悪魔宿る蒼のオルタンシア

月代 初

第一話 穀雨:悪魔宿る

あれは、5年前の夏。鳴り止まないセミの騒音そうおんや、どこからともなく流れ出る汗に苛立ちを覚えながら、友達と下校していた時の事だ。交通量の多いとある交差点で、甲高く不快なブザーが轟き、私も含めた通行人は皆その喧騒けんそうの根源へと目を向ける。

凄まじい衝突音と共に私の視界に入ったのは、一台のトラックとバイク。交差点の中央で交わるトン単位は思ったよりももろく、簡単に砕け散った。ただ、そんな鉄塊てっかいよりも遥かにはかなく、華奢きゃしゃな『物』が目に留まった。それは一人の女性。宙を舞い、空高く飛び立とうとするその姿は劇的で、女神や天使に見えた。

しかし、そんな天使は直ぐに翼を失い、地へと落ちていった。クリムゾンの液体が飛び散り、柔らかそうな何かも、それと同時に散乱する。

人々の当惑とうわくの声が混じり合う中、私は一人、その女性の魅力に惹かれていた。


「あっ、死んだ。」


私はそれを感覚的に..いや、本能的にその事実を知ることができた。

でも、涙は溢れて来なかった、足はすくまなかった。


覚えたのは、高揚感こうようかん


はかく散った女性、そして、クリムゾンに染まったコンクリートは、私にそんな快楽を与えてくれた。


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「ねぇ紫陽花しおかさ~ん聞いてますか~?ねぇ、しお!」


聞きなれた友人の声が私を呼んだのは、ある日の昼の事だった。

教室の、前から3列目に位置する窓側の席。その机を挟んで、私と友人の白波瀬しらはせ彩萌あやめは昼食をとっていた。


未だ冷たい春の風が吹き荒れながらも、力強く輝く太陽は、私達生徒を包み込み、『春』の名に恥じぬ温もりを与えてくれていた。


「ごめん..あや、聞いてなかった。お昼寝日和だなぁって思って。」


私は彼女に答えようと、口にしていた卵焼きを飲み込み、ほのかな笑みを浮かべながら睡魔と戦っていた事を告白した。


すると彩萌あやめは頬を膨らませ、左手に持っていたはしを自分の唐揚げへと突き刺した。彼女は少し可愛らしい怒りの表情を浮かべながら、無言でその唐揚げを頬張り、ゴクリとかなり大きな音を立てた後、私にその純粋無垢じゅんすいむくな瞳を向けてきた。


「もう!しおったら!人の話はちゃんと聞こうよ!」


彩萌あやめの口から反論の声が漏れると同時に、少し開いていた窓から春風しゅんぷうが届いた。甘い春の風は彼女のハーフアップに整えられた髪を揺らす。


彩萌あやめのラベンダーの香りを運び、恵風けいふうと化した微風びふうは、私を含む教室内にいた生徒全員の嗅覚を刺激させた。そんな恵風は私の睡魔をより一層強力な物へと急変させたが、私は自身の両頬をペチンと叩き、活を入れた。


「ごめんて。それで、シャンプー変えた?」


私の行動に若干戸惑いを見せた彩萌あやめであったが、何かに気づいたかのように急に目を逸らし、頬を赤らめた。これが少女漫画などでしかお目にかかれない伝家の宝刀『照れ』と言うやつなのだろうか。それは時に女性をキュン死に追いやり、男性を獣に変えると言う禁忌きんきの魔術。

私は伝説の立会人になれた喜びを嚙み締めながら只々じっと彼女を凝視ぎょうしし続けた。


「だから話聞こうって..まぁ変えたけど...」


彼女とは中学からの付き合いだが、こんな愛らしい姿を見たのは何日ぶりだろうか。

私は自分の卵焼きをはしで持ち上げ、彼女の口元へと運んだ。すると彼女はチラリとこちらを確認し、無言のまま卵焼きにかぶりついた。


あぁかわいい...この子の親や未来の彼氏はどれだけ幸せだろうか。

私は、彼女と永遠の愛をはぐくむ程の関係になれる人物に、強い嫉妬心しっとしんを抱きながら、彼女と居られる今を、5感全てを活用し、脳内に刻み込んだ。


「それで何だっけ?話って。」


よく考えてみれば彼女は必死に何かを伝えようとしている最中だった。現状考えられる話題と言ったら男子の事だろうか。最近はそんな話しかしていない。

男子の事と言っても、誰に恋してる...とか、そう言う話ではない。単純にどんな相手に告白され、どう断ったか、ラブレター貰ったので、どう断ればいいか、等の女子高生が交えるような話題と言うより、相談に近い物だった。


高校2年に上がって一ヶ月の時が過ぎ、少し落ち着いた男子どもがこっちの気も知らずに、当たって砕けろのつもりで告白してきているのだ...本当にいい迷惑だ。


昨日も彩萌あやめと遊びに行くつもりだったのに、急に校舎裏に呼び出され、知らない男子に告白されたばっかりだ。『一目惚れしました』と皆が口をそろえて言うが、私のどこにそんな要素があるのだろうか...彩萌が持ち合わせてる様な人目をく栗色の髪は勿論、ついつい愛でたくなってっしまう咄嗟とっさの表情や振る舞い。それに比べて私の手持ちと言ったら長い黒髪くらいであろうか。それでも彼女の愛らしさには遠く及ばないだろう。


「明日来る転校生の事だよ。学年変わって一ヶ月くらいしか経ってないじゃん?変な時期に入るんだなぁって思って。」


私の考察もむなしく、キョトンとした表情の彼女から発せられた言葉は恋愛とは全く関係のない話だった。


それにしても、この時期に転校生とは珍しい。高校2年ともなれば勉強に力を入れ始めなければならないだろう、そんな時に転校すると言う事は、前の学校で何かあったか...それとも親の都合か?


「転校生ってどんな子?女の子だったりする?」


「男の子だった気がするけど、どうして?」


彼女の口から『男の子』と言う単語が発せられた瞬間、私は物凄い脱力感だつりょくかんと共に果てしない憂鬱感ゆううつかんに襲われた。別に男子恐怖症と言う訳ではないのだが、個人的に女の子の方が未来を感じると言うか...女子の方が見ていて飽きない。


その理由は定かではないが、同性だからなどという平たい理由では断じてない。私が男の子として生まれたとしても、女の子の事は『こういう目』で見ていただろう。


「まぁ翡翠ひすいくんみたいな人だったら良いんだけど...」


菊咲きくさき翡翠ひすいくん。私が唯一心を許してる男の子だ。彼を気に入った理由は簡単。私を震わせる、女の子に近い何かを持ち合わせてるからだ。彼の女の子のような可愛らしい容姿もだが、女の子に似たはかなさを彼は秘めていると私は感じている。


翡翠ひすいくんねぇ...確かに可愛い顔してるけど、しお以外とは余り話さないから、よくわかんないんだよね。」


ため息混じりに彼女から漏れた言葉には、少しだけさみしさが乗っていた。


彼女の言う通り、翡翠くんは学校内で私以外と言葉を交えた事が恐らくない。彼とは学校でしか一緒にいないので、外での彼を私は知らないが、翡翠くんは周りの女子が彼と話したがってる事を知っているのだろうか?


彼の容姿だけではなく、女子が憧れるようなサラサラな黒髪を男らしくショートにし、一際目立つ琥珀色こはくいろの瞳を持ち合わせた彼は、女子から見たら正に優良物件ゆうりょうぶっけん

こんな子と同じクラスに慣れた幸運を、女子が捨てるはずなんてない。


「いい子だよ。結構カッコイイ所もあるし。」


去年の学園祭の時、私は色々と彼に助けて貰ったのだ。私の彼に対する印象が『かわいい』から『カッコイイ』に変化したのもその日からだ。


机の上に並べていた弁当をゆっくりと済ませ、二人で雑談を楽しんでいると、聞きなれた学園の鐘が校舎内に響き渡った。


「先生来たみたい。それじゃまた放課後ね。」


彩萌はカラカラと音を立てる教室の扉に目を向け、手前の席へと戻っていった。私はそんな彼女の言葉に「うん。」と素っ気なく答えてしまったが、内心彼女と過ごせる放課後に喜悦を感じていた事は言うまでもないだろう。



***



冷たい風と共に現れた静かな春雨はるさめが肌を触れる中、私は一人、校門前で友人を待っていた。


「ごめん、しお!!待った?」


背後から聞こえてくる『少女』の焦りと謝意しゃいの声は聞いてて飽きるものではなかった。その『少女』またの名を白波瀬しらはせ彩萌あやめは私のすぐ後ろで膝に手をつき、息を切らしていた。私はそんな彼女の頬に優しく触れ、耳元でそっとささやいた...


「今来たところ。」


「何それ?」


『付き合ってる風の雰囲気を出せば彼女との距離も縮まるんじゃね?大作戦』を決行した私であったが、彩萌のクスクスと漏れる笑い声と、何気ない彼女の笑顔が私に白旗を上げさせた。


そんな中、春の登下校に刺激を与えてくれていた春雨も段々とその姿を消していき、一抹の曇を残した大空は水平弧すいへいこを映していた。


***


下校中のとある交差点。その端のある店の前で、一人の幼き少女が私の目に留まった。少女は赤と黒を基調きちょうとし、フワッと膨らんだスカートと、腰に巻かれた朱殷しゅあんのリボンが印象的な洋風ドレスを身にまとい、1枚の紙を配っていた。


「この春なのです!!あのお方はこの春!降臨なさると仰っていたのです!!」


少女は日本人離れした茜色あかねいろの髪をツインテールにまとめ、同じく茜色の瞳を輝かせながら何か宗教的な事を叫んでいた。


私はそんな少女を、『綺麗』だと思った。


でも、人間達はそう思わなかったらしい。


街行く人々の軽侮けいぶの視線。辺りを支配する笑い声。それはとてもみにくい物だった。唯一の救いは彼女の容姿だろうか。彼女の髪のように日本人離れした真っ白な肌に、幼女特有のふっくらとした頬。それとは対照的な大人びた長いまつ毛が彼女を印象付け、唇も紅色に染めていた。もし、彼女がそれらを持ち合わせていなかったら、視線や笑い声だけでは済まなかったかもしれない。


『人間』は醜い。社会は絶対、それに従う己も絶対だと考えるその思考は間違っているとは言わないが、私視点で言わせてもらえば、軽視けいし出来る問題ではなかった。もし『彼ら』が皆、自身の信念のみを突き進むような動物なら問題ないだろうが、今回のようにその信念とやらを他人に押しつけようとする。そして他人がイレギュラーな存在だと認識すれば、このありさま。

そして自身もそんな『人間』の中の一匹だ。哀れな少女を見かけても手を差し伸べない加害者だ。


そんな現実から目を背け、青に変わった信号機に反応を示そうとしてたその時、私は途轍もない喪失感そうしつかんに襲われた。振り返るとそこにはいるはずの、もう一匹の人間がいなかった。数秒前まで一緒に雑談を楽しんでいた人間が、すっぽりと消えていた。


「一つくれる?」


溢れる人混みの中、私に一人の声が届いた。その声は遠く、私に向けて発せられた物ではなかった。ただ、不思議とその声は私を呼び止めてるような気がした。


私は咄嗟とっさに振り返り、『人間』に囲まれていた幼き少女へと目を向けた。しかし、そこにいたのは『人間』ではなく、一人の少女、白波瀬しらはせ彩萌あやめの手に触れる幼き少女の姿であった。


「お暇な時にでも遊びに来てくださいまし!」


一枚の紙切れを受け取った白波瀬彩萌は私が見てきた『人間』とはかけ離れた物だった。俗世ぞくせにまみれない一人の純粋な『少女』は、一枚の紙切れを家宝のように持ち運び、『人間』でしかない私に語りかけてくれた。


「ごめん、急にいなくなったりして!なに配ってるのか気になっちゃって。」


『少女』は語る。いつの間にか赤に変わっていた信号機が青に戻るまでの間、ほんの一瞬言葉を交えた相手の愛らしさを、指の先が触れ合った相手の儚さを。


ただ、この時の彼女は知らなかった。幼き少女の仮面の下と、一枚の紙切れが及ぼす影響を。




「それで、なに配ってたの?」


私は再び人混みの中に身を宿した彩萌の手の中にある一枚の紙切れへと目を向ける。一瞥いちべつしたところ、その紙は少女のドレスに似た暗い赤を主体とし、大きな文字で『悪魔』と書かれていた。


「良く分からないけど、なんかの宗教みたい。悪魔...とか書いてあった気がするけど。」


私の予想通り、それは宗教の勧誘か何かだったようだ。『悪魔』と書かれていたとすると、それは悪魔祓いの何かを崇拝する宗教なのだろうか。


「それじゃぁ私は一旦家に帰るから、そっち行く時メールする。」


「うん分かった。それじゃ後でね。」


交差点を渡りきると、私と彩萌は軽く言葉を交わし、反対方向へと歩いて行った。


今日は彩萌の家で勉強会を開く日だ。勉強会とは名ばかりで、二人きりで行うため、雑談会に変わってしまうのがほとんどだが...

そんな雑談会防止の為にも、翡翠ひすいくんを誘ってみたが、見事に断られてしまった。なので、いつもの勉強会メンバー、つまり私と彩萌だけで行う事になったのだ。


いつもなら一緒に彩萌の家に行くのだが、今日は家に忘れ物をしてしまった。急いで帰ってから一人で彩萌の家に行くことになっている。


***


交差点から歩いて10分。私はそんな場所の、とある一軒家の前に立っていた。玄関先には『夢咲ゆめさき』の文字が書かれた古い板。平成を感じさせるサイディングに包まれながらも、和の雰囲気を放つその一軒家は、私の『青春』の休息地。その手前で私は、バッグから金属音を響かせる一束の鍵を持ち出し、玄関前まで足を運んだ。


「おばあちゃんただいまー。」


「あら紫陽花しおか、お帰りなさい。今日はお友達の家で勉強会じゃなかったの?」


玄関を開け、一番最初に視界に入ってきたのは、リビングでお湯を沸かす私のおばあちゃん。物心付いた時からおばあちゃんと二人暮らしをしている私にとっては、もうすっかり見慣れた光景である。


思いっ切り出迎えてくれるおばあちゃんの笑顔は、私に温もりを与えてくれるが、これが親の温もりと言う物なのかは覚えていない。

私も死神の気まぐれにあったら、また味わうことができるかもしれない。そう考えた幼少期もあった。でも、私は幸せだった。おばあちゃんが与えてくれた温かさは、私の穴を埋めるのには十分過ぎる物だったからだ。


「忘れ物しただけ。部屋戻ったらまたすぐ出かけてるよ。」


おばあちゃんが小さく頷くのを確認すると、私は玄関近くの階段を上っていった。階段を上がってすぐ視界に入る一室のドア。樹の色を残した味のあるドアは、鉄のドアノブを除けば色に欠ける。今時の女子高生からしてみれば、かなりつまらない物だった。私はそのドアを開き、急ぎ足で中に入っていく。


スタンダードな机に白一色のベッド、木製の本棚。女子と言うよりは片付いてる男子の部屋だ。

そんな部屋で私は、机の引き出しに手を伸ばしていた。


「あった!」


取り出したのは一冊のノート。私の忘れ物だ。中身の確認を済ませると直ぐにバッグにノートを入れ、その部屋を後にした。




「それじゃぁ行ってくるね。」


夢咲家一階にて。玄関の段差に腰掛け、靴を履いていた私はおばあちゃんに一声かける事にした。


「はい!いってらっしゃい。」


「あ!それとおばあちゃん。」


ふと、ある言葉が脳裏のうりをよぎった。靴を履き終えた私はゆっくりと立ち上がり、キョトンとした表情のおばあちゃんにとびっきりの笑顔を見せ、たった一言...彼女に送った。


「ありがとう!」



***



時刻は7時半。桃色の壁にベッド、そこに幾つもの愛くるしいぬいぐるみが飾られており、持ち主の女子力を表していた。そんな部屋で、私と彩萌は小さなちゃぶ台を挟み、予想通り雑談会と化した勉強会を楽しんでいた。


「そう言えばさぁ、あの紙結局何だったの?」


私が言っている紙とは、交差点で少女が配っていたビラの事である。一瞥いちべつした時の印象しか無いので、結局あれが何の宗教だったのかも分からないのだ。


「あぁ、あれね。そう言えば結構凄いものだったよ。」


「凄いもの?」


私は彼女の言っている事が一瞬、理解できなかった。私は勿論、彩萌も宗教にそこまで関心を持たない人物だ。そんな彼女が宗教の価値観と言う物を理解できるのだろうか。


そんな私の浅はかな考えを吹き飛ばすように、薄っすらと口角を上げた彩萌は、徐に机の上にあった一枚の紙を手に取った。


「じゃじゃーん!!悪魔崇拝!あのお方はこの春降臨なさるのです!!」


ちゃぶ台の上に置かれた紙は最初の印象通り赤を主体とし、黒のインクで書かれていた為、非常に読みずらかった。


「これは...凄いね...」


悪魔崇拝。またの名をサタニズム、ディアボリズムは、悪魔を崇拝する宗教ではない。一般的な悪魔崇拝者は他の宗教の様に絶対的な存在を崇めず、自身の発展や解決を重視する者達なのだ。しかし、ちゃぶ台の上に乗っていた一枚の紙には『悪魔』を絶対視ぜったいしするような文が書かれていた。


鳥肌がたった。


何故かは自分でも分からない。ただ、そこに嫌な物を感じた。他の宗教のビラと変わらない胡散臭うさんくささを放つ紙であったが、悪寒を感じた。正確には中央に描かれてた少女に。


少女は背を向けていたため、表情は見えなかったが、その長い黒髪は邪気のような物を放っていた。


「13年前の真実はあのお方が握るのです!だってさ、どう思う?」


彩萌は首を傾げながら、その瞳を私に向けてきた。

『どう思う?』と言われても正直困る。13年前に悪魔的な何か起こったのだろうか。


「13年前に何が起こったんだろう?って思った。」


「13年前と言ったらあの事件だよね。私もまだ小さかったから、よくは知らないけど...」


コンコンと、彩萌の話を遮る様に軽くドアがノックされた。彩萌はそれに続き「はーい」と、返事を返す。そんな彩萌の返事に答える様に、ゆっくりとドアが開けられ、彩萌に似た雰囲気を放つ一人の女性が姿を現しした。


紫陽花しおかちゃん、もうこんな時間だけど、良かったら家でご飯食べていかない?」


その女性の声は優しく、安らぎのある物だった。可愛らしいキャラクター付きのエプロンを身に付けたまま部屋に入った女性には微かなカレーの匂いが付着しており、お昼から何も口にしてなかった私のお腹を発情させるには十分な要素だった。


「本当だ、もうこんな時間!しお、家で食べてきなよ!」


「申し出は嬉しいですが、家でおばあちゃんが待っていますので。」


私は自分のお腹を抑え込み、破裂寸前の空腹感をおばあちゃんと一緒に治療する事にした。


「行っちゃうの?」


彩萌は寂しそうな顔をこちらに向けてきたが、私もいつまでもお世話になっている訳にはいかない。ゆっくりと立ち上がった私は「うん。」とだけ答え、白波瀬家しらはせけの玄関へと足を運んだ。


「気をつけて帰ってねぇ。」


「じゃぁまた明日学校で!」


玄関のドアノブに手をかけた私は、そんな白波瀬家総出の見送りに戸惑いながら、「また明日。」とだけ言い残し、彩萌の家を後にした。


***


帰り道、とある大通りにて。私は必死にお腹の虫を抑えながら、賑わいを見せる道を進んでいた。


そこで、私はおばあちゃんに残した一言を思い出す。家をでる直前に放った一言。何故あんな事を言ったのだろうか?冷静に考えてみたら、少し恥ずかしい...


頬を赤らめながら視線を降ろし、道を進んでいると、大通りに鳴り響くサイレンが私の耳に届いた。


そのサイレンの音は次第に大きくなってゆき、比例して辺りの感興かんきょうの声も強まってゆく。


その瞬間、道を行く皆の目に入ったのは、大通りの波に逆い、不相応な速度で駆けぬける黒の一般車。そんな車体は右折すると同時に悲鳴を上げ、車体を大きく揺らした。


そんな車の後ろから姿を現したのは赤と青の輝きを放つ白黒の自動車。自動車は乱雑に駆け抜ける黒の車体の後ろに体当たりし、車体の動きを更に狂わせた。


無秩序に暴れ回る車体に憂虞ゆうぐの声を上げる人々。いつどこにぶつかるか分からない...私だって、ここにいたら危険だ。


でも、私の足は動こうとしなかった。


恐怖で足がすくんだから?


分からない。


そんな私を嘲笑あざわらうかのように、黒の車は急加速し、その車体を目の前の電柱に強打させた。無数の鉄魂てっかいが分散し、私の横目を掠る。鮮紅色せんこうしょくの液体が頬を濡らし、害意を運んだ熱風が私の髪を揺らす。


「クソ!察の奴ら!!何でこんなにしつけーんだよ!!!」


悪態を漏らすは一人の男性。


半壊した車の窓ガラスが瓦解がかいし、バヨネットを握る男性が姿を現す。


「観念しろ!お前の組織は既に壊滅している!!」


サイレンの音を消し、後方で急停止する数々の白黒の自動車。その中から大声を上げ、銃を構える幾つもの警官が姿を現し、男性を囲うようにして散らばっていった。


「そこの女!動くんじゅねぇーぞ...!」


男性は銃口を向ける警官や、半壊した自分の車を気にする様子もなく...ただ、私を凝視し、手にしていたた銃剣を向けてきた。


私はそんな男性の姿を目の当たりにして、後ずさりをしてしまったが、逃げようとは思わなかった。


いや、思えなかった。


逃げてはいけないと感じた。


目の前の人物があわれに見えた。


静かに頬を濡らす男性を、はかなく思った。



そんな私の心境を見通したのか、男性は銃剣を構えたまま、一気に近づいた。私はどうにかして抵抗しようと、手にしていたバッグを前に出すが、そんな物が効果的であるはずがなく、あっけなく後ろの回り込まれ、首元にバヨネットを突き付けらてしまった。


「近づくな察共!!」


そんな男性の声に答える様に、私の体はびくりと震えた。私の鼓動はどんどん加速してゆき、瞳も徐々に潤っていく。


紫陽花しおかさん!!」


一人の男の子の声が届く。

感情に任せたその叫び声は、酷く震えていたが、同時に力強いものでもあった。


「翡翠...くん...」


征服のまま警察の包囲網ほういもうを後ろからかいくぐり、力なくした声を放つ私を、その覚束無おぼつかな琥珀色こはくいろの瞳で見詰める少年。


そこにいたのは菊咲きくさき翡翠ひすいくん。


「近寄るなクソガキ!!この女が...!どうなってもいいのか!!」


男の重ねる恫喝どうかつに比例し、銃剣の震えが加速する。


冷たく、悲哀ひあいを訴える刃が首筋に触れ、私の首元を朱殷しゅあんに染めた。


「待ってて紫陽花しおかさん!僕が...!僕が!!」


翡翠くんは額に汗を浮かべ、硬直寸前の足を無理やり前に出した。


男はそんな厳然げんぜんとした表情を晒す翡翠くんに一瞬、たじろぎを見せたが、直ぐにバヨネットを握る手に更なる力を加え、狂気に満ちた瞳で翡翠くんに対抗した。


「まて、少年。」


全身を震わせながら一歩を踏み出した翡翠くんに、枯れ果てた、覇気のない一人の男の声が届く。


そんな声の源へと目を向けると、そこには真っ黒なスーツに身を包んだ少年の姿があった。


少年は女子並の身長を誇る翡翠くんよりも小柄で、左目は病的なまでに白く、右目は大自然を連想させるような緑の輝きを放っていた。


そんなオッドアイだった少年は徐に翡翠くんの肩に触れる。


「何ですか!僕は彼女を一刻も早く...!」


少年に怒鳴り散らす翡翠くん。しかし、そんな彼が最後まで文を終わらせる前に、少年は拳を強く握り締め、回転を加えながら、その拳を翡翠くんの腹部にめり込ませた。


「っっぁ...!!」


「翡翠くん!!!」


私の悲鳴と共に数滴の涙がこぼれ落ちる。


そんな私を嘲笑うかのように、少年は倒れる翡翠くんの肩をもち、うっすらと口角を上げた。


そして、彼は呟いた。


ーー面白い...


「ちょっと警部!その子一般人でしょ、やり過ぎどころの話じゃありませんよ!」


焦りを見せた表情で現れたのは、大柄な男性。


少年と同じようなスーツで身を包み、彼に小走りで近づいた男性は腰の拳銃に触れ、こちらを睨みつける。


「すまない、悪い癖だ。」


「俺じゃなくて、この子謝ってくださいよ!問題になったら警部の首なんてスッポーンですよ!息子さんだっているんですし、仕事無くなるの嫌でしょ。」


「そうか。すまないな、少年。これからは気をつけよう。」


大柄な男性と少年の間で繰り広げられた会話は、現状を把握出来ているのか疑わしい程、『賑やか』なものだった。


「お前ら!!この女がどうなってもいいのか!!!」


それは私が聞きたい。


見るからに大柄な男性は警察の人だ。なのに、少年と談笑だんしょうしている...


私は泣きじゃくりたくなった。


叫びたくなった。


でも、私の声帯はそれを許さなかった。


正確には、私の貧弱さが、それを許さなかった。


「なるほどねー」


吞気のんきな言葉を漏らす少年。


本当に子どもって自由でいい。


私も、子供なら...


私の幼少期...


あれ?


私、小さい頃、何してたんだっけ?


記憶が...分からない。


これが記憶喪失と言うものなのだろうか?精神的ショックが原因だと聞いた事があるが、ショックって、この現状?


達髯たつひげ青伊あおいだな。お前の組織もう滅んでるんだけど...さっさとその子、解放してやってくれ。」


少年は重く、たるんだ口を開き、バヨネットを握る男の名を叫んだ。


「うるせぇ...」


男はそれに続くように、ポツリと、言葉を漏らす。


「はぁ...仕方ない...」


頭を抱える少年。


なんの躊躇ためらいも無く、銃剣を握り締める男に近づく。


「うるせぇぇぇぇ!!!!」


その瞬間、男は大声を上げ、バヨネットを振りかぶった。


「ちっ...」


少年は走り出す。


一気に表情を変え、その小さな体で狂気に満ちた男性との距離を詰める。


しかし、そんな険しい表情を見せていた少年は、一瞬にして消え去ってしまった。


物理的にではなく、ただ、その表情が間抜けなものに変貌へんぼうしてしまったのだ。


それと同時に、何か冷たいものを感じた。


その冷たさは、私の腹部を中心に、段々と体全体に広がっていく。


それに、眠気が...こんな状況で...


紫陽花しおかさん!!」


これは...翡翠くんの声だ。


何と無く分かる。


私の名を呼んでくれる男の人なんて...翡翠くんくらい...



ーーあ~あ、情けない。


女の子?


酷い眠気に襲われている私に...


聴覚もろくに働いていないのに、ハッキリとした、女の子の声が届いた。


ーー蒼の紫陽花オルタンシアが、聞いて呆れる...


でも、眠気は止まらない。


冷たさも、指先まで届いている。


ーー人前だけど、使うか...


そして、私はゆっくりと瞼を閉じた。

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