第307話 穢れ
ひやりと冷たい巨体は、ちっとも生命感がなくて、オレを焦らせた。イルカのように閉じられた瞳も、水中で輝くヒレも、わずかな動きさえなかった。
周囲にぬめるように纏わり付く呪い……確か、ルーは穢れと言っていた。じわじわと浸食してくるようなそれに、あの時はいなかったティアが、オレをサポートするように寄り添ってくれる。ルーは、これを避けるためにわざわざ外を移動していたんだろうか。あんなに傷だらけになって湖にいたのは、あの場所に溢れる生命の魔素で、周囲に及ぶこの淀みを消したかったからだろうか。
意を決し、目を閉じて浄化の回路をまわし始めると、それはまるで真っ暗な大海原をゴムボートで航海しているような感覚だ。あまりにも大きな穢れの気配に、小さな軽いゴムボートは一瞬でひっくり返ってしまいそうだ。
はっ……はぁ……
怖い。オレの心が穢れを嫌がって、怖がって、ここを離れたがる。ドクドクと早鐘を打つ自分の心臓と、早い呼吸を感じた。身の内にイメージしたフィルターは、見る見る汚染されていく。オレは襲い来る不安感にたまらず、閉じていた瞳をそっと開けた。
まだ、何の変化もないその姿は、相変わらずひどく悲しくオレの胸をかきむしる。今離れたら、その瞬間に命の灯が消える。まざまざとそれを感じて、オレはきゅっと唇を引き結んだ。
オレはこの人の、元気になった姿を見たい。この人が誰か知らないし、穢れを消して喜ばれるかどうかも知らない。でも、オレは、このままは嫌だ。
怖い……。でも、怖いと悲しい、どっちが嫌だろうか。
すぅ………はぁ………。
回路をつないだまま、じっと巨体を見つめた。どんどん汚染されていくオレのフィルターは、いつ限界が来るのだろうか。
でも、そうだね……オレは、怖いより、悲しい方が嫌だ。
いつの間にか胸苦しさはなくなり、心が凪いでいく。小さなゴムボートは、いつの間にか巨大な鯨の背に支えられ、もうどんな波にも揺れることはなかった。
――ユー……タ!……ユータ!!ど……こに……いるの?
「ラピス?!」
どのくらい集中していたのだろう。深く深く意識の底に潜っていたオレは、突如繋がったラピスの声に、驚いて顔を上げた。気付けば周囲の重苦しい淀みが消え、オレの目には普通の洞窟のように感じる。もしかして、あの淀みが繋がりを邪魔していたんだろうか。
繋がった、とラピスの歓喜と急行する様子が伝わってくる。ラピスにこの状況を見つけられたら、怒られるかもしれない。きっと酷い顔色であろう自分を思って苦笑すると、気持ちを奮い起こした。オレは悲しいのは嫌だ。ラピスが悲しいと、オレも悲しい。勝手を通すなら、シャンとしなくてはいけない。
ぐっと顔を引き締めて巨体に目をやると、最初に比べ、明らかに生命の反応は強くなっている。引き替えに、オレがフィルターに留めている穢れは、今にも逆流しそうに暴れていた。これを抑えきれなければ、元の木阿弥どころか、オレも巻き込んで最悪の結果になる。
「ぅ……あ……?お前っ?!何をしているっ!!」
直接耳に響き渡った大声に、今度こそ飛び上がりそうになった。そうか、すっかり忘れていたけど、青い髪の人……!
じゃりっと起き上がったらしい物音と共に、こちらへ敵意を向けられたのを感じる。
でも、集中をこれ以上逸らせまいと、オレは目の前の巨体から視線を外さない。
「手を、離せっ!!」
激しい衝突音と、何かが地面に落ちる軽い音が断続的に響いた。
『ここは任されてるの。通さないわ』
『ゆーたの邪魔しないで!』
頼もしい声に、そっと微笑んだ。もう少しだけ、お願い。相手が危険であることを知ってるけれど、それでもオレは任せると言ったし、みんなは任せてと言ったから。信頼を胸に、オレたちはそれぞれの敵と向き合った。
* * * * *
『モモ、攻撃防げる?』
『任せて、って言いたいところだけど、確実に止められるとは言えないわ』
『守ってばかりじゃ、ジリ貧だぜぇ!攻めて守れ、打って出ろ、シロ!!主を守るんだろぉ!』
無責任にけしかけるチュー助に、シロは唸り声をあげて姿勢を低くした。普段のほわりとした表情が、研がれた刃のように変貌し、瞳に青い炎が燃えた。
『そう、ぼくはゆーたを守る』
魂を振るわせるようなフェンリルの咆吼と共に、シロは風を纏って飛びかかった。
「フェンリルごときが……」
唸りを上げて飛来するのは、無数の小さな
『逃げたら、守れない』
当然避けるはずの投擲武器の嵐を前に、シロは真っ向から突っ込んだ。白銀の毛並みにパッと赤が散る。
『大丈夫。スオーが守る』
額の宝玉を揺らめかせ、蘇芳がじっとシロを見つめた。
「なっ……?!」
巨大なフェンリルは、無数の武器の間を奇跡のようにすり抜け、その人物の目前へ飛び出した。
「ガアァ!!」
咆吼と共に肩に食らい付いて、おもちゃのように投げ飛ばす。小柄な人影が放たれた矢のような勢いで壁面へ激突すると、驚愕に彩られた表情は土煙に消えた。
『シロ、大丈夫?!』
『大丈夫、スオーのおかげで、かすってるだけだよ』
駆け戻ったシロは、油断なく土煙を見つめた。
ドドッ……
『?!』
土煙が収まるより先に、ユータの周囲にいくつも巨大な水柱が立ち上がった。
『モモ!』
『分かってる!』
「ぐっ……爺様……!!」
ふらりと立ち上がった人影は、よろめきながら上げた手を振り下ろした。途端に滝のように降り注ぐ水が、猛烈な水圧をもってモモのシールドを襲った。
「食らえ!」
『両……方はっ……無理よ!』
再び出現した無数のチャクラムは、ただ1点、ユータを狙っている。苦しげなモモの声に、シロが前へ踊り出た。全部たたき落とすのは、きっと無理。シロは冷静に判断してチャクラムを見据えた。
『大丈夫、ぼく、ゆーたより大きいから』
――第一部隊、飛来物撃破!
「「「「きゅうっ!」」」」
『あ……』
シロの目の前で、無数の火花が散った。
――第二、第三部隊、多段攻撃なの!
「「「「きゅーっ!!」」」」
ドドドッと雨のように容赦なく魔法がたたき込まれ、再び土煙が舞い上がった。
――許さないの。ユータに攻撃したの……許さないの!
群青の瞳を怒りに染めて、小さな獣は土煙の向こうを睨み付けた。
『ラピス……!!』
頼もしい小さな味方に、モモたちが安堵の息をついた。
* * * * *
良かった……ラピスが来た。オレは背中でそれを感じて、ホッと胸をなで下ろす。
ラピスは強敵に対する攻撃の要だ。きっともう大丈夫。
流れる汗をそのままに、ふう、と息をついた。巨体に感じる嫌なものは徐々に薄くなり、代わりにオレに集めた穢れが今にも爆発しそうだ。早く結晶化して処理しないと、この量が溢れ出せば、オレの小さな身体じゃものの数分ともたないだろう。
どうしてこんなに必死になってるんだろうとも思う。でも、知らない人なのに、知っているような気がして。
この穢れのせいだろうか?あの時のルーを思い出すからだろうか。
だってもし、これがルーだったら?
ルーを救えずに看取っていたら?あの穢れに、ルーが食い尽くされていたとしたら……。
その時、固く閉じられていたまぶたが震えたような気がして、目を凝らした。
重そうにわずかに開いた瞼から覗いたのは……金色の瞳。
穏やかな知性の光に、漆黒の獣の瞳が重なった。
「!!」
オレはカッと目を見開いた。
怖さなんてもう頭から吹っ飛んでいた。ただ、許せない、この穢れがここにあることが許せない。
ぶわっと身体に力が満ちるのが分かる。巨体に触れて冷えた手指の先まで、内から溢れるほどの光を感じた。
「そこから……出ていけ!!」
思わず口走った言葉と共に、柔らかな光が周囲を包んだ。
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書籍版3巻の発売まであと一週間!ついに、ですね。今回新たなシーンも増やしてみたので、ご覧になっていいただけますように!紙書籍についてくるSSも、お礼を込めて普段の2倍書いたので読み応えあると思います。ユータの子どもらしいところが盛りだくさんの、楽しいSSです!2巻は一時店頭もネットもなくなったりしていたので、今回見つけた時が買い時ですよ?!(笑)
今年もどうぞ宜しくお願い致します。
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