第27話 当たり前の特別



「――じゃあ、一旦休憩にしよ。お疲れ様、梓」

「ふあぁ……終わりだぁ……」


 ペンを置いて参考書や問題集を閉じ、ぐーっと腕を上げて体を伸ばして息を漏らす。

 休憩時間くらいは勉強のことを忘れさせて欲しいものだが、テーブルの上の参考書達がそうさせてくれない。

 なんとも居心地が悪いように思えるが、ここは一ノ瀬家の凛華の部屋。

 俺に、逃げ場など無かった。


 簡単に一ノ瀬家で勉強している理由をいえば、「行き来が面倒だから」に尽きる。

 さらに言えば、康介さんと奏さんへ勉強会で泊まりたいと凛華が話をしてくれたからでもある。

 実質的なお泊まり会な訳で伊織もこっちに来ているため、家は空けた状態だ。


 そして肝心の勉強の進捗だが、ぼちぼちといったところだ。

 今のままでは試験の合格は厳しいものの、一週間も勉強すれば十分に狙える範囲内。

 なんにせよ、朝から晩までの勉強漬けは回避されたのだから万々歳だ。


「ぱーっとやって見た感じ、単に忘れてるだけじゃないの?」

「約一年も勉強してなきゃ忘れるって……無茶言うなよ」

「続けていれば苦労することもなかったのにね。また高卒認定試験の時みたいなことになるよ?」

「うっ……」


 顔を顰めて目を背ける。

 思い出したくないことを思い出した。


 俺と凛華は中学卒業後すぐ探索者の免許を取得しようとしたが、そこで康介さんが「高校に行かないまでも高卒の資格は取っておいた方がいい」と言ったのが全ての発端。

 そこで俺達が目指したのは高卒認定試験に合格すること。

 難易度的には大学受験相当であるため、中卒の俺達には難しい。

 だが、約一年の猛勉強を経てギリギリ、スレスレで合格した。

 ……まあ、ギリギリだったのは俺だけだけど。


 それから探索者の免許を取得して探索者になったが……以来、勉強とは無縁の生活だった。


「忘れてるだけなら一週間もあれば十分ね。サボらなきゃ、だけど」

「わかってるって。子供じゃあるまいし」

「似たようなものでしょ。その膨らませた頬とか、背丈とか、ね?」

「ね? じゃねぇよおい!?」


 必死の抗議はしかし、軽くいなされるばかりだ。

 何を言っても無駄だと悟って、はぁ、と溜息混じりに俯く。

 視線の先にはハーフパンツからスラリと伸びる、病的な程に白く華奢な脚。

 我が物ながら子供と言われても納得出来なくはない……かもしれない。

 断じて認める気はないけれど。


 半袖シャツから伸びる腕や髪に当たるエアコンの冷たい風、チリンと小さく涼し気な音色を響かせる風鈴。

 顔を上げてふと見た窓の向こうには、遥か彼方まで澄み切っている青空が広がり、降り注ぐ太陽の光が眩しくて目を細めた。


 乾いた喉を潤すためにガラスのコップに注いだ麦茶をコクコクと飲んで、ふぅと一息。


「なんかおじいちゃんみたい」

「誰がおじいちゃんか。こんなにも可愛らしい美少女だと言うのに」

「自分で美少女とか言っちゃうあたり、もう戻れそうにないわね」

「そもそも現代の化学じゃ戻れそうにないって言われてるし……でも、今も変わらず楽しくやれてるから結果オーライってことで」


 正直、こうなったのを冷静に考えれればプラスの面は大きいと思っていたりする。

 生きるのに、さほど苦労することもなくなった。

 笑うことが増えた。

 楽しいと思えることを沢山知った。

 自分を大切に思ってくれている人を再確認出来た。


 そして――自分の大切な人を悲しませたくないと、強く思った。


 怪我の功名……とは少し違うかもだけど、今にとても満足している。


 だからこそ、前へ進む一歩が踏み出せる。

 苦しいことも、辛いことも乗り越えられる。


「――なんていうか、ありがとな。凛華」

「何よ突然」

「いや、日頃の感謝は伝えられるときに伝えるべきだなーって思って」


 身をもって体験したからこそ、今言わなければと衝動に駆られて言ったのだが。

 凛華の反応はなんとも微妙なものだった。

 じーっと俺を見る双眸は柔らかく、口元は僅かに緩んでいるのがわかる。

 嬉しさと恥ずかしさをミックスした感情を無理矢理押し込んでいるような、そんな顔。


 そして、凛華が俺の額に手を当てて――


「――熱ある?」

「失敬な。俺だってこんなことを言いたくなる日もあるんだよ」

「じゃあ、ポエマーなの?」

「違うわっ!?」


 軽く放った手刀を凛華は避けることなく食らって、二人で顔を見合わせて込み上げた感情に耐えられずに笑い合う。


 ほら、こんな風に。

『俺』が『私』に変わっても、凛華との関係は何一つ変わらない。


『俺』が『俺』のままなら当たり前だと、気づくことすらなかった幸せ。


 そんな当たり前の特別を、心から守りたいと切に願うのだった。

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