第八話(エピローグ)
「キキが、キキが逃げちゃったんです!」
パニックに陥って、リリィはブローチに呼びかけた。
幸い、ダベンポートはもう四角い石を起動していたらしい。すぐに返事が返って来る。
《逃げたってどこへだい?》
「衣装部屋から飛び出して行きました」
《ふむ》
ブローチの向こうで一瞬ダベンポートが考え込む。
すぐにダベンポートはリリィを安心させるように言葉を続けた。
《いいかねリリィ、猫の習性として小屋から飛び出して街に逃げるとは考えにくい。どこかテントの中に隠れていると思う。とりあえず様子を見よう。なに、すぐに見つかるさ》
だが、結局舞台が始まってリリィの出番が迫ってきてもキキは見つからなかった。
薄暗いテントの中の黒い猫だ。ブラウン・カンパニーの人たちも観客に気取られないようにそれとなく探してくれているが、皆目行方が判らない。
「困っちゃった……困っちゃった……」
リリィが舞台の袖でうろうろする。
《落ち着きなさい、リリィ》
そんなリリィにダベンポートが優しく声をかける。
《こうなったら舞台から呼んでみよう。リリィの出番を
「舞台なんて怖いところから呼んで出てきてくれるでしょうか?」
まだリリィはオロオロするばかりだ。
《おそらくね》
ダベンポートの声は自信ありげだ。
《とにかく、やってごらん? 何もしないよりはいいだろう?》
「……判りました。やってみます」
どちらにしてもキキはこのテントの中から逃げやしないとダベンポートは言う。
しかしリリィは気が気でならなかった。
もし、キキがどこかの隙間から街に出ちゃったらどうしよう。
もし、キキが誰かのカバンに入り込んじゃったらどうしよう。
もし、キキが見つからなかったらどうしよう。
もし……
「リリィさん、そろそろ出番だ。幕を上げるよ」
幕を上げる大道具係の声に、堂々巡りの懊悩からリリィは現実に連れ戻された。
「はい」
大道具係の青年に青白い顔で頷いてみせる。
こうなったらやってみるしかない。心を込めてキキを呼んでみよう。
リリィはそう決心を固めると、舞台の袖から中央へと足を踏み出した。
リリィの目の前で幕が上がる。
一体いかなる魔法を使ったのか、オーケストラは静寂を保ったままだ。皆、一様にリリィの姿を見つめている。
リリィは大きな声が出るようにお腹に手を当てると、キキに呼びかけた。
「キキ♩」
いつも一緒に歌っていたように。大きな声で。だけど優しく。
「キキ、出ておいで♩」
「キキ♩」
「キーキ♩」
繰り返しキキに話しかける。
〈…………〉
ふと、テントの奥の方で何かが動いたような気がした。
「キキ?」
身を乗り出し、そちらの方に目を凝らす。だが、キキの姿は見えない。
〈ニャーオ?〉
静寂に包まれた劇場の中、片隅から小さな猫の声がする。
高鳴る胸の鼓動を抑えながら、リリィはもう一度キキに呼びかけた。
「キキ、出ておいで♩」
〈ニャーオ?〉
今度ははっきりと聞こえる。
キキが、見えた。
キキが物陰から這い出してこちらの方へ歩いてくる。
「いらっしゃい、キキ♩」
リリィは両手を大きく広げた。
「ニャオン?」
キキがリリィに答えながら劇場の外周をゆっくりと歩く。
「キキ、おいで♩」
その歩調は徐々に早くなり、やがて駆け足になった。
タッタッタッタッタ……
「ニャア!」
キキが舞台に飛び乗り、跪いたリリィの腕の中に一気に滑り込む。
「キキ! 良かった!」
リリィはキキを抱き上げると、その首にリードのついた首輪を巻いた。
腕の中で伸び上がり、キキがリリィに頬ずりする。
「さあキキ、歌うよ?」
「ニャア」
キキがリリィの顔を舐める。
「♬────」
「♪────」
「「🎵──🎶──♬──」」
一人と一匹は頰を寄せ合うと、いつも池のほとりで歌っているようにデュエットを始めた。
+ + +
「いや、驚いた!」
公演が終わった舞台監督の部屋で、リリィとダベンポートはお茶を頂いていた。
リリィの膝の上にはキキも一緒だ。今は丸くなって眠っている。
「ダベンポートさんからリリィさんのパートは
「いやいや、聞き入れて頂いて、ありがたく思っていますよ」
ダベンポートが笑顔でブラウン老人に言う。
「聞き入れて?!」
ブラウン老人は笑った。
「『言うことを聞かなかったら今すぐリリィを舞台から降ろす』って脅迫されたら私としては言うことを聞かないわけには行かない」
「まあ! そんなことをおっしゃったんですか?」
リリィは片手を口にやった。
「当たり前だろう。リリィがキキを探したいなら、それを叶えるのは僕の責務だ」
ダベンポートはリリィに笑顔を見せた。
「いやしかし、どう言う仕掛けなんですかな? 確かに演出上は素晴らしかったが、からくりが判らない」
「簡単ですよ」
とダベンポートはリリィの首元に今も光る赤いブローチを指差した。
「元々そのブローチはリリィと僕の連絡用なんですがね」──と四角い石をブラウン老人に見せる──「その赤い石は声をマナに乗せるんです」
「ほお?」
ブラウン老人が身を乗り出す。
「通常、声を出した時に震えるのは空気だけですが、このブローチがあるとマナも震えるんです。猫はマナに特別敏感な動物です。ですから、リリィがブローチを通して呼びかければ絶対に出てくると思っていましたよ」
「そのためにオーケストラを止めたのか!」
「そうです」
ダベンポートは頷いた。
「雑音は少ない方がいい」
「やれやれ、うちの
ブラウン老人が渋い顔をする。だが、すぐに明るい笑顔を見せるとダベンポートに訊ねた。
「……では、それは人間にも効きますかな?」
(ブラウンさん、鋭い)
リリィは舌を巻いた。
魔法院の池のほとりで歌っている時はみんなうっとりと聴き入っている。ブローチが効いているのは明らかだ。
「フフフ、それも含めてのリリィですよ」
ダベンポートは含み笑いを漏らした。
「だが、そのブローチの量産は勘弁してください。それを作るのは大変なんです」
──魔法で人は殺せない12:リリィの安息 完──
【第三巻:事前公開中】魔法で人は殺せない12 蒲生 竜哉 @tatsuya_gamo
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