第三話 穀雨:オルタンシア

ーー誰?


私の視界に映ったのは一人の幼い少女。


真っ暗な、何もない空間で、たたずむ少女。


ーー覚えてないの?


5歳くらいだろうか。


そんな少女は長い黒髪を泳がせながら、その瞳で私を見つめていた。


ーー汚い。


少女はポツリと言葉を漏らし、同時に頬を濡らした。


ーーどうしたの?


そんな少女を放っておけるはずもなく、私は足を進める。


しかし、少女は近づく私を見て、背を向けてしまった。


ーー忘れて...


少女の最後の言葉が放たれると同時に、真っ暗だった空間にひびが入り始めた。


ガラスのように瓦解がかいする空間は酷く恐ろしかったが、同時に幻想的でもあった。


そして、私は只々その場で立ち竦み、崩壊が終わるのを見届けた。




「うぅ...っ...」


気付いたら、私の視界に真っ白な天井が映っていた。


紫陽花しおかさん!!」


紫陽花しおか!」


一人は女性、もう一人は男性の声だ。


「僕、先生呼んできます!!」


「分かったわ。」


辺りを見渡してみると、真っ白なカーテンが私を隔離かくりするようにして、広がっていた。


紫陽花しおか、覚えてる?事件に巻き込まれて、病院に...」


安らぎを与えてくれる、女性の声だ。そんな声の源へと視界を移すと、そこには私の髪を撫でるおばあちゃんの姿があった。


「病院...?」


「覚えてない...?」


心配そうに見つめるおばあちゃん。


勿論覚えている。忘れるはずがない、あの事件の事を。


突き付けられる銃剣。


叫び荒れる翡翠くん。


オッドアイの少年。


鮮紅色せんこうしょくに染まった視界。


どれも一生忘れる事の出来ない齣だ。


紫陽花しおか、無理しないで。」


私は自分の状況を確認する為、ゆっくりと起き上がり、ベッドの上に腰かけた。


「大丈夫だよ...おばあちゃん。」


すると、ガラガラと無駄に大きな音を立てながら、白衣に身を包んだ先生が部屋に入ってきた。そんな先生の後ろを歩いていた翡翠くんも、先生と同じように部屋に入る。

窓の外には登り切った太陽が映っている。そんな時間に、翡翠くんはこんな所にいていいのだろうか?具体的には、学校に行かなくて、いいのだろうか?


「本当に...もう、目覚めたのか...?」


変な事を呟きながら、ベッドの近くに置かれた椅子に腰かけた先生は、真剣な眼差しで私を見つめた。その視線は優しく、患者を安心させる役割も持つ病院の先生とは別物。例えるなら、獣を前にした狩人や、犯人を前にした刑事。


「まず、昨日の事は覚えていますか?」


「はい、勿論です...」


「そうか...」


重く...思い詰めるようなため息を漏らす先生。


何か問題でもあるのだろうか?患者の記憶もハッキリしていて、直ぐに目覚める事が出来たんだから、寧ろ喜ばしい事だと思うのだけど...?


「では、昨日、刺された事は覚えていますか?」


私、刺されたのか?


「いえ、覚えてないです。」


病院にいる、と言う現状から考えて、あの男に何かされた事は予想できる。でも、まさか刺されていたとは思わなかった。でも、だとしたら傷はどこだ?どこにも傷口なんてないし、痛みも感じいない。


「あなたは、刺されたんですよ。いえ、『切り裂かれた』といった方がいいでしょうか?」


「切り裂かれた、ですか?」


『切り裂かれた』なんて表現、人間に対して使われる事なんてないぞ...


「先生。あれからどれくらいくらい経ったのですか?」


先生は『昨日、刺された事は覚えていますか?』と言う質問をぶつけてきたが、刺されたのは昨日ではない。それは確信できる。

理由は簡単。先生の言っていた通り、あの男が私を『切り裂いた』のだとしたら、傷口を完全に癒すのに何週間もかかるはずだ。


「事件からは、半日程度しか経っていません...」


一瞬、先生の言葉が理解できなかった。半日の意味が分からなかった。


「半日ってどういう意味ですか?」


半日の意味を問う私。


そんな私の問いを予想していたのか、先生は表情を一切変えずに、ゆっくりと重い口を開いた。


「半日で、完全回復したのですよ。」


そんな事があり得るはずがない。具体的に、どれほどの傷を抱えてきたのかは分からないが、先生の表情から察するに、相当酷かったのだろう。


冷たい沈黙が空間を支配する。


「それで...紫陽花はいつ頃退院できるんですか...?」


そんな沈黙を破ったのは、おばあちゃんだった。


「あぁ、体の状態だけ見えれば、今日退院してもらっても大丈夫なのですが、万が一の事を考えて、あと一週間は入院していた方が良いでしょう。」


それを聞いたおばあちゃんと翡翠くんはホッと胸をなで下ろす。


私も直ぐに退院できるみたいで安心したが、半日で完全回復した事で頭がいっぱいで、正直、あまり喜べなかった。



***



翌日


私は病院の一階、ロビーまで来ていた。


特に目的はないが、ずっと病室にいるのも退屈なのだ。放課後になれば彩萌や翡翠くんがお見舞いに来てくれるみたいだが、それまでが暇過ぎる。


と言っても、ロビーで特にする事なんてない。ここは病院だ。閑を満たすものなんて、テレビくらいしかない。


私は適当な場所に腰かけ、窓の外を眺める。


「暗いなぁ...」


今日は雨雲目立つ。

昼過ぎからどしゃ降りになると、今朝のテレビに流れていた。


「彩萌に翡翠くん...大丈夫かなぁ...」


ふと、窓の外を眺めていると、一人の少女が私の視界に入った。


その少女はツインテールに纏まっていた茜色の髪を揺らし、道を進んでゆく。


あの時の少女だ。


事件の日に出会った。悪魔崇拝のビラを配っていた、少女...


しかし、今日の少女は少しあの時とは違っていた。普通の服装を纏っているのも大きな違いだが、以前見かけた時に見せてくれた、彼女の笑顔が...全く見えなかった。

正確に言えば、彼女の溢れ出ていた、あの情調じょうちょうが、消え去っていた。


そんな彼女を見て、私は立ち上がった。何故だろう?


心配になったから?


でも、ほぼ初対面の少女の心配なんてしても、迷惑なだけだ。


なのに、何故か私は、病院を飛び出した。


紫陽花しおかさん!?ちょっと、どこ行くんですか!?」


混乱の色を見せる看護師さんの喚声が、辺りの空気を震わせる。


でも、私は止まらない。そもそも、私にそんな言葉は届かなかった。何故なら、私の意識は、あの少女にしか向いていなかったからだ。


「ねぇ、そこの子!!」


名前なんて分からない。初対面なのだから、呼びかけても振り向くはずがない。


でも、何故かその少女は振り返った。私の声を聞いて、自分を呼んでいると把握する事が出来た。


そんな少女を見て、私は少し...油断してたのかもしれない。


悲鳴を上げながら真横を通る黒の自動車。8人以上は乗れそうな大きな車だ。そんな車は少女の真横で停車し、勢い良くドアが開かれた。


「おい!こいつで間違いないな!!」


顔を出したのは覆面の男。何かを叫び、少女に近づく。


「あぁ、こいつで間違いない。早く縛り付けろ!!」


「放してく下さい!!!」


少女を無理やり車に連れ込もうとする覆面の男。ただ、少女が黙って連れていかれるはずもなく、彼女は暴れ回り、自分の意思を主張する。しかし、そんな少女の抵抗も虚しく、一瞬にして少女は車の中に連れ込まれてしまった。


この状況がいったい何を示すのか、私は未だに理解していなかった。でも、少女の叫び声は聞こえた。


私は素早く地を蹴り、少女を誘おうとする自動車との距離を詰める。しかし、反応がだいぶ遅れた私が、今、発車しようとしている自動車に追いつけるはずがない。


自分でも、それは考えなくても分かる。でも、私の足は止まらない。


車はエンジン音を轟かす。


私は突き進む。


車は動き出す。


私は手を伸ばす。


「はぁ...はぁ、はぁ...はぁ。」


気付いたら、少女を乗せた車は、元の場所から消えていた。


「ねぇ、これ警察に電話した方が良くない?」


「今の...何だったんだ?」


「もしもし、警察ですか?」


辺りがざわつき始め、やっと私も理解した。あれが誘拐だったって事を。


ーー助けたい?


聞き覚えのある。少女を声が脳内に響き渡る。


「誰!?」


私は体を震わせ、思わず声を上げてしまった。


ーー聞いてるの。助けたい?


私はその言葉を聞き、一瞬固まる。


ーー助けたいなら、力、貸せる。


誰なのかも分からない相手に、力を貸せるとか言われても、分からない。

そもそも、力なんて、貸せるものではない。


ーー仕方ない...


少女の声にはため息も混じっていた。私はそんな声にピクリと反応し、ある違和感を覚えた。


不自然なほど溢れ出る力、興奮。


私は始めて、自分が怖いと感じた。誰かも分からない少女との会話の直後に現れたこの力、それを受け止めてしまった私...全てが怖かった。


私は自分の瞳を閉じ、一旦深呼吸を行う。このままでは少女を助けようにも、病院に戻ろうにも、何もできない。一旦落ち着く必要がある。


十分に落ち着きを戻したと確信した私は、徐にその瞳を開ける。


すると、目の前には先程とは違う世界が広がっていた。


光速で変わる景色。次々と流れてゆく高層ビル。例えるなら、車にの窓から外を眺めている気分。


気付いたら、私は走っていた。


それも、かなりの速さで。


時速60キロ以上出す車にも後れを取らない、異常な速さで。


ーー止まって


再び少女の声が脳内に響き渡り、私はそれに従う。


「なに!?今の!!??」


「何が起こったんだ!!」


いきなり現れた強風に、混乱の色を見せる大通り。ただ、誰も私が元凶だとは思っていないようだ。

良く分からないが、好都合だ。今のを通りすがりの人達に見られていたら、大変な事になっていただろう。


ーーそこのビルの、路地。


私は少女の声に反応し、辺りを見渡す。すると、ビルの隣にある路地を確認する事が出来た。同時に、その路地に入る、黒い大きな車も。


私は先程のような、異様な速度を出さないよう気を配りながら、路地へと足を進めていった。


「放して下さい!」


少女の声が聞こえる。あの茜色の髪の少女のだ。


「それで、こいつどうするんだ?」


素早く移動し、すぐそばにあった電柱の後ろに身を隠すと、男の声が聞こえてきた。少女が誘拐されていた時、覆面を被っていた男の声だ。


「釣るんだよ、あの組織の生き残りを。決まってんだろ」


悪態を漏らす男性。表情を見なくても分かる、男性の苛立ち。それはとても恐ろしく、私は思わず身震いを起こしてしまった。


「察は?」


「そんなの他の奴らに任しとけば良いだろう。」


物騒な会話だ。いつもの私なら、迷わず逃げていただろう。でも、今は...


「その子...放してやって...ください...」


ゆっくりと電柱から距離を取り、頬を濡らす少女に一歩一歩近付いていく。


「これまた面倒な。」


「お嬢ちゃん、分かってると思うけど、もうお家には帰れないよ。」


覆面の男は二人だけ、二人ともナイフを手にしている。なら簡単だ。少女を連れて、逃げればいいだけ。私は元々足が速いし、大丈夫だと...思う...


「大人しくこっちに来な、そしたら少しは延命するかもしれないぞ。」


最初からそのつもりだ。近寄らないと、少女を連れて逃げられない。


「なんだ、結構素直じゃねぇか。」


男が何を思ってそんな事を口にしたのかは分からないが、油断してくれたなら有り難い。


私は地を蹴り、一気に彼らとの距離を詰める。幸いにも、路地の向こう側には道がある。運が悪ければ行き止りだが、良ければ大通りに出られるかもしれない。

つまり、この二人の覆面の男に捕まらずに少女にたどり着けば、私の勝ちはほぼ確定するという事だ。


私は一人の男を完全に無視し、もう一人の男の前に出る。そこで私は拳を握り締め、回転を加えながら男性の腹部へと拳振るう。


「なっ...!」


これは私のフェイントだ。一瞬の戸惑いを見せた男性の隙をみて、私は体制を低くし、素早く男性の横を通り抜ける。


私は直ぐに少女の腕を掴み、その場から逃げようとする...が...


「調子に乗るなよ、クソガキ...!」


憤怒ふんぬの形相をを露にした男性は、私の腕を掴み、もう片方の手で拳を作る。


ーーはぁ、情けない。


あの声だ。


私をここまで連れて来た、あの少女の声だ。


ーーこいつら殺すか。


何を言っているんだこの少女は。そんな事したくないし、出来るはずもない。


私は瞳を閉じ、覚悟を決める。腕は掴まれているし、逃げようがない。この拳は、受けるしかない。


ーー契約しよ?


もう黙っていて欲しい。私は覚悟を決めたんだ。食らった後、どうやって少女を解放して、どうやって逃げるかもイメージできてないのに...


ーー私と契約すれば、簡単。


簡単なわけがない。私は学生、相手は大人。


ーー私の...自分の力を信じなきゃ。


私に力なんてない。私はただの学生で、今、この瞬間が、それを証明している。


ーー私を受け入れて...


なんだか、眠い...瞼を閉じたせいか、直ぐにでも意識が飛びそうだ。




「パパ...ママ...」


そんな時、私の視界に映ったのは、白黒の世界。現実とは、全く関係ない、夢の世界。そんな世界で、私の視界に映ったのは、立ち尽くす一人の少女と横たわる二人の男女。


少女はその小さな背を私に向け、横たわる男女に視線を向けていた。その長い髪を揺らしながら、何を思っていたのかは分からないが、少女は徐にその小さな口を開き、呟いた...


「汚い...」


「ねぇ、君は?」


私は手を伸ばし、少女に問いかける。


少女は振り向き、幼く、冷たい視線を送ってきた。


この目、見覚えがある。恐らく、この少女とはどこかで会った事がある。


でも、思い出せない。


思い出そうとすると頭が痛くなる。


吐き気がする。


そんな私を嘲笑うかのように、少女はゆっくりと口角を上げ、私の手に触れる。


そして、少女は名乗る。


不敵な笑みを浮かべたまま、


邪な情調を放ちながら、


オルタンシア...と、

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