Épisode 26「美人、だったのか」
「癒しの女神……? ってああ、美人のねーちゃんのことか」
思わぬ返事に、ヴィクトルとフランツが揃ってジェラールを凝視した。穴が開きそうなほど少年の背中を見つめる。まさかこんなに早く、接触者に出会えるとは思っていなかったのだ。
「美人、だったのか」
嬉しい誤算過ぎて、珍しくヴィクトルが言葉をつっかえた。
「あー、て言っても、フード被ってたから、俺もあんまり見てないけど」
「見てないって、まさか君が治してもらったのか?」
これにはレオナールも息を呑んでいた。彼はその噂を眉唾ものだと信じていたのだ。本気になどしていなかった。それが。
「まあね。木に登ったチビが、怖くて下りられなくなってさ。俺が下ろしてやろうとしたんだけど、思ったより重くて。そのまま落ちたんだよ。チビは無事だったんだけど、俺は足の骨折っちゃって。でも医者になんて行けねーし、やばいなぁって思ってたら、チビの泣き声が聞こえたからって、そのねーちゃんが来たんだ」
顔をすっぽりとマントのフードで覆っていた彼女は、どう見ても怪しさ満点だった。でも、目線を合わせて、自分よりもよっぽどあたふたしながら怪しい者じゃないと言う彼女は、なんだかとても間抜けに見えて。
ジェラールは思った。
「あ、この人なら俺でもどうにかできそう、ってさ」
もし襲われそうになっても、彼女なら対処できると思った。だからまあいいかと、好きにさせた。
「そしたらすげーの。変な方向に曲がってた足がさ、きれいに治ったんだよ。痛みもなくなって。思わず『すげぇ!』って言ったらさ、おずおずと笑ったんだ。それがかわいかった」
「なるほど」
なんとなく、ヴィクトルはムッとしたが、自分でもその理由がわからず、ぐっと飲み込む。
「それで、そのあと彼女は、どこに行った?」
「町のほうに消えていったよ。その先は知らない」
「ほう。ちなみに、笑った顔を少しは見たんだろう? 何か特徴はなかったか?」
「ええ? それ、みんな聞いてきたけど、よく見てないし」
「ふむ――――そうやって彼女を守っているんだな?」
ヴィクトルのひと言に、ジェラールが思わずといった風に立ち止まり、振り返る。
ヴィクトルは悪戯が成功した子供のように、口元に弧を描いていた。
「俺を騙すなら、前世から人生をやり直さないと無理だぞ、
「ぷ、はは! ここにもすげー奴がいた! マジかよ、なんで気づいたの?」
誰も気づかなかったのに、と彼はこぼす。
「癒しの女神に、ある程度は目星をつけているからな。彼女はおそらく魔女だろう。それも、古の魔法を扱う魔女だ」
「そうなの? そっちは知らないや。にーちゃんは詳しいんだな」
まあな、とヴィクトルが応える。魔女についてなら、彼はおそらく研究者よりも詳しいに違いない。その知識は、全て母から教わった。
「癒し系の魔法は古の魔法に分類される。あれは使ったあとにかなり魔力を消耗すると聞いているからな。そのまま平然と歩けるとは思えない」
「そっか、じゃああれ、魔力がなくなったせいだったんだな」
ジェラール曰く、彼の怪我を治した彼女は、激しい息切れを起こし、立つこともままならない状態だったという。
「なのにさ、早く帰ったほうがいいって。俺、そんなふうになるなんて知らなかったから、テンパっちゃって」
「結局どうしたんだ?」
「俺たちが帰らないと、自分も心配で帰れないからって。日も暮れてきて、チビもいたし、とりあえず帰ったんだ。そんで、次の日見に行ってみたらいなかったから、たぶんねーちゃんも帰ったんだなって」
それからジェラールは、恐る恐るヴィクトルを見上げた。その赤い瞳には、懸念の色が滲んでいる。
「なあ、ねーちゃんのこと知って、どうするつもり?」
この少年は、子供という年齢に反して、とても深く物事を考えることができるのだろう。だから、癒しの女神の正体を知った人々が、そのあと彼女に何をするのか、心配しているのだ。世の中は善人だけじゃないと、彼はよく知っている。
「なに、心配することはない。彼女を傷つけるつもりは全くない。ただちょーっと俺と一緒に来てもらって、ちょーっと治してもらうだけだ。そのあとは、もちろん丁重に元の場所にお返ししよう」
でもその笑顔が、この上なく胡散臭かった。こういう人間の言うことは信じちゃいけないと、町の大人から聞いたことがあるジェラールである。
「悪いけど俺、本当に話す気ないよ」
「ということは、君は彼女を知っているというわけだ。もともと顔見知りだったのかな?」
「あーあー、もう何も喋らない。喋るとあんたにはバレそうだ」
「それは残念」
恐ろしい大人だ、とジェラールは思う。敵に回したくないタイプである。
彼が怪我を治してもらったと聞いて、色んな人間が彼を訪ねてきたけれど。
(このにーちゃんにだけは捕まらないほうがいいぜ、ねーちゃん)
心の中でそっとアドバイスを送る。ジェラールは、彼女と面識はなかった。が、森の中でひっそりと暮らす二人のことは、前から知っていた。孤児院からも近いため、たまに姿を見かけることもあったから。
「まさか本当にいるなんて……」
呆然とレオナールが呟く。
「君はだから馬鹿なんだ。俺が眉唾ものの噂のために、わざわざ国を出ると思うか?」
「な、それはっ」
「まあとにかく、今はこちらの問題を優先させよう。でないと、ジェラールの口を割らせるのは大変そうだからな」
視線を流されて、ジェラールは悪寒を感じた。まだ諦めてなかったのかと、逃げるように歩みを再開する。
「ああ、そういえば」
今度はなんだと、後ろから聞こえた声に少しだけ警戒すると、
「今回の件、伯爵が関与しているのは間違いないだろうが、その後ろか横に魔女がいるのも間違いないと思うぞ」
「「魔女⁉︎」」
思ってもない見立てに、レオナールとジェラールの声が重なった。
「そうでなければ、あの仕掛けの説明がつかないだろう?」
「た、確かに」
「そう言われるとそうだよな。でもあれ、前からあった可能性は? 俺も詳しくは知らないけど、あの本棚、結構古そうだったし」
「本棚は間違いなく古いものだろう。だが、あの仕掛けを施したのは最近だ。少なくとも、八年より古いことはない」
「な、なんでそんなことわかるんだよ?」
レオナールも、問うようにちらちらとヴィクトルを振り返る。
ひたすら道なりに進んでいた一行は、ようやく終着地点に着いた。そこだけは歪な円形となって、少しだけ開いた空間がある。その先には、地上に続く階段もあった。
「簡単だ。燭台が新しかった。あれは我が国の製品でな。職人保護のため、トネリアと工芸品の輸出入を開始したのは、実はここ八年ほどのことなんだ。だから少なくとも、それより後に仕掛けは作られたってことになる」
「はぁ……なるほどな。やっぱあんたすげーな」
「だから言ったろう? そこの馬鹿より使えるぞって」
「確かに」
何度も頷くジェラールを見て、レオナールは悔しそうに歯噛みした。
だから嫌だったのだ。昔から、ヴィクトルといると、自分の不甲斐なさが浮き彫りになるから。つい拗ねたくなるけれど、王子としてのプライドがそれを許さない。
「まあ、それはいいとして。魔女が関わっているとなると、こちらは断然不利ということだ」
「だよなぁ。俺、魔女の知り合いなんていねーよ」
魔女の力のことなんて、赤ん坊でも知っているくらい有名だ。彼らと真正面から戦っては、負けは目に見えている。
それに、敵の魔女が一人とは限らない。
「癒しの女神を呼んでくれても構わないぞ?」
ニヤリ、試すようにヴィクトルが言う。ジェラールは舌を出して拒絶した。
すると、レオナールがやたらと固い表情で、先ほどの無知を挽回するように口を開く。
「それなら、私に心当たりがある」
「マジかよ金髪のにーちゃん! やるじゃん! そいつ、味方になってくれそうな感じ?」
「事情を話せば、おそらくは。こういうことを放っておけるような女性じゃない」
刹那。
だんっと。ヴィクトルが思いきり、レオナールを壁に押しつけた。その激しさにジェラールはぎょっとする。影のように付き従っていたフランツなんかは、あちゃあ、と額を押さえた。
レオナールはよりにもよって、ヴィクトルの逆鱗に触れたのだ。
「その魔女、誰か名前を言ってみろ」
「ちょ、ちょっとちょっと! ここで仲間割れすんなよ」
「君は黙ってろ、ジェラール。それで、おまえの知る魔女は、まさかユーフェなどと言わないよな?」
レオナールがわかりやすく瞠目した。ジェラールもまた目を瞠ったが、幸いにして今は誰も気づかなかった。
ヴィクトルの怒りは収まらない。
「ふざけるな。おまえは彼女を、こんな危険なことに巻き込むつもりか」
「なんで、ヴィクトルが、知っているんだ?」
動揺からか、その疑問は途切れ途切れに吐き出された。
「そんなことはどうでもいい。そういうことなら、俺は今すぐこの件から手を引く。もちろんユーフェも連れてな」
「連れて? どこに?」
「アルマンドだ」
「アルマンドだって⁉︎ まさかヴィクトル、本気で……」
と、そこで。
「ああもうやめ! やめったらやめ! 喧嘩なら後でやってくれ!」
二人を引き剥がすように、ジェラールが無理やり間に割り込んだ。
レオナールに背を向け、ヴィクトルと正面で向き合う。そうしたのは、ヴィクトルを抑えなければ、この喧嘩は終わらないと思ったからだ。
が、ヴィクトルは子供にも容赦なく睨みを利かせる。その鋭さに竦み上がりそうになったところで、救世主が現れた。フランツだ。
「ヴィクトル様、子供相手に大人気ないですよ。そもそもジェラールくんを睨むのは、筋違いでしょう?」
「…………わかっている」
途端、張り詰めていた空気が霧散した。はぁ、と息を吐き出して、そこで初めて、自分が息を止めていたことにジェラールは気づく。
後ろのレオナールも、小さく胸を撫で下ろしていた。
「さ、とにかく先を行きましょう。ここで悩んでも始まりませんからね」
フランツが先頭を切る。階段を上りきると、正面にはさっきの部屋と同じ、本棚の裏側のような木板があった。その右側の土壁に、不自然に切れ目が入っている箇所がある。それは手のひらサイズの長方形をしていた。
「たぶんそれを押せばいいんじゃねーの?」
「たぶん?」
曖昧な言い方に、ヴィクトルの眉根が寄る。
「あれ、言ってなかったっけ? 実は俺も中に入ったのは初めてでさ。だってほら、子供だけじゃ怖いじゃねーか。そもそもこういうときでないとウジェーヌも隙を見せねーし。道だって一本だったからよかったけど、予想は何本も枝分かれしてると思ってたんだ。それだと何かあっても対処できねーだろ? だから今日、金髪のにーちゃんと来ようって話になってたんだよ。アシルに時間稼ぎしてもらってね」
「なるほど。やはり君は賢い。だが、それを先に言ってほしかったな」
たらり、背中に冷や汗が流れる。ヴィクトルだけが、現状の危うさを理解していた。
彼は最初、ジェラールはすでにこの中に入ったことがあると思っていたのだ。その上で、安全だと判断し、ためらいなく中に入った。だって実際に入ったことのあるジェラールが今も生きているのなら、魔女の仕掛けは、作動したときに感知できるタイプのものではないからだ。感知していたら、すでにジェラールは消されているはずである。
けれど、ジェラールが初めてあれを作動させたというのなら、話は変わってくる。
(もし、あの魔法が感知できるものだったら?)
正体不明の魔女は、侵入者の存在に気づいたに違いない。
とすると、この先に待ち受けているのは――。
「とにかく開けようぜ。この先にきっと、連れ去られたみんなの手がかりがあるはずなんだ」
その声に応えるように、フランツが仕掛けを押した。
ガコ、と始めと同じ音が鳴って、勝手に扉が開いていく。
ヴィクトルは急いで階段を駆け上がった。フランツの後ろの襟首を掴んで、一気に引っ張る。
「ヴィク――」
「伏せろ!」
外の光が目に入ると同時に、冷たく鋭いものがいくつも肌を掠った。投げ飛ばされたフランツが起き上がる。慌てて上を見上げると、そこには、自分を庇って血を流すヴィクトルと――
「侵、入者は、排除、します」
緑の黒髪をなびかせながら、翡翠の瞳で冷たくこちらを見下ろす、見慣れた
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