Épisode 27「……ん、美味しい」
時は遡り。
ヴィクトルたちが、モンブール教会に出かけて行ったあと。
リュカは研究がしたいということで、家に帰っていった。もともと研究好きの彼だ。一日も休むなんて、彼にとっては落ち着かないことだったのだろう。
本当はユーフェも一緒に帰ろうとした。けれど、ヴィクトルにまだ何も告げていない。想いも、決意も、文句だって。
(文句が一番よ。人に勝手にキスしたり、抱きついてきたり、何とも思ってないくせに、そうやって女の子に期待を持たせることばかりしてっ。これで私が、す、す、好き……)
と内心で呟いたところで、ベッドの枕に勢いよく顔を埋める。
(なんて言った日にはっ、ぜぇっっったい、貼りつけた笑みで淡々と断ってくるくせに! またはバカにしたような失笑で身の程をわきまえろとか言うんだわ!)
悲しいかな、どちらも想像できるほど、ヴィクトルという男を知っていた。
尊大で、自分勝手で、強引で。
人を振り回す天才で、人をイラつかせる優等生で。
ちっとも優しくない男。
(私、男性を見る目がないのかな……)
本気で悩むレベルだ。
彼を思い出そうとすると、だって、意地悪に微笑む顔が真っ先に浮かぶのだ。あの表情をした彼に、実際に何度も意地悪をされた。料理が不味いとか不味いとか不味いとか。
(あ、それが
目が据わる。
なのに、無邪気な彼の笑顔を思い出しては、胸がきゅうと締めつけられるのだから重症だ。
目を瞑る。彼の言葉が蘇る。
怯えるユーフェに、全力でぶつかってきてくれた人は、彼が初めてだった。俯くなと、光を見せてくれたのは、彼だけだった。
(これで好きになるなって言うほうが無理よ……)
自分にはない強さを持つ彼に、惹かれないはずがない。抗うことさえ無駄に思える。
「……」
でも、だからこそ、考えなければならない問題があることを、ユーフェは知っていた。
彼の名前は、ヴィクトル・ド・ヴァリエール。
「ヴァリエール、かぁ」
昔の彼女なら、あるいは望めた高貴な身分。
でも今の彼女には、どう足掻いても望めない身分。
彼がここにいるのは、癒しの女神を求めてだ。もしかしたらそれは自分のことかもしれないけれど、いやたぶん十中八九自分のことだとは思うけど。目的を果たした彼は、癒しの女神さえ必要としなくなるのだろう。
たとえ運良く、彼の国に連れて行ってもらえたとしても。
最終的には、捨てられるわけで。
「って違うわ! なにちゃっかり連れて行ってもらおうとしてるのっ。それじゃあリュカを置いていくことになるじゃないっ」
あーもぉー!
枕に向かって叫ぶ。ままならない自分の感情が、こんなにも厄介だとは思わなかった。レオナールに恋をしていたときは、こんなこと、一度もなかったのに。
「……そうだ」
がばりと起き上がる。直前まで悶えていたユーフェは、何を思ったか、急に表情を真面目なものに変え、部屋を出た。
すれ違った使用人に声をかけると、伯爵夫人の居場所を尋ねる。キッチンの使用許可がほしかったのだ。
ユーフェはまだ、彼に「美味しい」と言わせていない。
この恋がどういう結末を迎えるとしても、せめてそのひと言だけは言わせたいと、唐突に思ったのだ。
そのひと言があれば、たとえ恋破れても、料理を作るたびに彼を思い出せる。そういえばこんなことがあったな、なんて。
それはきっと、ユーフェにとっては幸せなことだから。
「キッチンの? ええ構いませんよ。材料もあるものは好きに使いなさい。リュカとあなたには、お世話になっていますからね」
「あ、ありがとうございます!」
快諾をもらい、おかげで買い物にも行かなくて済んだ。
キッチンに向かうと、まずその広さに圧倒される。家の五倍はありそうだ。どこの店の厨房かと聞きたくなる。真ん中に広い作業スペースがあり、それを囲むように冷蔵庫や洗い場、オーブンなどが設置されている。
朝食が終わった後なので、まだ昼食の準備には早いらしい。つい先ほど片付けが終わった後のような状態で、キッチンには誰もいなかった。
それを幸いとして、ユーフェはさっそく材料の確認をする。さすが貴族の屋敷だけあって、色々な食材や調味料が揃っていた。中にはユーフェも知らないものもある。ちょっと好奇心がくすぐられたけれど、今はぐっと堪えた。
「あまり時間もないし、やっぱりあれかな」
取り出したのは、砂糖にバター、卵白、小麦粉、アーモンドプードル、そして蜂蜜だ。
まずは、バターを茶色くなるまで火にかけた。ヘーゼルナッツのような香ばしい香りが漂うまで焦がして、
次に卵白と砂糖、蜂蜜を、泡立てないように丁寧に混ぜた。でないと、出来上がりがパサついたものになってしまうからだ。
(それじゃあ、喜んでもらえないもの)
その後は、ふるったアーモンドプードルと小麦粉を加えて、先ほどのブール・ノワゼットも合わせてまた混ぜる。ここでも混ぜ過ぎないのがポイントだ。
(外側はサクッと、内側はしっとりと)
それを合言葉に、一つ一つの工程を、丁寧に仕上げていく。全てはそう、ヴィクトルのために。
彼に、「美味しい」と言ってもらうために。
それは、他の誰のためでも、リュカのためでもない。彼がひと言、そう言って、笑ってくれたら。
(きっと、一生の思い出になる)
だからありったけの想いを込める。
もしかしたら、「好き」の言葉さえ伝えられずに、終わるかもしれないから。
(蜂蜜、気づいてくれるかな)
いつもなら入れない蜂蜜は、実は甘い味つけが好きなヴィクトルに合わせたものだ。リュカは年齢に反して大人の味覚を持っているのか、あまり甘いものを好まない。紅茶は無糖、お菓子は砂糖控えめに。普通の食事のときだって、甘い味つけは避けてきた。
けれど、ヴィクトルは違う。彼に食事を作った回数は少ないけれど、それでも見ていればわかる。だって、紅茶を出したとき、リュカが眉をひそめるくらいたっぷりと砂糖を入れていたから。
(これなら、喜んでくれるかな)
――〝美味い!〟
そう言って、あの無邪気な顔で、笑ってくれるだろうか。想像して、かぁと顔に熱がこもる。
もうその想像だけで満足できそうだ。重症のレベルを超えている。
慌てて妄想を振り払った。
(ああもうやだっ。やだやだ、これ以上はだめなのに)
惚れたほうが負けとは、よく聞く言葉だ。特に、ヴィクトルのような男には、その言葉が身に染みる。
惚れたが最後。利用されるか、失笑されるか、はたまたからかわれるか。
彼に対してなんとも酷い評価だが、ヴィクトルを知る人間が聞けば、必ずや納得してくれることだろう。
ユーフェは最後の仕上げに取りかかる。生地を台形の金型に流し込み、温めておいたオーブンでしばらく焼いた。
出来上がったのは、黄金色が美しい、アルマンド国の伝統菓子――フィナンシェだ。
トネリアでも愛されているお菓子だが、その発祥は隣国アルマンドである。だからユーフェは、このお菓子を作った。彼の国のお菓子だから。
少し冷ましたあと、出来上がったものを一つ取り、味見する。
「……ん、美味しい」
噛むと外側はカリッとして、内側はしっとりとしていた。まさに目指した食感だ。
口の中ではじゅわぁとバターの風味が広がって、ほんのりとアーモンドプードルの香りが鼻に抜ける。シンプルな材料で作っているからこそ、蜂蜜の甘さが優しく舌の上に溶けていった。
「何か包むものは……」
フィナンシェは、作り立てが一番美味しい。
作って一日目は、外側のカリッとした食感が残るからだ。二日目からは、外側もしっとりとして、二つの食感を楽しめなくなる。
それはそれで美味しいのだが、ユーフェは、この作り立てを食べてもらいたかった。
伯爵家の使用人に包むものはないかとお願いすると、ちょうどフィナンシェが三つ入りそうなラッピング袋を分けてもらえた。ユーフェの表情から何かを読みとったそのメイドは、微笑ましそうにリボンまでくれる。生温かい笑みで何色がいいかと訊かれ、咄嗟に水色と答えた自分を殴りたくなった。
「で、できたわ」
最後の最後で余計な気力を使ったせいで、まるで三徹明けのような様相だ。
それでも、出来上がったものを眺めて、心はとても逸っている。
早く渡したい。渡して、感想を聞きたい。
(教会に行ってるのよね? 場所なら知ってるし、持って行こうかな)
今までのユーフェにはない積極性だった。
しかし、本人はそれに気づかない。気づかないのが、恋というものだ。
(うん、持って行こう)
すれ違ったら、という考えは、今のユーフェにはない。早く会いたくて、早く渡したくて。いてもたってもいられない。
ユーフェは自分も出かける旨を伝えようと、伯爵を探した。でもこういうときに限ってなかなか見つからない。使用人も、下級使用人は居場所を知らないようだった。
(出かけたとか?)
それなら伯爵夫人に声をかけようか。そう思ったとき、常に穏やかな雰囲気を纏っている伯爵が、珍しく焦った様子で対面側から走ってきた。
「ああユーフェくん! やっと見つけたよ」
「え?」
どうやら伯爵も自分を探していたようだ。ものの見事にすれ違っていたらしい。
「ダニエルの容態が急変したんだ。急いで診てくれないか」
「ダニエル様の⁉︎ わ、わかりましたっ」
診るのはリュカの専門だが、ユーフェとて長年リュカの助手をやってきた。今までリュカがダニエルに処方した薬は、ただの一度も変わっていない。
ユーフェは急いで自分の鞄を持つと、伯爵と共にダニエルの部屋へと向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます