第3話 桐の花 北原白秋 拾遺
銀笛哀慕調
一 春
南風薔薇ゆすれりあるかなく斑猫飛びて死ぬる夕暮れ
ゆく水に赤き日のさし水車春の川瀬にやまずめぐるも
白き犬水に飛び入るうつくしさ鳥鳴く鳥鳴く春の川瀬に
一匙のココアのにほひなつかしく訪ふ身とは知らしたまはじ
黒曜の石の釦をつまさぐりかたらふひまも物をこそおもへ
薄暮の水路に似たる心ありやはらかき夢のひとりながるる
にほやかに女の獨唱の沈み行くここちにかなし春も暮るれば
二 夏
廃れたる園に踏み入りたんぽぽの白きを踏めば春たけにける
やはらかに髪かきわけてふりそそぐ香料のごと滲みるゆめかも
狂ほしく髪かきむしり昼ひねもすロンドンの紅をひとり凝視むる
縫針の娘たれかれおとなしくロンドンの花を踏みて帰るも
枇杷の木に黄なる枇杷の実かがやくとわれ驚きて飛びくつがへる
枇杷の実をかろくおとせば吾弟らが麦藁帽にうけてけるかな
吾弟らは鳩のよき巣をかなしむと夕かたまけてさやぎいでつも
病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出
初夏晩春
三 庭園の食卓
ああ五月蛍匍ひいでヂギタリス小さき鈴ふるたましひの泣く
やはらかに誰が喫みさしし珈琲ぞ紫の吐息ゆるくのぼれる
よき椅子に黒き猫さへ来てなげく初夏晩春の濃きココアかな
まひる野の玉葱の花蕗の花かろく哀しみ君とわかるる
薄明の時
五 猫と河豚と
夜おそくかけしふすまに匍ひのぼる黒きけもののけはひこそすれ
愁思五章
三 清元
手の指をそろへてつよくそりかへす薄らあかりのもののつれづれ
ひいやりと剃刀ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる庭さき
春を待つ間
三 雪
楂古聿(チョコレート)嗅ぎて君待つ雪の夜は湯沸の湯気も静こころなし
狂ほしき夜は明けにけり浅みどりキャベツ畑に雪はふりつつ
四 早春
雪ふるやキャベツを切ると小男が段段畑をのぼりゆく見ゆ
猫柳春の暗示のそことなくをどる川邊を泣きてもとほる
細葱の春の光をかなしむ真昼しみらに子犬つるめる
ふくれたるあかき手をあて婢女が泣ける厨屋に春は光れり
五 寂しきどち
かりそめにおん身慕ふといふ時もよき俳優は涙ながしめ
わが愛づる小さく陋しくいぢらしき白栗鼠のごと泣くは誰ぞや
いざやわれとんぼがへりもしてのけむ涙ながしそ君はかなしき
涙してひとをいたはるよそ人のあつき心をわれにもたしめ
白き露薹
二 夜を待つ人
やはらかき赤き毛糸をたぐるとき夕とどろきの遠くきこゆる
三 なまけもの
おづおづとわかきむすめを預かれる人のごとくに青ざめて居り
五 白き路薹
昨日君がありしところにいまは赤く鏡にうつり虞美人草のさく
哀傷篇
一 哀傷篇序歌
哀しくも君に思はれこの惜しくきよきいのちを投げやりにする
二 哀傷篇
鳴きほれて逃ぐるすべさへ知らぬ鳥その鳥のごと捕らへられにけり
かなしきは人間のみち牢獄みち馬車の軋みてゆく礫道
大空に圓き日輪血のごとし禍つ監獄にわれ堕ちてゆく
四 哀傷終篇
死ぬばかり白き櫻に針ふるとひまなく雨をおそれつつ寝ぬ
蝋燭をひとつ点して恐ろしきわれらが閨をうかがひにけり
その翌朝君とわが見て慄へたる一寸坊が赤き足芸
ひなげしのあかき五月にせめてわれ君刺し殺し死ぬるべかりき
犬が啼き居り乾草のなかにやはらかく首突き入れて犬が啼き居り
全四百余首より 四十四首 松濤宮輝写ス ××年×月××日
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