第476話 いない時間に想いを寄せて
「帰ってきたねぇ」
狭いベッドで久々の天井を見上げ、ほぅ、と息を吐いた。
フスーフスーと頭の上で大きな寝息、そして小さな寝息があちこちから聞こえる。
ころりと寝返りをうってサラサラの毛並みに顔を突っ込むと、下りてきた鼻先がスンスンと首元に触れた。いつもひやりと冷たい鼻が、あたたかく乾いてくすぐったい。
狭いベッドは、どこに寝返りを打っても誰かに触れる。最初は潰してしまわないかと不安だったけど、ティアは割と安全な場所を確保するし、チュー助は下敷きになったら大騒ぎするから大丈夫だ。ラピスたちに至っては、そんなことで潰れるはずもない。
『……もう起きるの?』
オレの首筋に鼻を突っ込んだまま、眠っているとばかり思っていたシロが囁いた。
「うん、行く所があるからね」
ゆっくり寝ていたいけど、いいんだ。だって向こうでゆっくり眠ればいいんだから。
『じゃあぼくはユータの中で眠ってようかなあ』
ぺろ、と大きな舌で舐められ、ひゃっと首をすくめた。慌てて体をずらし、大きな頭を抱え込むと、今度は手のひらをぺろりとされる。
「シロ、くすぐったいしベタベタになっちゃうよ」
『そう? でもぼく、ユータを舐めたいよ』
言ってるそばから頬を舐められ、くすくす笑って固い鼻面を押しやった。代わりにその顎の下へ潜り込むと、たっぷりした胸元の毛並みを堪能する。普段ひんやりしがちな表面の被毛まで、ほんのりと温かい。これはシロの体温だろうか、それともオレの体温だろうか。心地良い温度のサラサラ毛並みは、頬ずりしているとまた眠くなってきそうだ。
『起きるんでしょう?』
せっかく起きたんだから、と言わんばかりに頭の上でモモが弾む。ぽふ、ぽふと軽い衝撃に、独特の柔軟な体が気持ちいい。受け止めた両手から零れるような、フラッフィースライムにしかないこの手触り。
「起きるよ……。モモは柔らかいね」
『そうでしょう! 私はとっても柔らかいの』
なぜか得意げなモモを抱え、よいしょと体を起こした。早く行かないと、きっと待ってるから。
「今日はどこで寝てるかな……あれ?」
そっと転移して、周囲を見回した。大体その日の特等席でごろごろしているんだもの、今日だって寝ているだろう。
そう思ったのに、ルーはこちらへ背を向けて座り、湖を見つめていた。お座りしている姿が珍しい。
相変わらずこちらを見もしないけれど、持ち上がったしっぽの先端は落ち着きなくぴこぴこと動いていた。
「……ただいま」
そうっと前にまわると、真正面で金の瞳を見据え、にっこりとそう笑った。
「………」
いつも通り不機嫌そうな獣は、むすっと口をつぐんでいる。だけど、金の瞳の奥はゆらゆらと揺らめき、何と答えたものかと迷っているのが分かる。
「おかえり、って言えばいいんだよ」
そんなことを言うルーは想像できないとくすくす笑いつつ、そう言ってみせる。
「うるせー! ここはてめーの帰る場所じゃねー!」
「ここに帰ってきてもいいの?」
ルーと一緒にここで住むのも楽しそうだ。
「……良いわけねー!」
ふて腐れてしまった。だけど、待っててくれたんでしょう?
座ると随分背の高い獣にぱふっとしがみつくと、日差しを浴びたぬくぬくの被毛に顔を埋めた。
「……ただいま。この場所に帰ってきたんじゃないよ、ルーのところに帰ってきたんだよ」
だから、ただいまで合ってるんだよ。
光を吸い込む漆黒の毛並みは、指を通すと溢れた光がきらきらと七色に輝いた。何度も何度も滑っていく自分の指を目で追って、うっとりと目を細めた。
このまま、ルーの上でうとうとしたい。横になってくれないかな。
見上げた顎は、りりしく引き締まって彫像のようだ。何を見てるんだろうと、オレもルーに背中を預けて座った。
風のない日は、本当に静かだ。
光の加減で、湖面は鏡になったり、水中を完全に透過したりする。水面に散った葉っぱが、まるで空に浮いているようで、なんだか水と空の境が曖昧だ。
オレが空中に居るような、水中に居るような、反転する不思議な感覚を楽しみながら力を抜いた。
「……きれいだね」
ふと、視界の端に鮮やかな色彩が映った。視線を彷徨わせると、青や緑の世界の中で、小さな紅い実が目に留まった。湖の中から突き出た枝に、さくらんぼほどの小さな実がなっている。
「ねえルー、あれはなに?」
目を凝らすと、たわわに実った粒はザクロのようにほんのりと透け、きらきらと輝いているようだ。
「ほら、あれ! きれいだね! 食べられるのかな?」
ぴょんと飛んでルーの首にぶら下がると、フンと気のない返事でごろりと横になった。
「女神の聖珠。食える」
「そっか! 神々しい名前だね……貴重なものなの? 食べてみたいねえ」
「そこにある」
勝手に食えと言われたようで、目を瞬いた。大事な実じゃないの?
「放っておけば鳥が食うか腐って落ちるだけだ」
「えっ?! じゃあ採ってもいい?」
「なんで俺に聞く。勝手に採ればいいだろうが」
そうなの? じゃあ遠慮なく頂こうかな?
『気持ちいいね! お水が綺麗で、とってもサラサラするよ』
すいすいと泳ぐシロの背中に乗って、透明な水を滑るように移動する。膝までまくった足が水に浸かって、シロと一緒に波紋を広げていった。
水底の石や倒木までくっきり見え、光の網がかかる湖底には、オレとシロの影が浮かぶ。まるで空を行くみたいだ。
『これだね、いい香りがするよ』
「わあ、本当だ! これ、食べられるんだよね? すごくきれい!」
まるで宝石みたいで、口に入れていいものかと戸惑ってしまう。
『食べてみる?』
「うん、だけどみんなで食べるよ!」
小さな指でひとつひとつ、丁寧に摘んで収穫する。プチリともぐと、微かに跳ね上がった枝から水滴が七色に散った。
『スオー、手伝う』
『俺様も!』
小さな手指で優しくもいだ聖珠は、ころりと手のひらで輝いてルビーのようだ。大切に収納にしまって引き返すと、濡れた服もそのままに、ルーの鼻先に一粒つまんでみせた。
「見て! すっごく綺麗! これ、すごい名前だから貴重なんじゃない?」
「……ヒトにとっては貴重だな。普通は聖域に成るものだからな」
そう言いながら、オレの指ごと舐め取って小さな実を口へ運んだ。
「美味しい?」
「まあな、そういうものだ」
割と素直な返答に、オレの料理の時も素直に言ってくれたらいいのにと思う。
とすっとルーにもたれて座ると、オレたちも一粒ずつ実を配った。
『う、美味い!! 俺様こんな美味い実はじめて!』
――甘いの! とろけるの!! 聖域にあるなら今度探してくるの!!
さっそくぱくりとやったちびっこ組から、歓喜の声があがった。ころころ転げ回る様を見るに、よほど美味しいんだろう。
鼻孔をくすぐるのは、甘酸っぱい香り。りんごのような、洋梨のような……。こんな小さな粒なのに、嘘のように芳醇に香っている。
『本当に美味しいわ! 女神と言うだけあるわね』
口々に聞こえる感想に、オレも我慢できなくて大事に口へ運んだ。
光に透ける果実は、口腔でプツリと弾けたものの、意外にも果肉感がある。とろりと柔らかくとろけるマンゴーのような濃厚な甘みが溢れ出し、自然とほっぺが持ち上がった。
「お、美味しい〜!」
ルーの体にしがみついて足をバタバタさせると、どこか得意げにフンと鼻で笑われた。
「でも、どうして聖域の植物が生えてるの?」
「ここは生命の魔素が濃い。ーー今まで実はならなかったがな」
ーーじゃあユータのおかげなの! ユータがいるから実がなるの!
そう言えば、ラピスはオレを聖域みたいだって言うもんね。だけどここの魔素が濃いのは、きっと神獣が居座ってるせいもあるんじゃないだろうか。
「そっか! オレとルーの魔力の結晶みたいなものだね!」
にっこり笑うと、ルーの耳がピピッと動いた。
「てめーは……それはこういう時に使う言葉じゃねー」
じっとりした金の瞳が、じろりとオレを眺める。
「え? どうして? いつ使うの?」
慌てて見上げたけれど、それ以上説明はしてくれないようだ。
全く、アドバイスするなら最後まで言って欲しいものだ。
仕方なく返答を諦め、ルーの上に乗り上げて伏せた。
ああ、これこれ。
やっと望みのものに辿り着けて、オレはほう、と満足の吐息を漏らした。
柔らかな被毛を撫でさすりながら、さっそく瞳を閉じる。でも、そう言えばルーはどうして座っていたんだろう。
(もしかして……あの実を?)
ふと浮かんだ考えに、ぎゅうっと大きな体を抱きしめた。
「ルー、ありがとうね! きれいで、とっても美味しかったよ!」
違うかもしれないけど、そうだって思う方が嬉しいもの。
「なんで俺に礼を言う」
だって、あんなに美味しい実だもの、熟れた状態で残ってるはずがない。
オレに見せようと、そう思ってくれたんでしょう?
「とっても、嬉しかったからだよ」
オレは満面の笑みで頷いて、再び顔を伏せた。
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ちょっと体調崩してましたがなんとか更新!
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