Épisode 03「美味しくない!」
「リュカ、できたんだけど……」
「うん、良い匂い。持っていくよ」
「ありがとう」
ほっと息をつく。リュカとはもう長く一緒に住んでいるからか、彼はユーフェの言いたいことを言葉以外でも察してくれる。
今は、人見知りのユーフェを気遣って、リュカがそう言ってくれたのだ。
ユーフェは首から下げている丸いペンダントを掴むと、小さく呪文を口にした。すると、彼女から少しの風が起こり、瞬く間にその姿が猫のものになる。
黒い毛並みが艶やかな、翡翠の瞳の猫だ。その首には、ユーフェが下げていたものと同じペンダントが、首輪のようについている。
「その姿で行くの?」
「みゃー」
猫が頷いた。
そう、この黒猫は、ユーフェが魔法で化けている姿だ。人と関わるのが怖い彼女が、ある意味、普通に人と接することのできる姿。それが猫だった。
リュカが杖を使って魔法を行使するように、ユーフェはペンダントがその役割を担っている。
「わかった。じゃあ行こうか」
てっきりユーフェはついて来ないと思っていたリュカなので、内心では意外に思いながら。でも、やはりその表情は変わらないが。
ユーフェの部屋に辿り着く。リュカはそこに男を寝かせていた。というのも、リュカのベッドでは、長身の男を満足に寝かせられないからだ。
シチューを持ったままリュカが扉を開けると、すでに男は起きていた。
「やあ。君はここの家の子かな? 色々と聞きたいことはあるが、それよりも……それ、俺に持ってきてくれたのかい?」
リュカがこくりと頷く。
「あったかいうちに食べて」
「それはありがたい! 腹が減って死にそうだったんだ。遠慮なく頂こう」
そう言うと、男は飢えている者とは思えないほど上品にシチューを食べ始めた。スプーンで一口流し込む。その瞬間、男の目がかっ開く。
そのまま石像のように固まる男に、ユーフェはリュカの足元でドキドキしていた。もしかして、口に合わなかったのだろうか。
「……これ、作ったのは君かな?」
男が問う。
リュカは一瞬だけ足元のユーフェを見たけれど、すぐに視線を男に戻した。
「そうだけど、それがなに?」
言葉がなくともユーフェの気持ちを察せられるリュカは、このときもユーフェの言いたいことを察した。
――私だって言わないで。
言ってしまったら、味の良し悪しはどうあれ、関わりができてしまう。ユーフェはそれが嫌だったのだ。
「ふーん。なるほどねぇ」
「? なにか」
「いや、別に。それよりもこれ、全然ダメだね! 美味しくない! こんなに美味しくない料理は初めて食べたな!」
その言葉に、ユーフェは頭を殴られるような衝撃を受けた。
味はいつもどおりだったはずだ。いつも――リュカが美味しいと言ってくれる味。ユーフェ自身も美味しいと思っていた味。
それを、全力で否定された。
「これはシチューだろう? 小麦粉はダマになっているし、野菜はまだ固い。こんなものをよく客人に出せたな」
「……」
さらなる追撃に、ユーフェの顔から血の気が引いていく。ここまで人に謗られたのは、子供の頃以来だ。
もちろん、リュカはショックを受けているユーフェに気づいていた。
が、もう一度男に視線を戻したリュカは、内心で首を捻る。
「ああ固い。まるで石ころじゃないか、このにんじん。とろみも足りない。ほんと、作った人間の真心が足りないな」
とか言いながら、男は上品に見えるギリギリのラインで、シチューを貪り食っていたからだ。
それはどう見ても、不味いものを食べる人間の姿ではない。
だからリュカは不思議だった。
ユーフェの作る料理がどれほど美味しいかは、リュカもよく知っている。目の前の男も、おそらく美味しいと思っているはずだ。
なのに、男は不味いと口にする。
そしてユーフェは、男の矛盾に気づいていない。リュカはそれすらも把握していた。
けれど、この状況をどうにかできるほど、彼も対人能力が高いわけではなかった。
「よし、決めた」
器の中にあったシチューを綺麗に平らげた男が、ニヤリと口角を上げる。
「俺の舌が満足するまで、ここで世話になってやろう」
「……え?」
これにはさすがのリュカも目を瞠った。
「なんだ、自信がないのか? こう言ってはなんだが、俺は今まで色々なものを食してきた。舌には自信がある。その俺を唸らせるものを作れるようになるまで、面倒を見てやると言っているんだ」
「いや、別に……」
その必要はないけど、とリュカが口を開きかけたとき。トラウザーズの裾が引っ張られる感覚がした。
足元を見ると、ふるふると震えている猫がいる。
「ユーフェ?」
最初は泣いているのかと思った。出会ったばかりの頃、彼女はよく泣いていたから。
けどそれは違うと、彼女の瞳を見て思う。
その瞳の奥で揺れているのは、明らかな怒りだったからだ。
「それは君の猫かい?」
「え? えっと、まあ」
「ほう。猫を飼っているのか。名前はユーフェ?」
尋ねられて、こくりと頷く。
「他に住人は?」
首を横に振った。
「なるほど。ではここには、君とその猫だけかな?」
首を縦に振る。
いやに質問が多いなと思いながら、リュカは怒りに震えるユーフェをどうしたものかと戸惑っていた。
なぜなら、彼女が怒るところをほとんど見たことがないからだ。一度だけ見たそれも、魔法の研究に没頭して倒れたリュカに、心配させないでと泣きながら怒っていたときだけである。
「そうか。ならここは、君の部屋ということかな?」
その質問に、リュカはハッとした。同時にしまった、とも思う。
別のことを考えていた意識は、すでに目の前の男に戻っている。にこりと綺麗な笑顔を浮かべる男を、リュカはようやく警戒した。侮れない。どうやら、ただの貴族のぼんくらというわけではなさそうである。
男は自分を警戒し始めたリュカを見て、さらに笑みを深めた。
そして、ベッドの縁に座っていた状態から身を屈めると、ユーフェをさっと抱き上げる。
「みゃ⁉︎」
「まあ、別にここが君の部屋だろうと、そうでなかろうと、俺はどちらでもいいんだがな」
「……」
おそらく、男は気づいているのだろう。ここが、リュカの部屋ではないことに。だってそれにしては、この部屋にはユーフェの匂いが染みついている。甘やかで、どこか魅惑的なジャスミンの香りが。
少年とはいえ、性別が男である者からは、あまり香らない匂いである。
「ちょうどいいから、俺はここで寝泊まりさせてもらうぞ」
「それはだめ」
「なぜ?」
ここがリュカの部屋だから、とは微塵も男は思っていない。その瞳が面白そうに細められている。リュカの反応を楽しんでいるようだ。
内心でため息をついたリュカは、彼を追い出すのは至難の技だと諦めた。
「いいから、僕の部屋を使って」
「じゃあ君はどこで寝る?」
「ここ」
「ここは誰の部屋だい?」
「僕のお師匠様。でももういない」
嘘ではなかった。ユーフェが来る前、ここは確かに彼の師の部屋だった。
「俺は
「でも今は、その
「なら、この猫と一緒に使わせてもらおう」
「みゃっ。みゃー!」
絶対嫌だ、とユーフェが全力で拒絶する。
「嫌だって」
「はは。つれないことを言うな、ユーフェ。毎晩抱きしめて温めてやるぞ?」
「みゃーっ‼︎」
変態! と咄嗟に前脚が出た。いわゆる猫パンチが男を襲う。
しかしそれすら楽しむように、男はからからと笑った。
「俺はヴィクトル。君が俺の舌を満足させられたら、ここを出て行こう」
そう言って、彼は助けてもらった礼でもするように、猫の額に口づけた。
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