悪魔の執行人

貴美

序章 君は僕に、僕は君に出逢う運命だったんだね。

「いいんですか坊ちゃん。久しぶりの社交の場をすぐ後にして」


 壮年の執事が馬を操りながら背後に語りかける。呆れと愉悦ゆえつを含んだ声音だ。

 馬車の中には二人いた。こちらも世話役なのだろうメイド服に身を包む婦人と、そして如何いかにも貴族といった風体の青年だ。青年は行儀悪く足を組み、顎をさらして天を仰いだ。


「挨拶はしたし、十分でしょ。あれ以上あの場にいたら僕の鼻が壊れちゃうよ」


 彼の言い分に男と女は苦笑する。彼がこのように愚痴をこぼせるのは、両親同然の自分たちの前だけだと知っている。

 彼、アレクシス・ホーマンは、五爵ごしゃくの中でも古い歴史を持つ伯爵はくしゃくの家系に生まれた。しかし幼い頃に悲惨ひさんな事件に巻き込まれ、爵位しゃくいが宙に浮いてしまった。最近になって玉座ぎょくざが安定し、本当ならば元の伯爵、子爵の位をたまわることができたのだが、貴族社会に辟易へきえきしていた彼はあえて一番位の低い男爵だんしゃくの地位を願った。持っていた領地は全て両親と懇意こんいにあった貴族に譲り、そして今はこの廃れ切った街の再興さいこうに力を入れている。


 アレクシスはふと馬車の外を見る。――暗いな。夜というのを差し引いても暗いものがある。当てもなく夜道をさ迷う平民たちがちらほら視界の端をかすめていく。今でも内紛ないふんが絶えない国だ。見慣れた光景でもやはり眉が寄るのは仕方ない。王位こそ揺るがなくなったが、国はまた別だ。虐殺ぎゃくさつ爪痕つめあとは深く、今は一刻も早く体制を整える時期だ。だのにだ。


(踊っている場合か。浮かれ貴族どもめ)


 抜け出してきた舞踏会ぶとうかいに出席していた貴族たちの顔を思い浮かべては苛立ちが募る。始めはサボろうかと思っていた。しかし主催側が有力貴族だったこともあり、家人たちの説得という名の脅迫きょうはくに負けた。どうやら主人自分が貴族社会から爪はじきされる事態を防ぎたかったのだろう。その気持ちはありがたいが、正直無視されるならそれはそれで構わない。一度は死んだと思われていたくらいだ。今更取り繕われても気持ちが悪いだけだった。そもそも、だ。未だ家を失い、職を失い、餓死がしする平民が後を絶たないというのに何が舞踏会だ。アレクシスは会場ですり寄って来た令嬢たちを思い出し舌打ちした。たかが男爵だんしゃくの男に媚びを売ってなんになる。もっと有力な独身貴族を狙えばいいものを。だがしかし、彼は気づいてない。彼女たちは肩書よりもその容姿に惹かれていたのだと。白磁はくじのような透き通る肌。首筋を流れるブロンドの髪。そして切れ長の澄んだ海色アクアマリンの瞳。更に彼の高い矜持きょうじは人を寄せ付けない雰囲気を放っていた。しかしそれが逆に乙女たちの心に火を着けた。なんとしてでも落とすと。わらわらと自分を取り囲む女たちに、元々出世欲のないアレクシスがを上げるのは早かった。少し一人で外の空気に当たりたいと言い、そのまま抜けて来たのだ。顔見知りである貴族との挨拶は一通り行った。ならもうあんな場所に用はない。


(ほんと、くだらない時間だった)


 おしゃべりに夢中で誰も手に付けない豪華ごうかな料理を見ては唇を噛んだ。今、どれだけの人間が飢えに苦しんでいるのだと。出来るのならその料理を馬車一杯に詰め込んでスラムに届けたいくらいだった。


 スラムとは、国が見捨てた人間が生活している無法地帯である。そこに住む者たちに法とはあってないようなもので、下手に近づいて身ぐるみを剥がされるまでは運がよく、最悪殺される場合もある。しかしアレクシスは知っている。彼らは彼らの家族を護る為に必死に生きていることを。自分も一時期スラムの住民だったことがある。彼らは身内にはとても優しかった。


(周りの目さえ無ければ)


 先の計画を実行に移していただろう。己だけが裁かれるならまだいい。しかし家人にまで罪が及ぶ事態は避けたかった。もう家族を失うのはこりごりだ。


 ここパリではもう何十年も醜い内紛が続いていた。ユグノー(カルヴァン主義プロテスタント)とカトリックが各々の主義主張を通そうと互いに殺し合い、その都度つど街を血で染め上げた。後に良王と慕われるアンリ四世がこの内紛を終結させるまで、実に四十年近くの歳月が流れたという。


 アレクシスはそっと目をつむる。彼はカトリックの父と母を持ち、唯一の姉弟きょうだいであった姉諸共もろとも殺された。彼が六つもいかない時だった。突然屋敷に押し入って来たユグノー信者たちに問答無用に蹂躙じゅうりんされたのだ。本来ならば彼も殺されていた。しかし聡明そうめいだった姉は、混乱の最中さなかにも関わらず自分をベッドの下に隠した。狭い隙間だった。姉は自分を隠した後、すぐにやってきた男に剣で胸を貫かれて倒れた。ベッドの隙間から、口からは血を、瞳からは涙を流す姉と目が合う。男が出て行った気配がした。「まだ隠れていなさい」と目で訴える姉は、泣きじゃくる声を必死に抑える自分を見て微笑んだ。姉の最期さいごの呟き、あれが無ければ自分はきっとここに居ないだろう。


『生きて』






 ふー……っと、アレクシスは深い息を吐き、ゆっくりまぶたを持ち上げる。


(酷い遺言だよまったく)


 おかげで死ぬことも出来ない。


 自分は生きた。その頃世間では皆殺しにあったと言われていたようだが、冗談ではない。姉が命を張って助けてくれたのだ。なら自分は生きて生きて、その存在を知らしめよう。幼い間はスラムで過ごし、十を超えてからようやく屋敷に戻り、骨だけになっていた家族と使用人たちの亡骸なきがらとむらった。当時の家人も殺されてしまったが、彼らの縁者に当たる二人が目の前に現れた。それが執事じいことクレマンと、メイドのアニーである。どうやら自分は覚えていないが、小さい頃に彼らと会ったことがあるらしい。うちが全滅ぜんめつしたと嘆いていたところ、自分が生きているという噂を聞きつけ駆け付けてくれた。優しい彼らを昔と同じ目に遭わせる訳にはいかない。その為ならなんだってした。苛烈かれつな宗教争いが続く中、常に状況を見て優勢な方に改宗かいしゅうした。時にはプロテスタントにもなった。そしてアンリが玉座に就いた時には彼と同じカトリックへと。信仰心なんてとっくの昔に捨てた。


(今回も酷いものだったな)


 最初から気乗りしなかった舞踏会だったが、外から風に乗って運ばれて来る血の匂いと、淑女しゅくじょたちの香水の匂いで会場はむせ返り、長時間あそこにいたら気が狂いそうだ。他の人間はよく平気だなと感心し、ああ、既に狂っているのかと独りつ。でなければダンスの合間に人が殺されても続行なんてしないだろう。反対派の暗殺者だったのか、衛兵に捕まった男は会場から連れ出されていた。きっと命はないだろう。この手の光景は何度も見て来た。しばらくして聞こえて来た断末魔だんまつまに吐き気がした。今夜も一人の人間が死んだ。いや、実際は見えないところで何人も死んでいる。それでも貴族たちは踊って笑うのだ。……本当に狂っている。


(同じ神を仰いで殺し合うなんて本末転倒ほんまつてんとうもいいとこだ)


 だからアレクシスは神を信じない。


 突然急停止した馬車くるまに、夜盗でも現れたかと腰のレイピア(細剣)に手をやる。


「何があった」

「いえっ、こどもが」

「こども?」


 ここからじゃよく見えない。ドアを開けるとアニーから「危のうございますっ」と引き留められたが、構わず地にかかとを下ろす。クレマンも今気づいたらしく、隣に並んだアレクシスに「坊ちゃん!」と声を荒げた。……まったく心配性な二人だ。とくすりと笑う。

 改めて前方に目を向ける。


「これはこれは小さいお嬢さんプティフィーユ? 僕らに何か用かな?」

「食い物をよこせ。さもないと殺す……!」


 アレクシスは目を細める。こんな小さい子ですら夜盗の真似事をするのだから世も末だ。アレクシスの呆れを拒否と取ったのか、少女は鋭い眼光をそのままに、刃がボロボロの剣を必死に構え直して言う。


「早くしろっ」

「うーん。ねぇアニー、何か食べ物ってあった?」


 それにアニーは恐る恐ると言った風に答える。


「か、間食用のビスケットでしたら……」

「それ持って来て。全部」


 菓子の入ったバスケットを受け取ると、アレクシスは少女に近づく。


「はい、どーぞ」


 まさかこんなに呆気なく差し出されると思わなかったのだろう。目を白黒させる少女にアレクシスは笑いをかみ殺した。


「ほらほら、早く受け取って。それとも、ナイフそれを握ってないと不安? なら僕が運ぼうか」


 ナイフを両手で握る手が震え、少女の困惑こんわくを伝えている。


「どこに運べばいい? 案内して」


 さすがに家人たちは慌てた。主人がマイペースかつ強引な性格なのは知っている。しかしみすみす危険に飛び込もうとしているのを放っておける筈がない。


「坊ちゃんいけません!」

「そうです! 渡したならもうよいではないですかっ」


 アレクシスは自分を心配してくれる彼らを無下にすることに罪悪感を覚えたが、どうしてもこの子が気になって仕方なかった。


「ごめんね、すぐ戻るよ。大丈夫。絶対危ない真似はしないから」

「すでに危ない真似をなさっておいでです!」


 不謹慎ふきんしんだが笑った。ごめんよ、じい。でももう諦めてるでしょ? 付き合い長いもんね。腰のレイピアをぽんぽんと叩けば、じいは深い溜め息をついてうなだれた。うん、解って貰えて嬉しいよ。


「ほらほら、早くしないと僕が怒られちゃうんだからね」


 未だに動こうとしない少女を催促さいそくすると、ハッとしたように駆け出した。ついて来いという意味だろう。アレクシスは少女の小さな背を追う。手にはバスケットを持って。


(なんだろう。あの子を見てると不安になる)


 アレクシスは少女に既視感きしかんを抱いていた。単に腹が減っていただけか? その割に切羽詰まった様子だった。通りかかった馬車が自分たちで無ければ斬って捨てらてもおかしくないのに。


(初めから捨て身だった気がする)


 ――ああ、そうだ。あの子は死んだ姉に似ているのだ。顔の造作などではなく、醸し出す雰囲気が。最期の最期に何かをやり切ろうとする覚悟をしたそれに。


 少女が止まる。先ほどから鼻をつんざく刺激臭しげきしゅう。これは死臭だ。目の前には高く積まれた山。よく見れば全て死体だった。アレクシスは眉をひそめるのを我慢できなかった。


 ようやくナイフを捨て、アレクシスからバスケットを受け取った少女は、ためらうことなくその山をよじ登った。軽い少女だからこそ出来たことだろう。自分が登ったら腐った死体に足を取られるに違いない。


「お母さん」


 アレクシスは目を見開く。一番真新しいだろう女の死体に向かって少女は言った。母と。


「おそくなってごめんね。やっとごはんが食べられるよ」


 少女はビスケットを一つ取り出すと、その母だったものの口に押し付ける。


「ちゃんとかんで食べないとだめだよ」


 しかしいくら待っても咀嚼そしゃくする様子はない。当たり前だ。


「……はじめて見る食べ物だね。なんていうのかな」


 アレクシスはたまらない気持ちになって思わず口を開いた。


「ビスケットだよ。アニーの手作りは世界一美味おいしいんだ」


 少女は驚いたように一度振り返って彼を見た後、はにかむように笑って再び母に話しかけた。


「ねぇお母さん、このびすけっと。世界一おいしいんだって。ふふっ」


 きっと少女も母の死に気づいているのだろう。それは先ほど見た表情から窺えた。それでも何かせずにいられなかったのだろう。どうしたら救える? どうしたら――


「ねえ、おいしい?」

「美味しいよ」


 気がつけばそんな言葉を口にしていた。

 少女が驚いたようにこちらを見るが、続けてと指をさす。


「ほんとうにおいしい?」

「とっても美味しいよ」

「あのお兄さんは嘘つきじゃなかったんだね」

「お母さんもこの味は世界一だと思うわ」

「ふふっ、ははっ」


 少女は笑った。泣きながら笑った。


「ここにおいて行くからぜんぶ食べていいよ」

「ありがとう」


 ――ああ、名前で呼びたいな。


「ねぇ、君の名前は?」

「……リリアン」


 そっか。アレクシスはあーあーと喉の調子を整えると、改めて高い声で言った。


「リリー。ありがとう」


 リリーとは愛称だ。きっと母親ならこう呼んでいただろうから。

 そしてそれは当たったらしく、一度大きく震えた少女は、母親の頭を抱えてせきを切ったように泣き崩れた。


 しばらくそっとしておいたが、落ち着いたらしい少女が山から降りて来て掠れた声で言った。ありがとう、と。そのままどこかへと立ち去ろうとした彼女の手を取る。掛ける言葉は既に決めていた。


「ねぇ、リリー。僕の子になる気はない?」


 それが僕と、僕の娘であるリリアンとの出逢いだった。

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