『桐の花』殺人事件

新出既出

第1話 去水、武蔵野へ

「なかなか快適なドライブじゃないか。さきほど恋ヶ窪のあたりを過ぎたようだが、ここいらも大分別荘が増えてきているようだ。君なんかも引退後の楽しみに一つ持っておくがいいよ」

 武蔵野に楢の緑も匂やかな初夏晩春の午後、城熊警部が運転する自動四輪の後部座席に揺られて、去水隣太郎は暢気に林野の風景を楽しみながら、軽口を叩いた。

「全く、君くらい資産があると、いい気なものだね。僕の方は『干草の中から針を探す』ような気分でいるってのに」と城熊は弱音を吐く。去水は煙草の煙をぷうぷう吐きながら、「おや。端緒にもつかない内から君らしくもないね。それとも、この事件はよほど難しい謎でも用意されているのかね」とたずねた。

「僕がわざわざ君の居城に出向いて、昼食を中座させてまでご足労願っているんだぜ。君だって、こうして着いてきたからには、感じ入るところがあったんだろうじゃないかね?」

「おいおい。君があまり萎れているから僕は陣中見舞いのつもりで出張ってきたにすぎないのさ。優秀なる城熊警部の、行き届きすぎるほど行き届いた捜査振りは、まあ僕には退屈以外の何物でもないけれども、事件の様相が少々気に食わない部分もあるし。実のところ、君がなにやら仄めかしていたお土産につられて、昼食を中座してきたっていうのが本当のところなんだ」

 とニヤニヤする。城熊は忌々しげな顔をして、

「ま、お土産についてはもう少しとっておこうじゃないか」と断言し、「現場まではまだ少しかかるから、事件の概観を確認しておこうか」と言った。

 法水は城熊の提案に頓着せず、窓の外を、牛馬が草を食む景色を眺めている。どこかの教会のカリヨンが響く。法水はしばらくそれを聴いていたが、

「近代の楽曲を奏でるのなら、やはり平均律にするほうが違和感がないものと聞いたことはあるが、ところどころ和音が濁るのはやはり気にかかるね。器と中身とは一体のものなのでね、それを違えるのは双方にとって罪だと僕は考えているのさ」と、事件とは無関係なところに引っかかって、ウームと腕を組んでいる。城熊は「まあ、倍音が鳴らないだけマシというものじゃないかね」と法水の懸念を軽くいなして、事件の概要を話し始めた。

「現場は、松濤宮輝という国文学者の邸宅だ。君のことだから彼とも面識があるのかもしれないが、近年ではめっきり老け込んでしまって、邸宅からほとんど出ずに過ごしていた。君のように潤沢な父親の遺産があるから、五十の手前で楽隠居したところで何の問題もないんだ」

「ああ。あそこは確か五年前にも事件があったろう。宮輝氏のご母堂、照子夫人殺害事件で、庭師が自首した。先代清輝氏病死の後、あの家は立て続けに葬式を出していなかったかい?」

「まさに武蔵野の黒い家さ。二年前には宮輝の弟、松濤忠輝が枇杷の木から落ちて事故死。翌年には宮輝氏の妻、咲江も病死」

 去水は城熊の話に腕組みをしていたが、やがて、明るい調子で

「本人と面識はないようだな。宮輝氏は最近の『国文学』への寄稿で、短歌が折口流の祖霊的無意識の継承機構だというのを虚子の花鳥風月論で論証しようとしていたようだが、そもそも写生論というのは…」

「おっと、待った。まずは僕にしゃべらせてくれ」

 城熊は、去水を饒舌の吹き荒れる寸前で食い止めて、説明に戻った。

「昨日の午後11時30分。松濤家の執事手塚知輔から署に通報が入った。住込み医師の田茂坂清を殺したっていう自首の電話さ。所轄が急行すると、黄色い鶏頭の花壇の前に、頚動脈をスッパリ切り裂かれた田茂坂が倒れていた。近くに凶器の剃刀もあって、手塚の指紋がべったりついていた」

 去水は腕組みしたまま眉を潜めた。

「で、動機は?」

「田茂坂が宮輝に毒をもっていたとか。まだ取調べ中だが」

「へえ。宮輝氏はなんと言っているんだい?」

 城熊は、頭を振った。

「そこなんだ。宮輝とその娘の鈴香が、昨夜から所在不明なのさ。警察は目下のところ、二人が事件に巻き込まれたか、医師殺害に関与している可能性を視野にいれて捜査をしているんだ」

 『松濤』と書かれた木札を右折すると、玉砂利の平らな道に変わり、警察車両が数台止まっていた。

「それで、すでに犯人が自首した事件に僕を連れ出した理由は?」

 城熊は、う~んと唸って車を止めた。

「君がさっき言っただろ。短歌さ」

「短歌が?」

 去水は上機嫌で、車を降りた。

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