堕天使

Grateful Days

Scene.44

 Grateful Days


 狭い部屋だった。薄暗く、窮屈な部屋。

 その部屋の中で、輝くものがひとつ。白い少女。シーツの上に横たわる彼女の華奢な躯には、幾本ものチューブが繋がれている。それらが少女の真っ白な肌に突き刺さって纏わりつく様は、まるで荊の中に閉じ込められた天使だった。それはあまりにも痛々しくて、あまりにも美しい。

 恐らく、神という存在も自らの隷である天使たちをそのように弄んだのだろう。しかしながら、それは神だからこそ許された行為に他ならない。

 人間はそこに踏み込むべきではなかった。

 予想のつかない未来という事象に対して、私たちは何一つとして有効な防衛策を持っていない。もしかしたら、その状態を運命と呼ぶのだろうか。

 眠れる少女は明るい光に包まれている。青々しい、人工の光。無機的な光。その光は神々しく、或いは、綺麗に飾られた人形の様に、天使の造形を引き立てる。少女の首筋や腕に浮き出た青い整脈さえも、彼女の躯を這う蔦の様だ。そんな、様々な電子機器に囲まれて眠る可憐な少女のベッドの前に立ち、ブロンドの髪の女は彼女を眺めていた。その冷たく、黒い瞳は、――冷淡で無機的な――蒼を映す。

「どう? 被験体十三号の状態は」

 少女の傍に座る白衣の女は答えた。

「良好です。適応レベルもこれまでで一番良い数字ですよ」

「そう……。よかった。それで意識はいつ戻りそう?」

「それは……。明確には判りかねますが、近い内には目覚めるかと」

「他の被験体は全て覚醒し、次の段階に入っているのよ? 解っているの?」

「承知しております」

「なるべく急いで。私たちにはあまり時間がないの」

「はい。解りました」

「頼むわね。レーム博士」

 白衣を纏ったブロンドの髪の女が灰暗い部屋を後にする。その後ろ姿をレームは苦々しく見つめていた。女の後ろ姿がドアの隙間に吸い込まれて消えると同時に彼女は溜め息をついた。神様気取りめ、と。あの女の思い通りに全てが進行している。人類にとってこれは悲劇だ。どんな手を使ったのか知らないが、あの女よりも優秀な自分が、何故、あんな女の下で働かなければならないのか。

 彼女は苛立っていた。しかし、今は耐えるしかなかった。

 静まり返った部屋の中には機器の電子音が、ただ響いている。

 それは規則的に。無機質に。そして、虚しく。

 この時、人は、自らが神を造り出したことをまだ知らなかった。その目覚めが世界を変えることさえも……。否、その予定だったのだろう。しかし、その誕生は世界を、彼らが予想し得ない方向へと歩ませる。



「ん……」

 小さく、吐息を漏らし、その少女は目覚める。広い部屋だった。ドーム状の丸天井は高く圧倒的で、少女のベッドの周囲はあの時と同じように機器が取り囲んでいたが、それだけだった。その向こうには、少女を包囲するように、大きな空間が静かに鎮座している。

 ゆっくりと瞼を開いた。

 真っ赤な眼が、光に眩む。霞む視界。本来なら、それは幾らかの時間を置くことで、徐々に鮮明さを増していく。しかし、今回は状況が違った。

 ――眩しい。

 少女の真上には、煌々と彼女を照らす照明。人工の“それ”は目覚めを誘うように。否、眠ることを許さないかのように、彼女を照らしていた。

 身を起こそうと、首を持ち上げた少女は、視界に入った異常なものに思わず声を漏らす。

「何、これ……」

 少女の身体には、その至る所に付けられた管。その痛々しい光景に彼女は震えた。

 痛みは、無い。けれど、怖い。何が起きているのか、此処はどこなのか。何をされたのか。何も判らない、その得体の知れない恐怖が彼女の身体を駆け抜けた。震えながら、少女は自らの肩を抱く。

 彼女の意識が戻ったことに気が付いたのか、白衣を着た若い女が少女の元に歩み寄る。白いコンクリートの空間に靴音が響いた。

 そして、彼女は、震えながら俯く少女に微笑みかける。

「気が付いたようですね」

「訳、わかんない……」

「御機嫌よう、気分はいかがですか?」

「ここは何処……?」

「牧場ですよ」

「牧場?」

「そう。そして、あなたは狼」

 刹那、胸の辺りが赤く染まる。その剣は引き抜かれた。

 音も無く、白いシーツに鮮血が散る。

 ベッドの上。そこには同じ真っ赤な瞳の少女が天使の装飾が施されたエストックをその右手に携え、無表情で彼女を見ていた。少女が天を仰ぐように、ベッドの上に崩れる。呼吸が速くなる。それに同調して、彼女の胸からは赤い血は脈々と流れ出していた。白いシーツに血の染みが広がっていく。焦点の合わない視線がぼんやりと無表情の天使と、真っ白な空間を映し出していた。自分の鼓動がこんなにも大きく響くものなのかと、少女は薄れゆく意識の中で思っていた。

 その先は、暗い暗い闇。

 意識を失いつつある彼女の鼓膜に、この静寂に、白衣の女の高笑いが響く。

 それは確実に彼女の何かを引き剥がした。

「さあ、目覚めなさい。私が全てを注ぎ込んだ最愛の天使。そうして、すべてを、すべての希望を、すべての救済を、その手で滅ぼして仕舞え」

 血よりも紅いその瞳を彼女は見開いた。

 この瞬間、神は死んだのかもしれない。それが最初の目覚めだった。

 血の滴るエストックを掴む。痛覚が抑止力を失ったかのように、天使はその細腕で刃を砕き、折れた刀身の先端を、人形の様な少女の胸に突き立てた。短い悲鳴と共に、力無く倒れる天使に覆い被さって、幾度も、幾度も、幾度も刃を突き刺す。

 血飛沫の中で、天使は笑った。形の良い唇の間から白い歯を覗かせて。真っ白な空間の中で。ただただ、にこやかに。

 鮮血は、白に舞う。

「良いわ、最高、もっと血を求めなさい。もっと殺して。さあ、引き裂いて、噛み千切って、それこそが貴女の存在意義よ!」

 いつの間にか、ぞろぞろと同じ紅い瞳の少女が、真っ赤な天使を囲んでいた。

 彼女たちは手に手に、銀色に輝く刃を携えて、生気の無い顔で。

 エストックの破片を放り投げる。いつの間にか、彼女の出血は止まっていた。ベッドから降りようとした彼女の腕を、最初の少女が掴んだ。そして、弱々しく懇願した。もう殺して……、と。赤い瞳から、涙が零れ落ちる。

 その両眼を、ルシファルは抉り出した。

 ボタボタと、血の滴る眼球を彼女は握り潰し、口角を吊り上げた。

「もう見なくていいの、その代わり、聞こえるわ」

 白衣を着た女は目の前の光景に息を呑んだ。それは天使と呼ぶには、あまりにも残酷で、あまりにも美しい存在だった。否、本来のそれは彼女の様な姿だったのかもしれない。何故なら、あの血塗れの天使は、これまで頭の中に思い描いてきたどんな天使よりも、美しいではないか。これこそ最高傑作だ。誰もあの緋色の瞳の天使を傷つけられない。

 ほら、また、引き裂いた。

 あの忌々しい紅い瞳を、爛々と輝かせて。

 羽根の無い天使は人形のひとつから奪い取ったククリナイフで、次なる生贄の首を切り落とす。首の無い少女の死体が、天使の足元で痙攣していた。床に広がる血液と、肉片。顔も、髪も、躯も、真っ赤に染めて彼女は刃を振るい続ける。白く、そして広いだけの、色気のない舞台の上で。

 血溜まりが水音を立てた。紅く、緋く、天使は舞踏する。

 白に舞って――


 女神戦争。

 神を殺すための戦いに於いて、人々が出した答えのひとつが新しい神を生み出すことだった。こうして紡がれ始めた新しい神話は、残酷な結末へと染まってゆく。

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