第2話 イズムとは
松濤邸は、楢林に建つ洋風な二階家で、壁面は鮮やかな緑色に塗られていた。
「こりゃ黒い家というよりは緑の家だな」と城熊警部が車を回して頭をかく。
玄関前の車寄せの脇に張り出したリビングのバルコン前に、薔薇、鶏頭、たんぽぽ、ひなげしなどの咲く花壇があり、その周りを素焼きできた十人のインディアンの人形が、守り神ででもあるかのように囲んでいた。薬業で一財産を築いた男の邸宅にしては、質素だった。しかし敷地は広大で、畑や牧場、丘を越えれば小川までも流れていた。小川は小金井の水道の支流で、せせらぎは一年中響いており、小さな水車小屋まで設えてあるという。
城熊が部下からの報告を受けている間、去水は宮輝が来客用に用意したらしいミステリーなどの蔵書を取り出してパラパラとめくったり、マントルピース上にあるマンドリンを眺めたりしていた。
「めぼしい情報はなかったよ。執事の自供に矛盾はない。毒というのは阿片だと証言しているそうだ」
「阿片だって? この節、よく手に入ったものだね。医師ならモルヒネを常備していそうなものじゃないか」
「医師の処方ってやつは案外自由にならんものさ。清輝は薬業だったし、英国帰りの弟もいた。隠し持っていたとしても不思議じゃない」
「なるほど。そんな具合だから枇杷の木からも落ちたと」
「田茂坂医師はその治療にも当たっていたからね。非合法の阿片が手に入って、それで主人殺しを企んでいたのかもしれないぜ。しかし…」と城熊が頭をひねった。去水はマンドリンを壁から取り外し、その表裏を覗き込みながら話を引き取った。
「動機、動機。 雇い主を殺して住込み医師にどんな得があるっていうのかね」
「それさ。それで執事を締め上げてみようと思うんだが」
城熊は腕まくりをして、去水の前に立った。だが去水は城熊から目を逸らして、
「このマンドリンには弦も張ってないんだぜ。庭も屋敷も様式を欠いた無趣味で、取り付く島もない。全く宮輝氏は無粋と言わざるを得ないね。どうも自分以外の人間の感性を信じていなかったらしい」といいながら、マンドリンを元通りに壁にかけ、使われている形跡のないマントルピース内部の石組みを覗き込んでから、城熊に向かって続けた。
「そっちは君らに任せるよ。ところでねえ城熊君。僕はさっきから君にずっとお預けをくらっているんだぜ。そろそろ、見せてもらえないものかね」
城熊はしばらくポカンとしていたが、ハタと手を打った。
「これはしたり。だが、僕が君を焦らすなんてのは前代未聞な痛快事だからね。実はもう少し楽しみたかったが…。こっちへ来たまえ」
二人はリビングを出ると、建物の裏扉の前にある狭い階段から二階へ登った。その廊下の東端の扉が、失踪中の松濤宮輝氏の書斎だった。
去水は、真っ先に真っ暗な室内に顔を突っ込んで鼻をひくひくさせた。城熊が去水の脇を窮屈にすり抜けて部屋に入って遮光カーテンを開くと、武蔵野の午後の日差しが部屋を柔らかく照らし出した。
正面の壁際には小さな本棚が、そして裏庭を見通す北窓に左袖をつけた大きなオーク材のテーブルがあり、その上には巻紙があった。奇妙なのは椅子で、古いピアノの椅子の座面に、座布団やクッションを赤い浴衣の帯紐のようなものでくくりつけてある。
「宮輝は関節痛に苦しんでいて、書き物の際に楽な姿勢が取れるようにと工夫の末、椅子をこんな風に使っていたと、使用人の証言が取れています」と刑事の一人が城熊に報告する。
「なるほど。この帯なら尻に敷いても気にはなるまいが」
サイドテーブルには水差しと手毬の置物が一つ、壁際のサイドボードの上には整頓されたパーコレーターとカップ一式があった。
「宮輝氏はコーヒー党か。にしては、この部屋は妙にチョコレート臭くはないかね」
「そういわれればココアの香りがするようだが。ま、それより君に見せたいのはこれなんだ」
城熊が指し示したのは、テーブルの上の巻紙であった。
「墨の乾き具合からいっても、執事の証言からしても、これは昨夜宮輝がこの部屋に一人でいる時に書いていたもので、その直後に何者かが氏を部屋から連れ出したのではないかと、我々は考えている」
去水は巻紙をしげしげと眺めた。
「白秋の『桐の花』からの抜粋だね。毛筆で、線は弱く手指の震えがみられる。これが中毒の症状ということはありうるだろう」
巻紙はごく一般的なもので、使用した墨や硯は使用人が昨夜のうちに片付けてしまったという。それは、おおよそ午後10時ごろのことで、その際、宮輝の寝室を確認することはしなかった。
「眠りが浅いから、寝入りばなを起こされるのを嫌うんだそうだ。午後10時に書斎を片付けるのは毎日の日課だそうだが、こんな風に仕事の途中のものが卓上に残っているというのは珍しいんだそうだよ」
「それでいて、筆や硯は洗っちまったと。なるほど。よく気のつく使用人たちだ」
巻紙は端をテーブルの下に垂らして後半がクルクルと丸まっていた。そのため、巻紙の後ろの数行が、墨で汚れているのである。
「しかし、去水君。これをわざわざ巻紙にしたためる意味があるかね? 原稿用紙にペンでかまわんだろうじゃないか」
「人にはそれぞれ“イズム”というものがあるものさ。ときに、他に巻紙に書かれた物はあったのかい?」
「それが、これきりなのさ。巻紙なんぞよく買い置きがあったものだと、使用人も不思議がっていたぜ」
「イズムだよイズム。余人にはわからん主義というやつが蔓延しているからね。にしても城熊君。僕を呼んだのは全く正しかった。これは宮輝氏の遺志ともいえるが、そうなると君は霊媒か、千里眼ということになりそうだぜ」
「犯人は一向に見えてこないが… それじゃ僕は下にいくよ。何か閃いたら知らせてくれたまえ」
「ああ。しっかり勉強しておくよ」
城熊達が部屋を出ると、去水は途端に神経質な表情で一旦テーブルを離れた。そして書斎の本棚やサイドボードを一通り調べ、再びテーブル前に戻ってくると、その引き出しをすべて覗いた。中にはチェスのボードとコマが一組あるだけだった。去水は腕を組んで、窓から若芽色の武蔵野に風の吹くのをしばらく眺め、おもむろに短歌の検討を始めた。
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