第8話 回り出す歯車

 空に雲の峰が高々と聳えている。

 茂る緑は日に透かされ、血液のように動く虫が見えた。


 小川のほとりに腰を落ち着けた僕は足先で水面を叩きながら、何とはなしに空を眺める。

 傍から見たら気の抜けた間抜けな顔を晒している事だろう。


 けれども、家にいると息が詰まる。

 森や村などの外へと出た時ぐらいにしか解放感を味わえない。

 最近では特に一人で過ごす時間というものが減った。

 ミカゲやアシリカ、ウルナが常に僕と共にあろうとしてくれるからだ。ありがたいのだが、やはり少々気疲れする。


 視線を小川へと戻してみる。

 眩しい明かりを反射してキラキラと輝く姿は穏やかな流れ。

 川底もそこまで深くなく、僕のひざ下に収まるくらい。


 と、水とは違った光が波のまにまに幾度か瞬く。

 目を凝らすと魚が泳いでいた。


 川の上流と下流、自分の体を見て、もう一度川に潜む魚へ。


 取ってみたい。

 しかし、確実にミカゲに怒られる。

 怒られたくないが、魚を手で取ってみたい。

 魔術で取っては興ざめだ。やるなら素手だ。


 変な拘りかもしれないが、もしかしたら鬱憤が溜まっているのかもしれない。

 降って湧いた欲望に僕は我慢が出来なくった。


 座っていた石から腰を上げると、流れを横断する形で川へ足を踏み入れる。

 くるぶし辺りを撫でていた水が、足首、ふくらはぎとその水位を上げていく。


 ずっと浸かっていたら寒くなるだろうなと、そんな事をぼんやりと考えながら魚が見えた近くまで進むと、再び泳ぐ影を探す。


 見つけた。

 そっと近づく。

 両手を顔の脇まで小さく振りかぶり、掬うように振り抜く。


 飛沫が舞うと身をくねらせる魚も飛ぶ。


 何故か凄く楽しいぞ、これは。

 この感覚は八歳児らしいかもしれない。


 魚を取りすぎるのもよくないため、魚を空中へ軽く放り投げるつもりで川へ抜き手を放っていく。

 実際には魚の脇スレスレ、触れない程度の位置に手刀を突きこんでいるだけだ。


 取った、という感覚が欲しいだけなのである。

 本当に取らなくてもいい。


 随分と不思議な行為だろうなと頭の片隅で理解はしていても、特に意味のない遊びに夢中になる。

 時にはこういった遊びも大切なんだなあ、としみじみ感じていると。


 木々の隙間から惚けたように見つめている一人の女の子と目が合った。

 いつから、いたんだ……。

 川に手を突っ込んで遊んでいる姿を見られるのは、とても、恥ずかしい。


 一瞬硬直してしまったので今更だろうが、僕は姿勢を正して少女を正面から見据える。

 妖怪ちゃんたちと出会った時もこんな感じだったなあと妙な感慨に耽りながら。


 年の頃は僕と同じか、少し上だろうか。

 髪は女の子にしては短く整えられており、顔立ちも可愛いというよりは美形。格好いいと同性から言われ宝塚の男役などにいそうな、この世界でいう女らしい容姿だった。

 身を包んでいる着物を見れば動きやすい服装ではなく、どこか有名なところのご息女である事が伺える。

 この外見だったら将来の引く手は数多だろう。両親も鼻が高いに違いない。

 僕はどちらかと言えば可愛い系の方が好みではあるのだけれど。


 しかし、少女は金縛りにでもあっているのか一向に動く気配がない。

 どうしたのだろうか。


 少し心配になったので、僕は川から上がり彼女の側へと近づいてみようとするのだが、それを遮るように二つの影が僕の目の前へと降り立った。

 アシリカとウルナだ。

 二人とも手ぬぐいのような布で目隠しをしている。

 そこまで徹底しなくても。


「この覗き魔め!」

「ご主人の貞操は私のナ!」


 ウルナは何を言っているのだろうか。

 赤くなったアシリカと少女は初心だなと感じる程度だが。


「ち、違う! 私はたまたまで、別に覗くつもりなんて!」


 と、言いつつチラリと僕を見やったのを感じる。

 視線を辿ると僕の胸元だった。


 遊んでいるときに盛大に水面斬りをしていたからか内衣はびしょびしょ。

 まだブラジャーをつけるような年齢でもないので、濡れた服は体にぴったりと張り付き透けていた。


 目線を少女へ戻す。

 彼女は更に、耳まで真っ赤なりながら後ろを向いていた。


 このムッツリさんめ。

 何となく微笑ましいぞ。


 この体の肉付きはそんなに煽情的だとは思えないけれど、まあ十歳前後くらいなら異性の体に興味が出る年頃、なのかな?

 そう考えれば別に見られた程度でどうこうは思わない。逆の立場なら困るが、僕が見られる分には特に。


「す、すまない! その、わざとでは!」

「万死に値する」

「おうおう、小童。何してくれてんナ?」


 後ろ向きでこちらへ謝罪を言う少女にチンピラのように絡む妖怪ちゃんたち。小者っぽい。

 いつの間にか手ぬぐいも外していたようである。


 止めて上げなさいと二人の袖を引っ張る。

 驚いたように振り返る金銀姉妹は言葉を止めるが、僕の姿を確認すると慌てたように前へと視線を戻した。

 まだビショビショだもんね。

 

 そんな若干わたわたとしている僕らの様子にも気付かず、少女は早口で言い訳を続けていた。


「始めは何か水音がすると思って、特に目的もなかったんだ。そしたらお前がいて、その、水の中で舞う姿に、ええと、見惚れて、しまい。だが、決して覗こうとして近づいた訳では!」


 魚相手に無双するのが楽しかった姿を見られていたらしい。

 しかし、何故かとても好意的に受け取ってもらえている。ここはその勘違いのままにしておこう。


 アシリカとウルナが脱いだ上着をどうぞと差し出してくるのでどちらのを着るか迷う。


「私は神事にもある程度学があると思っていたが、お前の神楽は初めて見る。どこかの神凪だろうか? この辺りには数年前に噴火を起こした霊峰があるが、そこの者か?」


 少し落ち着いてきたのだろう。

 段々と物言いが尊大になってきた少女の事が不快なのか、妖怪ちゃんたちの機嫌が悪くなっている気がする。


 酒井家の侍従として教育を受け早数か月。

 相手の家格を見極めるのに「服装は非常に重要な鍵となる」教えをしっかりと実践できていないらしい。


 僕はアシリカとウルナ両方の上着を羽織り、少女へと顔を向けた。


 この近辺にそこまで偉い人の家はない。

 僕の家である酒井家が最も恐れられているだろう。

 けれども、彼女の服装を見れば明らかに僕よりも格上だ。

 そして、今日は母がお偉いさん家の姫を我が家に連れてくるらしい。


 これらの情報を合わせれば、自ずとこの少女がどのような存在なのか理解できた。


 薄着になった美少女二人の恰好の方が気になる僕は、とりあえず家に帰した方がいいのだろうと考える。

 ただ、僕が一緒に帰ると面倒な事になるのは必至。

 正直、一人で帰って欲しい。


「おい、もういいか?」


 どうやら完全に復活したようだ。

 不測の事態に戸惑っていた際の殊勝な反応が既に懐かしい。

 見事な俺様系である。


 こちらが了承の返事をする前にくるりと反転すると、若干視線を外しながらイケメン少女はこういった。


「お前、かばね持ちだろう? どこの家の者だ」


 まあ、聞かれますよね。




 △▼△




 ――無理矢理に連れてこられて退屈だったんだ、お前が私の相手をしろ。


 アシリカとウルナがドヤ顔で僕を紹介したら、予想通りの反応が返ってきた。

 妖怪シスターズは「は?」といった形の顔をしていたが、僕より偉い方だとは思っていなかったようである。

 まあ、この程度の粗相なら今回は問題ないと思う。男女の性差を発揮したのは今世初だ。

 ただ、流石に相手が悪い。

 酒井家どころか皇国で一位二位を争うとこのお嬢さんですよ、彼女。

 今後も教養を身に着けるために頑張って欲しい。


 家名を伝えれば相手を無視する訳にもいかない。不承不承一緒に戻ってみると案の定蜂の巣をつついたような大騒ぎをしていた。

 ミカゲが中々戻ってこないと思っていたら、どうやら行方不明者の捜索人員で捕まっていたらしい。


「若様……」


 困ったような、どこか呆れたような。

 最近よく見る顔でミカゲに出迎えられた。




 この後の詳細は省かせてもらう。そんなに面白いものでもない。

 が、僕の立場は劇的に変わった。

 

 まずは父様が大喜び。

 今までの態度が嘘のように僕の事を褒めそやかし、反して兄弟からはより憎しみの籠った目で見られるようになった。

 そして、母様に呼び出され城の方に僕は詰める事になる。


 権力者の巣窟である城へ赴くなんて、もう穏やかには暮らせないのだろう。

 しかし自身の産まれ――”酒井家の末子”である事を過去世のおかげで理解した時。僕が将来に夢を見る事はなくなった。

 運命の改変や皇国の未来を救うなど、僕にそこまでの義侠心などない。


 そう思うと少々やるせない気持ちが湧くのだが、まあ、のらりくらりと生きていきたい。


 加えて。

 どうして本邸ではなく郊外の別宅へ、しかも姫様を何の為に連れてきたのか。そういった事には全く触れず、母様は僕に一つの命令を下した。


 仕事は簡単だ。

 幕府の最高権力者である征夷大将軍。


 その御世継であり、あの日森の小川で出会った少女――徳河の姫の話し相手である。

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