせいで色んな異変が起こったんだ。
こんなものがいれば、バラナスだろうとアリゲールだろうと、ひとたまりもない。
戦闘好きのタクトでさえ、じっと息を潜めて睨み付けている。
これは、何だろう。
アリゲールに似ている、とは思う。ワニのような頭、身体から真下に出る四つ足。
だけど――圧倒的に、大きい。
この湖でさえ狭かったのではと思える。それはもう、完全に恐竜のサイズ感だ。地球でのおぼろげな記憶で、こんな恐竜を図鑑で見たような気がする。
アリゲールの辺縁なら図鑑に載っているはずだけれど、こんなものはいなかった。
黒々とした表皮は鱗で覆われ、背中には大きな背びれが張り出している。ずっしりと太く筋肉の盛り上がる脚に、水かき。そして、頭には1対の重々しい角が生えていた。
恐竜みたいと言ったけれど、誤解を恐れずに言うなら、これは……
「ドラゴン、じゃ……ないよね~?」
震えるラキの小さな声に、誰も答えられなかった。
早く、湖に戻って。そんなオレたちの願いは中々届かない。
無感動な瞳がどこか不満げに、しきりと周囲をうかがう。その頑丈な脚は、とてもじゃないけれど水中特化だとは思えなかった。むしろ、陸上で踏ん張るための脚、爪だ。
見つかったら、逃げられない。
そして、オレたちは薄々気付いていた。
周囲に魔物はいない。川にいた魔物すら下流へ行ってしまった。
つまり――アレは今、とても空腹であるということを。
しばらくうろうろと周囲をうろついたその魔物は、ふと姿勢を低くして大きな背びれを震わせた。
「――?!」
その瞬間、言いようのない感覚がオレを貫いた。魔力? 何か、魔力が広がったような……。
魔物が、ガコン、と顎を鳴らした。そして、迷いなくぴたりとオレたちの潜む藪を見据えた。
「!! しまった! みんな、逃げて!」
どん、とテンチョーさんの身体を押した。まさか、魔物が索敵できるなんて!
『「シールド!!」』
激しい衝突音、目の前の景色は一瞬で様変わりした。モモとオレのシールドで受け止めたのは、巨大な口腔。
食べようと、している。
何の迷いもなく、そこにある食べ物を口へ入れようとしている。
人との戦闘とは違う、捕食者への恐怖に歯を食いしばった。
ここは、オレが。
オレじゃなきゃ、きっと無理だ。
「ユータ、何してる! 早く!!」
焦ったテンチョーさんの声を背中に聞きながら、じりじりと後ずさる。
逃げるよ、オレも逃げる。だけど、先に行ってくれなきゃ逃げられない。
「テンチョ、行くよ! 俺たちが邪魔だ!!」
「っくそ……!! くそ!!」
テンチョーさんの歯がみする顔が目に浮かぶようだ。
「大丈夫! オレはシールドが使えるから! シロもいるから! ちゃんと、追いかける!」
だから、早く。
オレたちを追って完全に湖から這い出た魔物は、どん、とシールドに体当たりした。ビリビリと震えるほどの衝撃が伝わる。速いし、重い。シールドで受けるより、避けた方がいい。だけど、避けたらテンチョーさんたちが……。
『ゆーた、チュー助が言ってたよ。守るなら、打って出ろ――って!!』
そっか、そうか。オレが戦えばコレは他を追いかけられない。隣に立つシロがにこりと笑って、オレは頷いた。
――負けないの。ラピスの方が強いの。
「うん……!! みんな、行くよ――!」
オレはキッと巨大な魔物を見据えた。チャ、と両の短剣を握り直し、姿勢をいっぱいに低くする。
もう一度突っ込んでくる魔物を前に、モモと視線を交わす。そして、蘇芳が額の紅玉を煌めかせた。
『今!!』
「分かった!」
蘇芳の声で、衝突を受け止めた瞬間、シールドを解除する。
飛び上がったオレの足下で、支えを失った魔物が地面をえぐった。
「頼むよ、チュー助!!」
『わ、分かったぜ主! 見てろ俺様の切れ味!!』
無防備になった首元、思い切り突き立てた短剣は、右手だけざくりと鱗を割った。
のたうつ巨体から飛び退いた所を、シロが攫うように背中へすくい上げて離脱する。
固い……!! チュー助でやっと、普通の短剣では傷も付かなかった。もっと、もっとしっかり魔力を通さないと……!
バリバリバリ!!
オレたちが離れた隙をぬって、ラピスの雷撃が魔物を直撃した。
――……効きが悪いの! あの鱗、邪魔なの!
じゅうじゅうと煙を上げる魔物は、確かに苦しんではいたけれど、普通なら炭化を通り越すような雷撃を受けてなお、立ち上がっていた。
さらに濃くなる嫌な気配を、ぐっと堪える。この気配、確かにこの魔物から……。
だけど、これは覚えがある。魔寄せ、魔晶石の気配のはず。浸食するような強い呪いの気配と、ティアが懸命に戦っているのを感じる。
だけど、呪いなら、もしかして浄化できるんだろうか。
「ものは試し! 浄――」
ふぉん、と空気を裂くような音に、ハッと首を巡らせた。
『ゆうた!』
咄嗟に張られたモモのシールドが、パキン、と軽い音と共に砕けるのが見えた。そして、それを破壊した長大な尾が迫るのも。
「っらあぁああ!!」
ぱしゃ、とオレの頬に水しぶきが散る。
裂帛の気合いと共に振り抜かれた剣が、眼前のそれを弾き、逸らした。
同時に、覚えのある連続音を聞いた気がした。
呆然とするオレの前で、片目を潰された魔物が巨体をうねらせ、のたうっていた。
「どうする~?!」
「俺は、勝てねえぞ! お前は?」
オレは、ぐっと熱くなる喉を誤魔化し、二人の目を見た。
「テンチョーさんたちが逃げ切るまで。……それまで頑張る。危ないよ……?」
「見りゃ分かるっての!! 心配しなくても前には出ねえよ! オレたちなら、シロに乗っていっぺんに逃げられるだろ?」
うっすらと水をまとったタクトが、一筋汗を垂らして笑った。
「ごめんね~。でも、これでユータは頑張らなきゃいけないでしょ~」
頭を振って起き上がる魔物を見つめ、ラキがそう言った。
「だってユータに何かあったら、僕たち死んじゃうからね~」
こんな時でもくすっと笑ったラキに、オレの内に火が灯った気がした。
「……大丈夫。 オレに任せて」
支えてもらわなければ不安定な心は、支えてもらうだけで、揺るがない。凪いでなお燃える心に、ふんわりと笑った。
オレは、一人で揺るぎなく立つことはできないみたいだ。
だけど、支える手を信じて、こんなにも微動だにしない心を持てるなら。
それなら、それでいいんじゃないかな。
ここは、オレが。
オレがやる。だから、支えていて。
オレはふっと息を吐いて、警戒する魔物と向き合った。
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