Épisode 21「だが、意外と嫌いじゃない」
けれど、予想に反して、フラヴィは苛立たしそうに顔を歪める。愛でていたであろう見事な薔薇を、ぐしゃりと握りつぶした。
「本当におめでたい人。昔みたいに、わたくしの言うことを聞いていれば良いものを。どうしてですの? どうして変わってしまわれたの? わたくしの言うことを聞かないお姉様なんて、ちっっっともかわいくありませんわ!」
「フ、フラヴィ?」
「ああ嫌だわ。お姉様の皮を被った偽物なんかに、わたくしの名前を呼ばれたくないですわ。ねぇ、偽物さん。昔の従順でかわいそうなお姉様を、わたくしに返してくださらない?」
「なに、言って」
「返してよ! わたくしはあのお姉様が好きだったのに! 全部……全部あの男が悪いんだわ。きっとそうよ。だってわたくし、お姉様の好きなレオナール殿下と婚約したのよ? なのになんでお姉様は平気そうなの? なんで傷ついたお顔で絶望してくれないの?」
途中からぶつぶつとひとり言のようにまくし立て始めたフラヴィに、ユーフェは混乱した。こんなに取り乱すフラヴィは初めて見る。
あの、天使のように愛らしく、気品に溢れていた彼女が、全くの別人だ。
「あの男……ヴィクトル・ド・ヴァリエール。あの男が現れなければ、お姉様はレオ様を好きなままだったのに……かわいそうなお姉様のままだったのにっ。しかもあの男、わたくしを侮辱するなんて許さない!」
フラヴィの怒りの矛先が変わり、ますます頭がパニックになる。
彼女の勢いは止まらない。
「たかだか第四王子のくせに。しかも隣国の第四王子といったら、母親は平民の女じゃない! 卑しい女の腹から産まれておきながら、わたくしをバカにするなんてっ……わたくしからお姉様をとるなんて! さすが、下賎な者はやることが――」
「フラヴィ!」
ぎゅむっ、と。考えるより先に、ユーフェはフラヴィの頬を両手で挟んでいた。
「お、姉、ひゃま?」
「言っていいことと悪いことがあるわ、フラヴィ」
腹の底で、自分でもわかるほどの怒りが、ゆらりと灯る。他の何を聞き流せても、それだけは聞き流せなかった。
「あなたが気に入らないのは、私でしょう? どうしてヴィクトルの話になるの。彼がどんな産まれだろうと関係ない。だって、それじゃあ私は何なの? 侯爵の父と、元伯爵令嬢の母から産まれていても、今は平民として生活してる。産まれだけで全てが手に入ると思ったら大間違いよ。ましてや王子なんて、彼自身が努力しなければその地位を維持するのも難しいわ。こんなこと、私よりあなたのほうがわかっているはずでしょう? あなただって社交界で有名になるくらい、色んな努力をしてきたんじゃないの? 肌は白くて綺麗だし、スタイルも抜群だわ。それに仕草も、王子殿下の婚約者として恥ずかしくないくらい立派だって、私にもわかる。そのあなたが、彼の努力を否定しないで」
「……っ」
静かな風が流れる。ユーフェの内心とは裏腹に、鳥の穏やかな鳴き声が聞こえる。
どれくらいそうして見つめ合っていただろう。やがて、フラヴィの青い瞳に、じわりと透明の涙が滲んだ。
「っ、酷いわ、お姉様。わたくしよりも、あんな男の味方をするの?」
「……そうよ。私だって、いつまでも昔のままじゃない。私だって、怒るときは、怒るの」
「やっぱりあの男のせいだわっ。お姉様は、わたくしのお人形だったのに。お人形は、わたくしの言うことを何でも聞いてくれたのに! こんな、こんなお姉様なんて、大っ嫌い!」
「フラヴィ⁉︎」
ばしっと手を振り払われて、フラヴィが走り去っていく。一瞬追いかけようと思ったけれど、追いかけても余計に怒らせるだけだと知っていたユーフェは、足を止めた。
庭園に一人、残されて。
(やっちゃった……!)
がばりとその場にしゃがみ込む。
さっそく後悔に塗れたが、取り消そうとは思わなかった。だって、どうにも我慢できなくて。無性に言い返したくなって。
こんなに怒りを覚えたのは、もしかしたら、生まれて初めてかもしれない。最初の震えはどこにいったのかと思うほど、怒りのままに反論した。
でもまさか、それでフラヴィが泣くとは思わなかった。
「どうしよう。泣かせるなんて、私もヴィクトルのこと言えないわ。最低も最低よ。もしかして、咄嗟に掴んだ頬が痛かったとか? でも、叩いたわけじゃなくて……こう、ぎゅっと挟んだだけで。フラヴィにあんなこと、言ってほしくなかっただけでっ」
誰に弁明しているのか。盛大なひとり言をこぼしては、ユーフェは「どうしようっ」とおろおろする。
そんな彼女を、柱の陰から見守る男が、一人。
(ユーフェ・オルグレイ、ねぇ……。なるほど、そういうことか)
彼女の謎がわかって、本当なら満足のはずなのに。
(これは、想像以上に困ったな)
男は口元に手を当てる。言葉とは裏腹に、ニヤつく口角を抑えようとして。
満足だ。それなら、ここで止めなければならない。彼女に対する興味を。
でなければ、これ以上は危険だと理性が訴えている。己の酷い執着心が芽生えれば、せっかく今は逃してやれている彼女を、間違いなく檻の中に閉じ込めてしまうから。
(全く、本当に困った。彼女の自由まで、奪うつもりはなかったんだが)
旅先の、言わばいっときを楽しむだけのつもりだった。そういうふうに自制していた。それは、他の誰に対しても。
ユーフェに少しだけ深入りをしたのは、彼女が自分に好意を見せなかったからだ。むしろ怒りを露わにし、必死に逃げようとしていた。
だから、ユーフェには安心して深入りできた。彼女が自分を嫌ってくれるなら、自分が国に帰ろうと、彼女にとっては嫌な旅人だったという苦い思い出だけで終わるだろうから。
自由気ままに見える彼だって、己の立場を真っさらにして振る舞うことはない。誰かれ構わず手を出して、のちの面倒を作ることもない。
だからユーフェのことも、最初は、旅先で出会った料理が上手でからかいがいのある女、としてしか思わないようにしていた。
その時点で、すでに手遅れだとは気づかずに。
(さて、どうしたものかな)
すでに心は、無理やりにでも彼女を連れ去りたくなっている。
自分のことよりも他人のために怒るような愚かな女を、自分のものにしたくてしょうがない。
彼女がいずれ、他の男の隣で幸せそうに笑うなんて、想像するだけで虫唾が走った。
――ああ。
(これは酷い。想像上の男ですら、殺したくなるとは)
「ふふ、はははっ。なるほど、恋は堕ちるか。言い得て妙だ」
腹を抱えて笑う。
おかしかった。自分が。
身分違いの恋を間近で見てきた自分は、決して両親のようにはならないと決めていたはずなのに。
堕ちた。たったひと言で。
決意とは真逆のところへ、堕とされた。
――〝どんな産まれだろうと関係ない〟
きっと、彼女が言うから、その言葉が抵抗なく心に沁み込んだ。
庭園でしゃがみ込んでいる彼女は、いまだに頭を抱えてぶつぶつと何事かを呟いている。
その少しだけ丸まった背中を、後ろから思いきり抱きしめたい衝動に駆られる。柱の陰から踏み出した。
「やあやあ、清々しい朝だね。おはようユーフェ。朝から草花との語らいか? どれ、俺も交ざろう」
「え、ヴィクトル⁉︎」
本当に衝動のまま抱きついた彼から、ユーフェは咄嗟に逃げようとする。そんな彼女が愛しくて、逃すまいときつく抱き込みながら、自分の滑稽な感情にまた笑う。
「だが、意外と嫌いじゃない」
「はい?」
ヴィクトルの呟いた言葉に怪訝な顔をするユーフェをあやしながら、彼は頭の中で、これからの算段を立てていった。
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