第23話 ノーガード・ノーディフェンス

 放課後。

 今日の第二生徒指導室には、およそこの部屋とは対極に位置している人物がやってきていた。

 黒く長い髪をはらりと手で払って、彼女はその冷気を放出させる。

「灰佐君、私とこんなところで二人きりになるなんて、あなたってもしかして自殺志願者?」

「ごめん言ってる意味がよくわからないんだけど。少なくとも俺は天寿を全うしたいよ?」

 お前は何、衆人環視がなくなると人を殺してしまう病気にでも罹患してんの?

「なら早く納得のいく説明をしてもらえる?」

 説明というのは言うまでもなく、俺が彼女を昼休み中追いかけていた本当の理由についてだろう。彼女が俺とこんな人気のないところで二人きりなのに防犯ブザーを鳴らさないでいてくれているのは、それを突き止めるために違いない。

「じゃあ単刀直入に言うが、黒羽、お前のその綺麗な顔面を見込んで頼みがある、」

「お断りするわ」

「なんでだよ! まだ最後まで言ってないだろうが!」

「あなたの下劣な思考なんて、聞くまでもなくわかるもの。私はあなたと付き合う気は皆目ないわ。これ、たしか以前にも言ったわよね?」

「それは覚えてるが……。早とちりすんな、今回のお願いはそういうんじゃない。そして、俺はもう一生、金輪際二度とお前にはその手の告白はしないから。安心してくれ」

 申し訳ないが、俺はマゾではないので。真性のサドと付き合う気は毛頭ない。こいつはナチュラルボーンドS女だからな……。

「そこまで言われると、まるで私があなたにすら異性として見られていないどうしよもなく残念な女みたいで、腹立たしいのだけど」

 イラっとした視線を向けてくる黒羽。

「ああ?! じゃあどうすりゃいいんだよ! 告ってもダメ、告らなくてもダメ、無理難題じゃねえか! ワガママMIRROR HEARTかよ! それにそもそもお前を異性として認識出来ないような恐怖を俺に植え付けたのはほかならぬお前だからな?!」

 色んな女子から色んな仕方で振られてきた俺だが、こいつのは全俺の玉砕史に残る凄惨な手口で振られたので、心的外傷が未だに凄まじいのだ。今でも彼女のことをかわいいとこそ感じるが、出来れば近寄りたくないと感じるようになってしまったのも事実。

 しかし数多の男子をそうして地獄に落としてきたのであろう彼女は、そんなこと一々気にしていたらキリがないらしく。

 ただ、一言。

「自分の心の弱さを他人のせいにしないで欲しいわね。で、要件はなに?」

 傍若無人過ぎんだろ……。

 どうして神様はこんな奴をこんなにかわいい顔で創りたもうたのか。綺麗なバラには刺がある的な神様なりのユーモアなんだろうか。だとしたら笑えな過ぎるので神様はその償いとして今すぐ三鷹先生と俺を結婚させるよう取り計らって欲しい(意味不明)。

「なんつーか、うちのクラスの相田って知ってる?」

「ええ。まあ、人並みには」

 あのイケメンのことを聞いてそんな風に言ってくんのは、たぶんクラスでコイツだけだろうな。

「じゃあ話は早い。あいつにさ、お前、告白してくんない?」

 俺がそう言うと、黒羽はその整った眉をしかめ、細い体を抱きながら後ずさった。

「はあ? それは私と付き合うことが絶望的だけれど私を性の対象として見ることには諦めがつかなくて、仕方がないから寝取られでその欲を満たそうとか、そういうことかしら? あなたってとことん最低な雄ね……」

 ん? ちょっと何言ってんのかよくわかんない。誰か俺にもわかるよう訳して。

「え、ごめん。その発想はなかった。むしろそれを瞬時に思いつくお前のヤバさにいまドン引きしてる」

「……あなたの心を読んだの。だから今のは私の論理ではないわ。勘違いしないで」

 常に湛えている余裕をやや崩して、彼女は言い繕った。

「あのさあ……、もっといい言い訳思いつかなかったの?」

「あなたこそ、そんなことのために私の弱みを握って脅しをかけようとしているわけ?」

 そんなことで悪かったな。ぶっちゃけ相田が辺見に告るのを防ぐ方法なんてそれくらいしか思いつかなかったんだよ。さすがにあいつだって黒羽クラスに言い寄られれば心変わりするかなーなんて、俺みたいな非モテ男子の思考回路から生まれたこれが愚策なのは俺もわかってるし、事情を知らないお前からすれば意味がわからないのも当然だよな。

「脅すつもりはないんだが……」

「一応聞いておくけれど、どうして私にそんな奇行をさせたいのかしら?」

「あー、こっからする話は内密で頼むよ? お前がそれを誰かに言い触らすと回りまわって俺が不登校になっちゃうから」

「だったら私としては言い触らしたいのだけど」

 だから息をするかのような自然さで人を傷つける言葉を吐くのやめろ。

「おいお前それが一クラスメイトに対する発言かよ。心とか痛まないわけ?」

「冗談よ。あなたという避雷針がいなくなったら、あのクラスでは孤立している私もいじめの被害に遭わないとも限らないし、そうなったら相手に二度とそんな気が起きなくなるような仕返しをしなければいけなくなるから、面倒だものね」

 いろいろと発言が怖いんだよ。なんなんだよこいつ。なんで普通にあなたが不登校になったら困るで話を着地させてくれないの? そんなお前のやられたらやり返すポリシーとか聞かせてくれなくていいから。知りたくもないから。

「とりあえずお前がサッチャーのような鉄の女だということはよくわかった」

「こんなかよわい生娘に対してずいぶんと失礼ね」

「かよわい生娘は年頃の男の子に二つも三つもトラウマを刻んだりしないんだよなあ……。てか自分のどの辺をかよわいと思ってんだよ。意味分かんねえよ」

「ごめんなさい、ちょっとなにを言っているのかよくわからないわ」

 はあ? こいつマジで鉄くずで出来てる心無いロボットか何かなの? それとも頭の中に消しゴムとか飼ってんの?

「意味がわかんねえってのはこっちのセリフなんだが……、まあいいや。で、さっき俺があんな馬鹿げたこと言った理由だけど、かくかくしかじかで――」

 俺は、辺見が相田に告られそうで困っている、とかいう、聞く人が聞いたら何言ってんだオマエ自慢かよみたいな与太話を、黒羽に聞かせた。

 そもそも黒羽は、そういうカースト系の勢力争いとかに執着なさそうだし、こっちは一応彼女の弱みを握っているわけで、そんな理由から、彼女には言ってもそれを誰かに言いふらしたりしないだろうと判断したのだ。それに、こいつも俺や四鬼条同様、クラスで浮いている友達のいないタイプの人間だから、言いふらそうにもその相手がいないだろう。

 つって、これで黒羽が気まぐれにこの話を誰かに言いふらしたら、俺は割とガチでこの学校から隠居することになると思うが。まあでも、その確率は殆ど無いはずだ。なんだかんだいって、黒羽は残虐でこそあれど、無意味なことはしない奴だから。

「なるほど。それで相田君が辺見さんから私に鞍替えするよう誑し込んで欲しいと、そういうわけかしら?」

 彼女は俺の話を聞き終えると、口元に冷笑を携えてそう言った。

「そんな感じだな。で、お返事は?」

「あなた馬鹿? もちろんお断りするわ」

「まあ、ですよねー」

 しってた。

「考えてみて欲しいのだけど、そんなことをしたら、私はこのクラスはおろかこの学校中のあらゆる女子から嫉妬の目を向けられるわ。そんなの私は御免だもの。第一、辺見さんもそう言う理由でそれを嫌がっているんじゃなくて? それじゃあ私がそのバッドステータスのスケープゴートになるだけじゃない。なによその慈善事業は。仮になにがしかの対価をもらったとしても願い下げだわ」

 まあこっちも無茶苦茶なお願いをしている自覚は有り余っていたわけで、すんなりこいつがうんと言うとは思っていなかった。

 だから。

 当然俺は、第二のプランを練ってこの場に臨んでいる。

 しかしこの策は、出来れば使いたくない。億分の一の確率でも、彼女がさっきの案に頷いてくれる可能性に俺が賭けたのには、そんな背景がある。でなきゃあんなアホみたいなこと、誰が言うか。あの、こわーいこわーい黒羽玄葉様に。

 今回はたまたま彼女の気をあまり損ねなかったから五体満足でいられているが、一歩間違っていればこの体に穴が空いていたかもしれないのだ。黒羽玄葉と対話するということは、そういうことである。あくまで、俺にとっては。

 とはいえ、勘違いしないで欲しいのだが、別に黒羽は普段からそんなヤバい言動をとっているわけではない。クラスでは、立派な優等生であり、模範生徒だ。全ては俺がこの学校でしてしまった不始末のせいである。

 だから、この後。

 たぶん、数分もしないうちに、彼女はなにか凄まじい粗相をしでかすかもしれないが、大目に見てやってほしい。

 それは決して、彼女の本来の一面ではないと思うから。

 俺は、明日もお天道様と会えたらいいなあと願いつつ、思い切って口を開く。全ては三鷹先生のおっぱいのために。

「……一つ聞きたいことがあるんだけどさ」

「なにかしら?」

「攻めの反対って、なんだっけ?」

 俺がそう聞くと、彼女はその美しい顔を歪める。

 ごくり。俺は唾を飲んだ。

 なぜなら、彼女がそうしてその細い眉をセンターへ寄せた理由、そしてこのあとに続く彼女の言葉如何で、俺と彼女の関係性が、今後大きく変わり得るから。

 やがて。

 彼女のやわらかそうな唇が、割れる――

「はあ? そんなもの、受けに決まってるじゃない」

 刹那。

 パンドラの匣が、開いた――。

「ああー、マジかー……。本当にそっちだったのか…………、お前…………」

 俺は、希望への選択肢を手にしたにも関わらず、あまりに知りたくなかった深淵に触れてしまい、絶望していた。

「何を一人でぶつぶつ言っているの? さっきの質問と今までの話に何の関係が……」

「お前さ、優等生なのにそこを間違えるなよ。間違えないでくれれば、こんなことにはならなかったのに」

「なんなの、あなた、さっきから。勝手に私の話を遮らな――」

「まだ気付かないか、黒羽。お前は今、盛大なミスをやらかした。普通な、攻めの反対は守りだ」

「へ……? あ、え……。あっ………………!」

「そして、攻めだとか受けだとかそんな特殊な用語を使う人間ってのは、将棋でも嗜んでるんじゃねえ限り、この日本には一種類しかいねえ。つまりお前は――」

「うっ……、そ、そんな、どうして…………」

 一度も見たことのない黒羽の動揺。それが今こうしてここに現れているということが、何よりの証拠だった。

 俺は、彼女の学園生活を終わらせかねない一言を、宣告する。

「腐女子だ」

「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 学校ではオタクのオの字も、BLのびの字も匂わせていなかった黒羽。その衝撃的過ぎる本性。オタバレした彼女は、まるで命を賭けたギャンブルに負けたかのような表情をしてまで、取り乱している。

 そんな死に体の彼女に、俺はまだまだ追い討ちをかける。

 なにせ、彼女の業は、それほどまでに深いのだ。

「しかもそれだけじゃない。お前、男装で有名なコスプレイヤーのくろはむだろ? 流石にその名前はわかりやすすぎるからやめたほうがいいぞ」

 俺はコスプレイヤーのお写真を眺めるのが趣味な気持ちの悪い人間なのだが、ある日、その過程で、あれ、これ黒羽じゃね? みたいな人を見つけてしまったというわけである。しかもそのハンネが本名もじりだし、そのツイッターアカウントには定期的にデカ盛り食った報告が上がってたしで、役満だった。

「そ、そこまで、しって…………、あ、あああ、あああああっ!! 無理! 無理無理無理無理ぃ! 無理過ぎてムリリョになるぅーーーーー!! ああっ! ああっ! あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 普段の黒羽なら絶対言わないような頭の悪そうな発言さえして、普段なら絶対出さないような大声で、彼女は咆哮する。クラスの誰かに今の状況を実況したとしても、黒羽はそんなこと言わない! と言われること請け合いだった。

「あ、あの、ちょっと落ち着こうか。いくらなんでもキャラ崩壊し過ぎだから。腕切られた時の柱の男みたいになってるから」

「うふぅ、ううぅううう、あぁんまありだああ…………。HEEEEEEEEEEEYYYYYYY!!!!! あァァァんまりだァァアァ!!!! おあああああああ!!! あひいあひいあひいいいい!!! ああああああああああ!!! このよのながをおぉ、がえだい!!! ああんおおんああおあああああおん!!!」

 ああもう滅茶苦茶だよ。元ネタ完全再現な上に別なネタと組み合わせてセルフMAD状態だよ。

 人間というのは、こうも深く深く底へ落ちていけるものなのか。

 荒れ狂う黒羽を見ていると、なんだかこっちまで申し訳なくなってくる。

 というか、本当に泣いてる……。なんか、ごめん……。ほんと、ごめん……。

「全然すっきりしない………。しにたい………。推しの天井のシミになりたい…………」

 彼女は涙を拭うと、呆然と上を見上げてそう呟いた。

「あの、なんか、ほんと……、ごめん。もうすげえ破れかぶれじゃん……。そんな黒羽、俺もみたくなかったよ…………」

「なにを偽善者ぶったこと! あなたが招いたたことじゃない! ふざけないで!」

 彼女は目尻にうるうるを溜めながらも、きっとこちらを睨めつけた。

「え、ええ……」

 さっきまでくよくよしてたと思ったら、急に激昂?! 情緒が不安定に過ぎる。

「やっぱり、昨日ストーキングされていたと気付いた時点で始末しておくべきだったんだわ……。私としたことが、情にながされていたのかしら。……いいわ、もう、まよいなんてない。ころす、ころしてやるぅ……。こんなことしられたら、もう来週から学校なんていけないもの…………。お嫁にも……。ああ、あはは、ぜんぶおわりにしよう……、わたしが、この手で…………。えへ、あへ、へへ…………へっ…………」

 あ、あれれれー? なんかちょっとやばくない、これ?

 黒羽さんのかわいいお目目が、なんか、濁ってる、よ?

「い、いや、別にそのことを言いふらそうとかそういうんじゃないんだ。そ、その特技をさ、ちょっと生かして欲しいだけで……」

「なにいってるのお? あなたは、きょう、イマから、シヌんだよぉ……?」

 彼女はそんなヤンデレみたいなことを言いながら、ふらふらとおかしな足取りで近付いてくる。ひ、ヒエッ……。

「おおお、落ち着け黒羽! 話せばわかっ!」

「しねえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」

 彼女はどこからともなく取り出した糸切りバサミ片手に、掴みかかってきた。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!! なんでお前はそうややってすぐ凶器を取り出せるんだああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

「女の子だもの、当然でしょ! 黙って死ねえええええええええええ!!!!」

「女の子の定義、壊れりゅううううううううううううううううううううう!!!」

 俺はビュンビュン唸りながら繰り出される糸切りバサミをかわしながら、吠えた。

「それに私、家庭科部だし、ねっ!!!!!」

「それはバスケ部なら常にバスケットボールを携帯していてもおかしくないでしょというくらい滅茶苦茶な理論だからなああああああああああああああああああ!!!」

 くっそ、なんでこいつ女子なのにこんな握力強いんだよ!! 体型も細身なのに!!

 元運動部だった上に今でも毎日トレーニングしてる俺が振り払えないってなに? 火事場の馬鹿力とかなの? 万力染みてやがる。掴まれてる右手首が壊死しそうなくらいだ。

「うるさい! そんなことしらない! だまって、しね! しね! しね! しね! しねえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!」

 合理的な理性人間だった黒羽の、非理性的な姿は、単純に恐怖だった。

「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 俺達は叫びながら、お互いに取っ組みって牽制する。剣道場内みたいな惨状。

 そんな折。

 俺はとあることを思い出して、その手をパッと離した。

「ひゃっ!」

 急な運動量の変化に、黒羽が大勢を崩す。その間隙を穿つ。

「そこだァ!!!!」

「ちょ、なに、どこ触って!? っきゃ!」

 バランスを崩した彼女の、スカートの右ポケットへ手を……。

「この期に及んでオレの身体目当てかああああああああああああああああああ!!!!」

 しかし、彼女のそんなトチ狂った怒号と共にやってきたのは浮遊感。身体の自由を奪われた俺は、背中から地面へ倒れ込んでしまう。

 後背部だけでなく、足首も痛い。どうやら足を払われたようだ。

「そうじゃねええよ!! お前たしか、そのへんに防犯ブザー持ち歩いてたろ!! それを鳴らしてやろうってんだよ!!」

 俺は彼女に馬乗りになられながら、死に物狂いで抵抗する。

「ストーカーはなんでもお見通しだなあァ!? クソがっ!!!」

「違うだろ!!! お前が一年の時俺の前でそれを実演してみせたんだろが!!?」

「そんな詳細一々覚えてねえんだよ!!! こちとらァァ!!!」

「お前にとってはそうかもしれんが俺にとっては一生モンのトラウマなんだよ! つーかいくらなんでも、口調変わりすぎだろ!!」

「だまれカスガイ!! てめえらの望むような喋り方をしてやってたんだっつーの!! そんなこともわかんねーからてめえらはドーテーなんだ、ヴァアキャめ!!」

 なっ……!

「お前がオタクなのもいい。コスプレイヤーなのもいい。でも、それだけは知りたくなかった…………。黒髪のクール美少女は演技だったのかよ!? 俺がかつて惚れこんだ黒羽玄葉は、虚像だったってのか!?」

 そ、そんな…………。

 この一年で女子への幻想を粗方ぶっ壊された俺だが、黒羽にも複数のトラウマを植えつけられた俺だが、それでも。それでもお前のそのかっこよさには、まだ少し憧れていたのに。ぼっちの俺にとっては、一人でも強く生きているお前の姿はそれなりに精神的支柱だったから。

 それが。それすらもが、全部、まやかしだったのか……?

 俺は、またも黒羽によって心的外傷を負わされてしまった。

 あと、かすがいはたぶん罵倒に使える言葉じゃないよ……。たぶんそれだけ判断力が鈍ってるってことなんだろうけど。

 ……あれ、これやばくね、このまま俺が黒羽に殺されたとして、その場合、責任能力が欠如していたとかでこいつ無罪になったりしない? だいじょうぶ? たすけて……。

「てめえがてめえで剥いだ仮面だろが! 今更なに言ってやがる、雑魚め! 女の子はだれでもなァ、秘密抱えて生きてんだよ!!! てめえらクソ男共はそれに生かされてると自覚しろ。感激しろ! 一日一万回、感謝の土下座して、糞して寝ろ!!」

「う、ううう…………あ、あああ…………」

 黒羽玄葉が、そんな言葉使うなああああああああああああああああああああ!!!!

 うろたえてしまった俺は、黒羽が凶器を握る右手を掴む力を弱めてしまった。

 そして。

 それを見逃すような、彼女ではない。

「隙アリぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!」

 凶刃が、薄皮を裂く。

 さらに、そのまま。

「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 ザクぅう――

 肉が、抉れた。

「ぎいいいいいいいいいいいいいいいいいやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 痛みと恐怖と苦しみと絶望の慟哭。

 それを聞いても、流れる何かを見ても、彼女の目は据わっていた。

「男がこれくらいで大声あげんなよ。これで終わりじゃねえんだ。ほら、次いくぞ、ゴミ」

 その瞬間、自分はこのままでは明確に死ぬと、俺の本能が理解した。

 すべての思考は止まり、俺はただ目の前の外敵を頭突き、突き飛ばす。

「させるかあああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

「っち……、暴れんな、暴れんなよ!」

 死に物狂いで暴れ尽くす俺を、黒羽は押さえ込むのに必死だ。

 そんな彼女を、思い切り押し倒す。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

「…………きゃっ!」

 黒羽のかわいい声と共に、上下が逆転した。今度は俺が彼女の上にのしかかっている。

 すると。

「なに、私を、犯す気? エロ同人みたいに、エロ同人みたいに!!!」

 俺はその、先程までの狂人と化したものではない、ある種本来の黒羽に近いような声をきき、理性を取り戻してしまう。自分の押しつぶした先にいる綺麗なものを見て、この現状の異常性を冷静に理解してしまう。

 しかしそれは、悪手だった。

「ち、ちがっ、そんなんじゃ! ……あがっ!!」

 そんなようなままごとを言う間に、再度、一瞬で天地が逆転する。

「ふっ、油断したなあ、灰佐!! ちょーっとかわいい声出すだけでこれだァ……。ちょろいもんだぜ、頭にちんこついてるような馬鹿ども操んのはなあ?」

 黒羽は、役者だった。常日頃から多くの視線に晒されている彼女は、自分がどのように振る舞えばその鑑賞者たちが自分の思う通りに心を動かすのか、熟知しているのだ。

 駄目だ……。こんなただでさえ完璧な存在に悪知恵と火事場力が備わった究極生命体になんぞ、俺のようなゴミ人間では勝ち目がない。

 敗北を悟った俺には、もはや命乞いをするくらいのことしか出来用もなかった。

「なあ、本当に悪かった。誰にも言わないから許してくれ……!」

「そんな言葉でオレが納得するわけねえだろが」

「お前だってこんなことしたって無駄だってわかってんだろ? なあ? な?」

「それでも、それでも! 意地があんだろ、女の子にも!!!」

 そのセリフは本来、言った方が死ぬんだよなあ……。

 だが、現実は非常である。

 刃は、俺の胸に突き立てられようとしていた。

「くそがああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

「しねええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」

 二人の戦いは、正に最終局面を迎えようとしていた。

 さて、そんな修羅場に、場違いな音が響く。

 ガラガラ。

 扉の開く音だろうか。

 無論、今の俺たちには、そんなもの、取るに足らない些事。

 命と尊厳をかけた戦いの前に、訪問者が誰かなど、気にする由もない。

 一秒に満たない、空白。

 タッタッタッタッ――

 そんな音が、近付いて来た次の瞬間。

「くぁっ!」

 俺の上に跨っていた黒羽の背骨が、くの字に曲がった。

 そして。

 ッダン!!!

「がはっ!」

 黒羽の悲鳴が耳朶に届く。

 俺の肢体を覆っていた重みが、消失した。

 しかして、視界のその先では。

 突然の来訪者である三鷹先生によって無理矢理床へとその背中を叩きつけられた黒羽が、肩を押さえつけられていた。


「で、これはどういうこと? 回答しだいでは二人共、警察だよ?」

 

 女の子は誰でも、魔法使いに向いている。そんなことを歌っていたアーティストの言うことが、少しだけわかったような気がする。

 外見を取り繕って、内面も取り繕って、彼女たちが男子に向けるその砂糖菓子みたいに甘美な言葉と表情は、まるで魔法のように俺たち男の子を魅了してしまう。

 その砂糖塗れの甘みを、女の子の本体だと思ってた。

 でも、そうじゃない。女の子の本当の正体は、内に秘めたスパイスの方なんだ。

 時々魔法が解けて見えてしまうその辛味が、そんな秘密の隠し味こそが、彼女達を真に女の子足らしめているんだ。

 そして、今。

 その魔法を無理矢理に解いてしまった俺は。

 然るべき代償で。

 この手を赤く染めている。

 

 白馬の王子様でもなんでもない俺では、魔法の解けたシンデレラは救えない。

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