Épisode 05「〝魔女〟か」


 一人ダイニングに残されたヴィクトルは、家人たちのあまりの無防備さに、苦笑せずにはいられなかった。

 だって普通、家の中で赤の他人を一人にするだろうか。これでは盗み放題やりたい放題だ。ヴィクトルの生まれ育った環境では、絶対にありえない状況である。

 そもそもの話、いくら倒れていたからといって、他人を簡単に家にあげる神経も理解できない。

 今までヴィクトルが生きてきた世界は、たとえ血の繋がった身内だろうと騙し騙され血で血を争う世界だった。

 今はもうだいぶ落ち着いたとはいえ、その頃に染みついた習性は今も残っている。

 だから、この家で目が覚めたとき、ヴィクトルが最初に取った行動は状況の把握だった。

 寝かされていたベッドから起き出して、そっとその部屋を出る。

 身体を拘束されていないところを見ると、どうやら誘拐の類ではないらしい。

 一階から人の気配がするものだから、ヴィクトルはまずそこに近づいた。敵なら油断しているうちに――ヴィクトルがまだ眠っていると思われているうちに――返り討ちにして尋問してやろうと思ったからだ。

 しかし彼がそこで見たのは、人相の悪い男でも、彼を誘惑しようとする色っぽい女でもなく。

 楽しそうに料理をする、一人の少女だった。

 見た目はヴィクトルよりも年下の、おそらく二十歳前だろう可憐な少女だ。緑の黒髪を緩く束ね、宝石の翡翠よりも美しい瞳を輝かせて、鼻歌交じりに何かを作っていた。

 ヴィクトルの優秀な鼻は、それがシチューだとすぐに気づく。まろやかな優しい匂いが鼻腔を抜けていった。

 思わず欲に負けてふらりと姿を現すところだったが、ヴィクトルはなんとか耐える。

 彼女が自分をここに連れてきたのだろうか。まさか、倒れていた自分を助けるために? 

 そんなことを考えていたら、シチューを作り終えた彼女が、突然背後を振り返ってきた。

 ――気づかれたか。

 一瞬そう焦ったが、それも杞憂に、彼女はてくてくとダイニングに向かっていく。

 そこにいた一人の少年と何やら話していたが、次の瞬間、ヴィクトルは信じられないものを見てしまった。

 なんと彼女が、あっという間に猫に変身したのである。

 これには、今までそれなりの修羅場をくぐり抜けてきたヴィクトルも、思わず唖然としてしまった。

 自分の目を疑いもしたが、じゃあ消えた少女はどこにいったのかと、無理やり現実を受け入れる。

(なるほど。あれが母上に聞いた〝魔女〟か)

 面白い、とそのときは思った。

 魔女は人にはない力を持ち、それゆえに人から嫌われ、そして魔女もまた人を避けるという。

 そんな魔女がどうして自分を助けたのかはわからないが、彼らならもしかすると、自分の探している人物を知っているかもしれない。そう思った。

 だから急いで部屋に戻り、あたかも今目覚めたように振る舞ったのだ。

 しかし、ヴィクトルの計画が早くも狂ったのは、少女が作ったシチューを口にしたときである。

(あんな衝撃は生まれて初めてだった――!)

 口にした瞬間、今まで食べてきたどんな美味な料理も霞むほど、それはヴィクトルの舌を満足させる味だった。

 けど、だからこそ、ヴィクトルは気づいてしまう。

 ――これには何かが足りない。

 その「何か」が何であるのか、ヴィクトルはすでに知っている。愛情だ。

 ヴィクトルは本来、愛だの何だのというロマンチックな男ではない。けれど、こと料理のことになると、彼はことさらそれを気にした。

 悪意ある食べもの――毒入りの料理をずっと食べさせられてきた彼にとって、普通の食事にありつけたときは奇跡に近い感動を覚えた。

 そして初めて自分のために作られた料理を食べたとき、天にも昇る心地がしたのだ。

 その味を知っているからこそ、ヴィクトルは食べたいと思ってしまった。

 普通の料理でさえここまで美味しいのに、では彼女が自分を思って作ってくれた料理は、どれほど美味しいことだろう。

 頼んで作ってもらうのは違う。

 だからヴィクトルは、あえて彼女の料理を「不味い」と酷評したのだ。

(さて、うまい具合に怒ってくれたのはよかったな。全く怖くはなかったが)

 なにせ猫の姿で怒るのだ。肉球でパンチをされても、痛くも痒くもないのである。

(理由は知らないが、必死に隠そうとするところもいじりがいがある)

 今のヴィクトルの顔をユーフェが見れば、彼女は間違いなく逃げ出すことだろう。完全に顔だった。

 椅子から立ち上がる。

 ふむ、と呟いたヴィクトルは、何を思ったか、そのまま外に出る。

 周りは木々に囲まれ、ここが森の中であると容易に把握できた。そして人が何度も通ったであろう一本の道を見つけて、ヴィクトルは進み出す。

 その足取りに、迷いは一つも見受けられなかった。

 

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