第二話 穀雨:菊咲翡翠

「何で君は、そんなに美しいんだ。」


重く、甘さの乗った言葉が、一人の少年の、小さな口から呟かれた。


あまりにも恋々こいこいしい言葉を放つ少年は、今日も、教室の隅で空を眺めていた。


「はぁ~」


空を泳ぐ天雲あまぐもが、全て君に見える。


君の瞳の色をした蒼天そらを眺めて、胸を痛めるのは、罪なのだろうか。


「ねぇ翡翠ひすいくん!今日、彩萌あやめの家で勉強会開くんだけど、来ない?」


君は今日も僕に語りかける。


日本人形より夢幻的むげんてきな黒髪が空を泳ぎ、教室が君の桃の香りに包まれる。そして、僕はそんな恵風けいふうを放つ君の蒼の瞳を見つめる。


「ごめん紫陽花しおかさん。今日はちょっと用事が...」


用事なんてない。


ただ、君といると苦しい。


胸が締まって、視界が覚束無おぼつかなくなる。


「そうかぁ...じゃぁ、なた今度ね!!」


幼さを残す君の声は、教室内の恵風を静かに揺らす。


「はぁ~」


背を向ける彼女を視界に、再びため息が漏れる。


今日も、言えなかった。


去年の文化祭に置いてきた一言を。


口元に残る、たった一言を。



***



「愛してる。」


幻想的なまでに華美かびな声はイヤホンを越え、僕の耳を刺激する。


紫陽花しおかさん...」


放課後。僕一人を残した教室で、僕はスマホ片手に、彼女の名を呟く。


最近ハマった恋愛ドラマ。スマホの画面に映るそのクライマックスを見つめながら、僕は軽くため息をつく。


こんな主人公みたいに、素直になれたらどれだけ幸せだろう。


紫陽花しおかさんの前だけでいい。一瞬でもいい。


刹那せつなの素直さを持って、彼女の主人公ヒーローになりたい。


「おぉ菊咲きくさき、まだいたのか。部活の生徒ももう帰ってるぞ、菊咲も早く帰りなさい。」


ガラガラと、無駄に大きな音をたてるドアと共に、老いた教師の声が届く。


「すみません...」


スマホの電源を落とし、ズボンのポケットに落とす。


「失礼します。」


徐に立ち上がった僕は、イヤホンをつけたまま、教室を後にする。


「気を付けて帰れよ。」


不安げな視線で見送る先生を無視し、僕は1階の下駄箱へと足を進めた。



僕はあの先生を少し、尊敬している。

僕の大好きな物理を極め、黒板の前でその美を披露する先生は、男の僕に『カッコイイ』と言う表現を覚えさせた天才だ。

それなのに、僕は先生と碌に言葉を交える事もできない。


イヤホンを外すという簡単な動作さえも、


目線を合わせるという易易いいたる礼儀さえも、


僕には出来ない。


そんな自己嫌悪に浸りながら、僕は校舎を後にする。


そんな僕の視界に映ったのは曙色あけぼのいろの空。僕の大嫌いな色に染まってしまった空。


何か欠けている、


赤にも、黄色にもなれなかった、僕みたいな色。


どうすればいいのか分からない、誰にも近づけない、素直になれない。

そんな僕を、表しているように思えた。


だから嫌いだ。


そんな、琥珀色こはくいろが。



***



交通量の多いとある交差点。


僕は人混みに身を任せながら、近くの図書館へと向かっていた。


家に帰っても特にやりたい事がないので、適当に時間を潰すつもりだ。


「この春なのです!!あのお方はこの春!降臨なさると仰っていたのです!!」


辺りの喧騒を押し潰す、一人の少女の声が轟いた。


僕は人の波に逆い、声の根源へと足を運ぶ。


「13年前の真実を握るあの方が!この春!!」


そこにいたのは、幼き少女。その声を響かせながら、ビラを配っていた。


幼さを感じさせる顔付きに、彼女を印象付ける茜色のツインテールに赤黒の洋風ドレス。


僕は素直に、彼女を『綺麗』だと思った。


「一つくれる?」


気付けば僕は、彼女の前に立っていた。


こんな僕、あり得ない。


人と接する事を拒絶する僕が、交差点で、始めて会った少女に、話しかけている...


いつもの僕ならあり得なかった。例え少女が綺麗だったとしても、話しかけるなんて、絶対にしない。


でも、僕は近づいた。


言葉を送った。


自分でも良く分からない...ただ、少女の茜色の瞳が、僕を呼んでいた気がした。


僕はそれに、答えただけ...


「お暇な時にでも遊びに来てくださいまし。」


受け取ったのは少女の笑顔と、一枚の紙切れ。


そんな少女に謝意しゃいを示すように、僕の口角は自然と上がり、左手も、いつの間にか少女の頭の上に乗っていた。



***



時刻は7時半。閑静かんせいな雰囲気を放つ図書館にて。僕はイヤホンで耳を塞ぎ、少女から受け取っていた一枚の紙切れを眺めていた。


紙切れは赤を主体とし、黒のインクで書かれていた為、非常に読みずらかったが、それ以上に、不気味だった。


あの『綺麗』だと思えた少女の印象がひっくり返るくらい、この紙切れは恐ろしかった。

正確には、紙の中央に描かれていた少女が。


少女は背を向けていたため、表情は見えなかったが、その長い黒髪は邪気のような物を放っていた。


「あの子は、何者だったんだ...」


僕をきつけたあの少女は、誰だったのか。この紙はいったい何なのか...そんな疑問が脳内を飛び交う中、僕は徐に、窓の外へ目を向けた。


「もう、こんな時間か...」


僕の視界に映ったのは、黒に染まった空。


そろそろ帰らねば、流石に家族も心配するだろう。


ゆっくりと立ち上がった僕は、イヤホンを外し、少女から受け取った紙をカバンに入れた。



***



帰り道、とある大通り。


じゃれ合う恋人に、談笑する親子が支配するこの大通りで、僕は彼らの波に乗り、家へと足を進めていた。


すると突然、人の波に乗る全ての人間を硬直させる、凄まじい衝突音が大通りに響き渡った。同時に、あちこちから悲鳴も聞こえてくる。


僕はそんなざわつきに引き寄せられ、気づいたら、目の前に彼女がいた。


「近づくな察共!!」


恫喝どうかつを上げる男と、そんな男にナイフを突きつけられる少女。


紫陽花しおかさん!!」


何年ぶりだろうか...声を荒げたのは...


人と言葉を交える機会なんてなかったし、気力もなかった。そんな僕が、大声を上げたのなんて...下手したら始めてかもしれない。


翡翠ひすい...くん...」


彼女の声は、酷く震えていた。


声だけじゃない。唇、そして手足。体全体が震えていた。


そんな彼女を見て、僕は、じっとしていられなかった。


僕と彼女の間には警察、そしてナイフを持った男。どう考えても理系の僕に対処できる問題じゃない。なのに、僕の足は動いた。


冷静に考えなくても分かる事だ。変に僕が出しゃばれば、ナイフを持った男を刺激してしまうかもしれない。ここはプロである、目の前の警察の人に任せた方が賢明けんめいだ。


でも、僕は我儘わがままだった。


そんな僕は、警察の包囲網を後ろから掻い潜り、ナイフを握る男と、苦しむ紫陽花しおかさんの前に立つ。


「近寄るなクソガキ!!この女が...!どうなってもいいのか!!」


震える男のナイフと、朱殷しゅあんに染まる彼女の首元。


「待ってて紫陽花しおかさん!僕が...!僕が!!」


僕は焦りを見せてしまった。傷つく彼女の肌を目の当たりにして、怒りを覚えてしまったのかもしれない。


僕は目の前の状況だけに意識を集中させ、再び一歩を踏み出す。


「まて、少年。」


そんな僕に、幼げで、覇気のない、男の子の声が届いた。


振り返ると、そこには真っ黒なスーツに身を包んだ少年の姿があった。


僕よりも小柄で、左目は病的なまでに白く、右目は大自然を連想させるような緑の輝きを放っていた。


そんなオッドアイだった少年は徐に僕の肩に触れる。


そんな少年の行動に、僕は少しだけ苛立ちを覚えた。


理由は、僕が冷静じゃなかったからだ。


一刻も早く、彼女に駆け寄りたい。一刻も早く、ナイフを握るあの男から、彼女を守りたい。そんな思いが一つの怒りの感情に変化したんだと思う。


「何ですか!僕は彼女を一刻も早く...!」


僕は人生二度目の大声をあげてしまった。しかも幼い少年に...


しかし、少年は僕の叫びを気にも留めず、拳を強く握り締め、回転を加えながら、その拳を僕の腹部にめり込ませた。


「っっぁ...!!」


思わず漏れてしまう、声なき悲鳴。


「翡翠くん...!」


震える紫陽花しおかさんの声が...聞こえた気がしたが、あまりよく聞こえない。


そんな中、元凶である少年は、薄っすらと口角を上げ、ほのかな笑みを露出させる。そして、僕の耳元で囁いた...


「今、面白いところなんだから、じっとしててよ...」


何を言っていたのか、一瞬理解できなかった。


いま、この瞬間も、彼女が苦しんでいるというのに...


「ちょっと警部!その子一般人でしょ、やり過ぎどころの話じゃありませんよ!」


地面に膝をつけた僕を見て、一人の男性が近寄ってきた。男性は少年と同じようなスーツで身を包み、腰につけていた拳銃を取り出していた。


「すまない、悪い癖だ。」


「俺じゃなくて、この子謝ってくださいよ!問題になったら警部の首なんてスッポーンですよ!息子さんだっているんですし、仕事無くなるの嫌でしょ。」


「そうか。すまないな、少年。これからは気をつけよう。」


この人達は、今何が起こっているのか、分かっていないのか?


紫陽花しおかさんが、今、首を赤く染めて..


「お前ら!!この女がどうなってもいいのか!!!」


それは僕が聞きたい。


僕は立ち上がる、彼女を助けるため、警察だかなんだか分からない人達に、彼女を任せてなんていられない。


「おっと、動かないでねぇ。」


そんな僕の唯一の思いは、届かなかった。


黒服の少年によって、誰だかも分からない、今さっき会った少年の手によって、僕の思いは踏みにじられた。


「なるほどねー」


少年は地面を這いつくばる僕の上に乗り、吞気な言葉を漏らす。


すると、少年は突然重いため息をつき、徐に立ち上がった。


達髯たつひげ青伊あおいだな。お前の組織もう滅んでるんだけど...さっさとその子、解放してやってくれ。」


少年は腰の拳銃に手をかざす。


「うるせぇ...」


男はそれに続くように、ポツリと、言葉を漏らす。


「はぁ...仕方ない...」


頭を抱える少年。


なんの躊躇ためらいも無く、ナイフを握り締める男に近づく。


「うるせぇぇぇぇ!!!!」


その瞬間、男は大声を上げ、ナイフを振りかぶった。


「ちっ...」


少年は走り出す。


しかし、ナイフを振り下ろす男のスピードの方が、圧倒的に早い。


でも、僕は必死に立ち上がる。


そんな僕を止めようとするスーツの男性が視界に入る。でも、僕は気にしない。気にしてられない。そんな時、僕に残されていない。


「っ...ぁ..」


鮮紅色せんこうしょくの液体と共に漏れ出る彼女の悲鳴。


紫陽花しおかさん!!」


湿りだす瞳。


漏れ出る涙。


「あああぁぁぁああぁぁぁああ!!!!」


何も聞こえない。


何も見えない。


ただ、僕の頭の中に、あの瞬間が、彼女の最後の悲鳴が、繰り返し映される。


「19時54分.....確保...」


「救急車だ!急げ...!!」


「少年、大丈夫か!しっかり..しろ...!!」


好きだったよ、紫陽花...


あの日の言葉が、過去形になった瞬間であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る