悪魔の執行人
貴美
序章 君は僕に、僕は君に出逢う運命だったんだね。
「いいんですか坊ちゃん。久しぶりの社交の場をすぐ後にして」
壮年の執事が馬を操りながら背後に語りかける。呆れと
馬車の中には二人いた。こちらも世話役なのだろうメイド服に身を包む婦人と、そして
「挨拶はしたし、十分でしょ。あれ以上あの場にいたら僕の鼻が壊れちゃうよ」
彼の言い分に男と女は苦笑する。彼がこのように愚痴をこぼせるのは、両親同然の自分たちの前だけだと知っている。
彼、アレクシス・ホーマンは、
アレクシスはふと馬車の外を見る。――暗いな。夜というのを差し引いても暗いものがある。当てもなく夜道をさ迷う平民たちがちらほら視界の端をかすめていく。今でも
(踊っている場合か。浮かれ貴族どもめ)
抜け出してきた
(ほんと、くだらない時間だった)
おしゃべりに夢中で誰も手に付けない
スラムとは、国が見捨てた人間が生活している無法地帯である。そこに住む者たちに法とはあってないようなもので、下手に近づいて身ぐるみを剥がされるまでは運がよく、最悪殺される場合もある。しかしアレクシスは知っている。彼らは彼らの家族を護る為に必死に生きていることを。自分も一時期スラムの住民だったことがある。彼らは身内にはとても優しかった。
(周りの目さえ無ければ)
先の計画を実行に移していただろう。己だけが裁かれるならまだいい。しかし家人にまで罪が及ぶ事態は避けたかった。もう家族を失うのはこりごりだ。
ここパリではもう何十年も醜い内紛が続いていた。ユグノー(カルヴァン主義プロテスタント)とカトリックが各々の主義主張を通そうと互いに殺し合い、その
アレクシスはそっと目をつむる。彼はカトリックの父と母を持ち、唯一の
『生きて』
ふー……っと、アレクシスは深い息を吐き、ゆっくり
(酷い遺言だよまったく)
おかげで死ぬことも出来ない。
自分は生きた。その頃世間では皆殺しにあったと言われていたようだが、冗談ではない。姉が命を張って助けてくれたのだ。なら自分は生きて生きて、その存在を知らしめよう。幼い間はスラムで過ごし、十を超えてからようやく屋敷に戻り、骨だけになっていた家族と使用人たちの
(今回も酷いものだったな)
最初から気乗りしなかった舞踏会だったが、外から風に乗って運ばれて来る血の匂いと、
(同じ神を仰いで殺し合うなんて
だからアレクシスは神を信じない。
突然急停止した
「何があった」
「いえっ、こどもが」
「こども?」
ここからじゃよく見えない。ドアを開けるとアニーから「危のうございますっ」と引き留められたが、構わず地に
改めて前方に目を向ける。
「これはこれは
「食い物をよこせ。さもないと殺す……!」
アレクシスは目を細める。こんな小さい子ですら夜盗の真似事をするのだから世も末だ。アレクシスの呆れを拒否と取ったのか、少女は鋭い眼光をそのままに、刃がボロボロの剣を必死に構え直して言う。
「早くしろっ」
「うーん。ねぇアニー、何か食べ物ってあった?」
それにアニーは恐る恐ると言った風に答える。
「か、間食用のビスケットでしたら……」
「それ持って来て。全部」
菓子の入ったバスケットを受け取ると、アレクシスは少女に近づく。
「はい、どーぞ」
まさかこんなに呆気なく差し出されると思わなかったのだろう。目を白黒させる少女にアレクシスは笑いをかみ殺した。
「ほらほら、早く受け取って。それとも、
ナイフを両手で握る手が震え、少女の
「どこに運べばいい? 案内して」
さすがに家人たちは慌てた。主人がマイペースかつ強引な性格なのは知っている。しかしみすみす危険に飛び込もうとしているのを放っておける筈がない。
「坊ちゃんいけません!」
「そうです! 渡したならもうよいではないですかっ」
アレクシスは自分を心配してくれる彼らを無下にすることに罪悪感を覚えたが、どうしてもこの子が気になって仕方なかった。
「ごめんね、すぐ戻るよ。大丈夫。絶対危ない真似はしないから」
「すでに危ない真似をなさっておいでです!」
「ほらほら、早くしないと僕が怒られちゃうんだからね」
未だに動こうとしない少女を
(なんだろう。あの子を見てると不安になる)
アレクシスは少女に
(初めから捨て身だった気がする)
――ああ、そうだ。あの子は死んだ姉に似ているのだ。顔の造作などではなく、醸し出す雰囲気が。最期の最期に何かをやり切ろうとする覚悟をしたそれに。
少女が止まる。先ほどから鼻をつんざく
ようやくナイフを捨て、アレクシスからバスケットを受け取った少女は、ためらうことなくその山をよじ登った。軽い少女だからこそ出来たことだろう。自分が登ったら腐った死体に足を取られるに違いない。
「お母さん」
アレクシスは目を見開く。一番真新しいだろう女の死体に向かって少女は言った。母と。
「おそくなってごめんね。やっとごはんが食べられるよ」
少女はビスケットを一つ取り出すと、その母だったものの口に押し付ける。
「ちゃんとかんで食べないとだめだよ」
しかしいくら待っても
「……はじめて見る食べ物だね。なんていうのかな」
アレクシスはたまらない気持ちになって思わず口を開いた。
「ビスケットだよ。アニーの手作りは世界一
少女は驚いたように一度振り返って彼を見た後、はにかむように笑って再び母に話しかけた。
「ねぇお母さん、このびすけっと。世界一おいしいんだって。ふふっ」
きっと少女も母の死に気づいているのだろう。それは先ほど見た表情から窺えた。それでも何かせずにいられなかったのだろう。どうしたら救える? どうしたら――
「ねえ、おいしい?」
「美味しいよ」
気がつけばそんな言葉を口にしていた。
少女が驚いたようにこちらを見るが、続けてと指をさす。
「ほんとうにおいしい?」
「とっても美味しいよ」
「あのお兄さんは嘘つきじゃなかったんだね」
「お母さんもこの味は世界一だと思うわ」
「ふふっ、ははっ」
少女は笑った。泣きながら笑った。
「ここにおいて行くからぜんぶ食べていいよ」
「ありがとう」
――ああ、名前で呼びたいな。
「ねぇ、君の名前は?」
「……リリアン」
そっか。アレクシスはあーあーと喉の調子を整えると、改めて高い声で言った。
「リリー。ありがとう」
リリーとは愛称だ。きっと母親ならこう呼んでいただろうから。
そしてそれは当たったらしく、一度大きく震えた少女は、母親の頭を抱えて
しばらくそっとしておいたが、落ち着いたらしい少女が山から降りて来て掠れた声で言った。ありがとう、と。そのままどこかへと立ち去ろうとした彼女の手を取る。掛ける言葉は既に決めていた。
「ねぇ、リリー。僕の子になる気はない?」
それが僕と、僕の娘であるリリアンとの出逢いだった。
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