第6話 去水、事件を説明する

 「この事件に謎は全くなかった」と去水は続けた。去水の煙草の火が書斎の窓ガラスにゆっくりと明滅した。

「住込み医師の田茂坂清。この小男は先代の付添医師だったね」

「はい。若いが優秀との触れ込みで」

「宮輝氏と同年代さ。退屈な医師と退屈な夫人が一つ屋敷に住んでいたのさ」

「だが、やはり医師が主人に毒を盛る理由が分からん。宮輝がそれを知って医師を返り討ちにしたというのが今夜の事件なのだろうが…」

「いや。謎がないからといっても、単純ではないんだ。もっとも『武蔵野夫人』と『桐の花』とくれば密通、というのは陳腐すぎるがね」

「妻と住込み医師が結託したのか。そりゃ、宮輝に勝ち目はなかったろう」

「しかし、宮輝氏にも味方はいたんだ」と去水は短歌の、“雪ふるや”から“ふくれたる”までを示し、「これはね城熊君。宮輝氏の忠実なる使用人諸氏が、ご注進申し上げた内容を示していたという歌さ。そうだね手塚さん」と朗らかに尋ねた。

「敷地の中で逢引を重ねれば目や耳に入らぬはずはございません」

「それで、主人が感謝した… でもだって、北原白秋に何故そんなことが分かっていたというんだい?」と、城熊が腕を組む。去水はその様子をチラリと見て、言葉を続ける。

「それはさておき、その後妻が病死したね」

「まさか君は、それも宮輝の仕業だというのかね!」と、城熊が叫んだ。「母殺しの弟と、妻。そして娘まで…」

 去水は首を振って“ヂギタリス”の歌を指した。

「咲江夫人の死因は心臓疾患だったはずだ。ジギタリスを正常な心臓に投与し、医師が『心臓発作』とでも診断すればそれで病死さ」

「宮輝の指示ではないのか?」

「違う。これは田茂坂医師の犯行だ」と、去水は、ヂギタリスの次から“まひる野の”までの短歌を示して、

「これは夫と娘の真正の哀しみを示している。多少、中身は異なるがね。ところで、宮輝氏はコーヒー、鈴香嬢はココアを飲む。そうだね、手塚さん」

「そのとおりでございます」

「だから昨夜、宮輝氏がこの巻物を書いていた時、この部屋にはもう一人いたのさ」

“楂古聿(チョコレート)嗅ぎて君待つ雪の夜は湯沸(サモワル)の湯気も静こころなし”

 その指摘に、執事は顎をがっくりと落とし、城熊は椅子から飛び上がった。

「宮輝氏は、田茂坂医師がなぜ妻を死にいたらしめたのかを、ずっと考えていたんだ。

“黒きけもののけはひ”に“狂ほしき夜”を怯えながらね。

 ヒントはあった。理論的に考察すれば動機を支えている因果関係は見えてくる。あとはそれを受け入れられるかどうかだけで、漸く受け入れられたのが昨夜のことだったのさ。“手の指をそろへてつよくそりかへ”して田茂坂の頸動脈を切り裂き“剃刀ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる庭さき”というわけさ。震える手でよくも成し遂げたものだよ。

その後、宮輝は鈴香を書斎に呼んだ。田茂坂の死体を隠そうともせずにね。阿片の中毒による譫妄と、毎日の自問自答による焦慮で、宮輝氏の頭脳の歯車は滅茶苦茶だったのだ。

 鈴香嬢に巻紙を抑えさせて『桐の花』を写しながら、歌の意味を説明してやったのかもしれない。そして終いに、田茂坂清医師の死を告げたのさ」と、去水は“かりそめに”から “昨日君が”までの歌をなぞる。

「鈴香嬢は田茂坂医師と咲江夫人の子さ。田茂坂医師は宮輝氏も咲江夫人も無しで遺産を手にすることができる。分け前は多いほうがいいからね。

宮輝氏は『桐の花』からそのことに気付き、それを受け入れた。鈴香嬢を椅子の帯紐で絶息させ、担いで外へ…。手塚さんは十分に待ってから警察に自首の電話をしたんだ。多分、主人に殉ずるつもりだったのだろう」

 刑事が掌に載るほどの石の箱を持ってきた。去水は煙草を消して、黒曜石のつまみをそっと持ち上げた。中に入っていたのはひからびた臍の緒だった。

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