Épisode 06「忘れ物だ」
お昼時。ユーフェはキッチンにやってくると、周りをちらちらと確認する。
そうしてヴィクトルがいないことを確信すれば、あっという間に元の姿に戻った。
「よし、作るわよ。今度こそ真心が足りないなんて言わせないんだから」
袖をまくって、気合い十分に支度を始める。
チキンのパイ包みでも作ろうかと考えて、はたと気づく。そういえば食材を切らしているのだった。
ヴィクトルへの怒りですっかり忘れていたが、もともと今日は買い出しに行くつもりだったのだ。
「リュカ、いる?」
「ん、いいよ」
リュカの部屋をノックすると、中から入室の許可が出る。親しき中にも礼儀ありだ。
というよりも、リュカの部屋は勝手に入ると自分が大変な目に遭う。リュカは根っからの魔法バカで、基本的に日常を魔法の研究に費やしているのだが、彼の部屋の中はその成果で溢れかえっているのである。
最初の頃は、許可が下りる前に扉を開けて、二日間ほど寝込んだこともあった。
それ以来、たとえ悪夢にうなされてリュカの許に逃げ込みたくても、許可が出るまでは絶対に扉を開けないと心に誓った。
「どうしたの。何か用事?」
「私、買い出しに行こうと思って。何か必要なものはある?」
「特にないかな」
「わかった。じゃあ急いで行ってくるね」
「あ、待って」
呼び止められて、ユーフェは振り返る。
「薬草、マダム・アデールに持っていって」
「どれくらい?」
「かごにある分」
「了解。じゃあ行ってきます」
「気をつけてね」
はーい、と元気よく返事をすると、ユーフェは顔を隠すようにマントのフードをかぶった。人見知りのユーフェだから、外に出るときのマントは必須アイテムである。フード付きがポイントだ。
お得意様である薬屋のアデールとさえ、ユーフェは半年かけてまともに話せるようになったのだ。
かご二つ分の薬草を持って、ユーフェは家を出る。
慣れた道を進んでいき、これまた今ではもう慣れた町に入る。
ユーフェはこの穏やかな町が好きだった。生まれ育ったオルグレイ侯爵領モントレイユは、誰もが他人に興味を示さない町だった。
あのどこか冷たい町が、ユーフェは物心ついたときから怖いと感じていたのだ。
――〝町〟って、なんだかそこの領主の性格を表しているみたい。
モントレイユしか知らなかったときには思わなかったそれを、ユーフェはこのノルマールに辿り着き、初めて人の温かさに触れたときに思ったものである。
だからこそ、ユーフェの人見知りも、この町の人には緩和されていた。いや、生活するうちに徐々に緩和されていったと言うべきか。
森の中でたった二人で暮らすユーフェたちを、町の人たちはさりげなく助けてくれる。
(でもそれも、私たちが〝魔女〟だって知らないからなのよね)
ユーフェは気合いを入れた。
バレるわけにはいかない。自分たちの正体がバレたとき、きっと優しいこの町の人たちも、両親のように変わってしまうのだろう。
ユーフェはそれが恐ろしかった。
だから、マントのフードで顔を隠す。リュカと違い、考えていることが顔に出やすいユーフェは、町で魔女の話題を耳にするだけで動揺してしまうから。
「こんにちは、アデールさん」
「ユーフェかい。ちょうど待ってたよ、いらっしゃい」
嗄れ声の老婆は、目尻のしわをより深くして、ユーフェを出迎えてくれる。
すでに七十は超えているアデールは、町の人からアデール
そのあだ名を聞くたびにユーフェはドキリとするけれど、フードがいつもそれを隠してくれている。
ちなみに、アデールは本当に魔女でもなんでもなく、普通の人間だ。ちょっと長生きなだけの。
「今年はいつもより風邪が流行る時期が早くてねぇ。薬を欲しがる客が多いのなんのって」
「もうですか?」
「まったくだよ。あんたらも気をつけるんだよ」
「わかりました」
それを知っていたのかはわからないが、リュカから預かったかごの中には、風邪の症状に効く薬草がほとんどだった。
解熱用のものを中心に、頭痛、吐き気に効くものばかりである。
(さすがだなぁ、リュカは。引きこもってる割には、私より色々と知ってるんだから)
自分も見習わないと、と強く思う。
年齢は確かに下だけれど、魔女としては、リュカのほうが何倍も先輩である。
「じゃあね、これ。今回の代金ね」
そう言って渡されたのは、いつもよりも多めの金額だ。
「アデールさん? これ……」
「今は需要が多いから。代わりと言っちゃなんだけど、次回の納期を三日ほど早められないかねぇ?」
「えーと」
ユーフェは頭の中で薬草の在庫を思い出す。風邪の症状に効く薬草なら、リュカに言われていつも多めに育てている。
――〝お師匠様が言ってたんだ。解熱と頭痛、腹痛、吐き気に効くものは、切らさないよう多めに作っておけって〟
さすがは尊敬するリュカの、尊敬する師匠である。
「はい、大丈夫だと思います」
「それはよかった。よろしく頼むよ」
こくりと頷く。
用事が済むと、ユーフェは店を出た。
フードを深くかぶり直して、買い出しのために市場に向かう。それほど大きくはない町だから、食材の買い物ができるところは一箇所しかない。
しかしそこで全ての食材が揃うのだから、ユーフェとしてはありがたかった。
さすが昼時ということもあり、市場は人で賑わっていた。
そこには肉を売る
町のメインストリートでもあるので、旅人や観光客なんかもちらほらと見受けられた。
ユーフェは寄り道することなく、真っ直ぐと目当ての
見知った店員でないと、満足に品物を吟味することもできなくなる。
そうして最初に辿り着いた肉の
まんまと自分がヴィクトルの策に踊らされているとは露知らず、ユーフェは「うーん」といつもより長めに頭を悩ませた。
そのときだ。隣に来た客の一人から、なんだか聞き覚えのある声が聞こえたのは。
「店主、この
声からして態度の大きさが窺える、今ユーフェを最も苛立たせている男、ヴィクトルの声だ。
びっくりして顔を上げた。すると、向こうも視線に気づいたらしく、「ん?」とユーフェのほうを見る。
目が合った途端、彼の神秘的な水色の瞳が、少しだけ見開いた。
ユーフェは慌てて視線を外す。
(しまった。こっちの私は、まだ彼に会ったことないんだった)
だから、ユーフェが彼を見て反応するのはおかしい。彼のほうもなぜか驚いていたように感じたのは、きっと知らない女に凝視されたからだろう。
――き、気まずい。
そう思ったが、それよりも疑問が浮かんだ。なぜ彼がここにいるのか。家にいたはずでは。
「もう、ヴィクトルったら。私のお金だと思って高いの買いすぎー」
「だがその分、楽しい夢を見させてやったろう?」
「やっだ! 言わないでよ〜。ふふ、まあそのとおりだけど」
「なら問題ない」
隣で交わされる桃色の会話に、ユーフェはなぜかイラッとした。
どうしてだろう。別に今までだって、恋人たちのいちゃつく場面を見たところで、何を思ったこともない。目のやり場に困るなぁと思ったことくらいならあるけれど、イラつきを覚えたことは一度もないのに。
(――ハッ。そうよ、恋人よ。恋人がいたんじゃない、この人。てことは、その人の作る料理と比べて、私のには「真心がない」とか言ったの? そんなの当たり前だわ!)
恋人とは、二人が愛し合っているから成るものだ。
そこには愛が前提として存在し、つまり必然的に真心も伴う。
そんな人と比べられたら、恋人でも何でもないユーフェでは、負けるのは当然というものだ。
(信じられない! 私をからかってたのね)
正しくは、リュカを、だけれど。なぜならヴィクトルは、リュカが料理を作ったと思っている。というふうにユーフェは信じている。
(……なんだかバカらしくなってきたわ)
自分が唯一自信のあるものを貶されて躍起になっていたが、これではユーフェがいくら躍起になったところで、勝てないものは勝てないのだ。そのために肉を奮発したって無意味だろう。
ユーフェは目の前の肉の陳列から目を離すと、無言でその場を立ち去る。
予定変更だ。チキンのパイ包みはやめて、リュカの好きなかぼちゃを買って帰ろう。ポタージュはユーフェの得意料理でもある。それとチーズを買って、野菜のチーズ焼きでも作ろうか。
頭を切り替えていると、ふいに腕を掴まれた。
ぐんっと後ろに引っ張られる感覚がして、ユーフェは踏ん張ることもできずに背中から倒れていく。
しかし、その途中で誰かに支えられた。
「忘れ物だ」
「え?」
上から顔を覗かせてきたのは、ユーフェも知るヴィクトルだった。
見上げた水色の双眸は、どこか楽しげにユーフェを見下ろしている。思い返せば、彼はいつもそんな表情をしていた。楽しげで、人をからかうような笑み。
「肉を買いに来たんだろう? 今日は良い牛の肉が手に入ったそうだ。持っていくといい」
「ええ?」
訳がわからなかった。そう言って、ユーフェの持つかごの中に、彼が本当に牛肉を入れてくるから。
隣で「ちょっと何してんの⁉︎」と彼の恋人らしき女性が怒っているのに、彼は全く意に介さず涼しい顔をしている。
「あ、あああのっ。はな、して」
危うくフードを取られそうで、ユーフェは気が気でない。本来の姿で普通に接せられるほど、まだ彼には慣れていないから。
それに、彼の瞳を見ていると、不思議と鼓動が速くなるのだ。その腕に抱きしめられると、昨夜のことが思い出されて――。
『大人しくしろ、ユーフェ』
『みゃーっ』
『なに。とって食いやしないと何度も言っているだろう? 俺はおまえの毛並みが気に入ったんだ。撫でさせろ』
『みゃっ』
『くく。背中が弱いのか? ああ、耳も弱いな』
『みゃう⁉︎』
『凄いな。おまえは本当に面白い。退屈しないですみそうだ』
そう言って、ヴィクトルは一晩中ユーフェを抱きしめながら眠って……。
(〜〜ってそんなの思い出してどうするの!)
ユーフェは思いきり頭を振った。
「あの、私、よ、用事が……っ」
「ああ、それはすまない」
すると、なんともあっさりと身体が解放される。
ちょっと拍子抜けしたなんて、死んでも思いたくなかった。
ユーフェは逃げるようにその場を走り去ると、建物の影になっているところで足を止めた。乱れた呼吸を整えて、なんとなく、後ろを振り返る。
そこにはもうヴィクトルの姿は見当たらず、ユーフェは無意識に息をついた。それが安堵からくるものだったのか、それとも落胆からくるものだったのか、彼女にはわからない。
左手に持っていたかごを見る。
そこには自分で買った覚えのない、白に近い赤色の牛肉が入っていて。
「……ほんと、いいお肉」
やはり、ヴィクトルという男が理解できないユーフェだった。
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