第七話

 公演当日はブラウン老人が馬車を出してくれた。汽車の方が早いのだが、馬車の方が楽だろうという配慮らしい。

 ゆったり朝食を頂いてからダベンポート二人で馬車に乗る。馬車は街で普通に走っている茶色の二頭立て馬車だった。少し狭いが、二人ならそんなものだろう。

 御者はもう勝手が判っているようで、二人と一匹が乗り込むとすぐに馬に鞭を入れた。そのまま一路セントラルへ。

「緊張するかい?」

 ふとダベンポートはリリィに訊ねた。

「い、いえ、大丈夫です」

 だがリリィの顔は青白い。

「なに、キキも一緒にいるんだ。心配することはないだろう。落ち着いて歌っておいで」

「はい」

 衣装は前回着たものをベースに衣装係の人たちが準備してくれているようだ。一度サイズを測ったからもう大丈夫だという話だった。

 ウェストが細いのでコルセットで修正する必要もない。その点リリィは身軽だ。

 リリィは籐籠の中で大人しくしているキキの様子を眺めてみた。

 籠の中で上品に香箱を作り、黙って座っている。周囲の変わる匂いが興味深いようで、たまに鼻を動かしている。

「そういえばカーラ女史は街に出すときはマタタビキャットニップを主剤にしたクスリをキキに与えていたようだけど、どうするね? 女史の研究部屋からは一応そのクスリも押収してあるんだが」

「いえ、いらないと思います。わたしが歌えばすぐにキキも歌い出しますから」

「そうか」

 とダベンポートはニコリと笑った。

「まあ、その方がいいだろうな。クスリがなくても歌うんだったらその方がいい」

 馬車が森を抜け、セントラルに入る。

 御者はセントラルの市街を抜け、駅前広場のブラウン・カンパニーの隣に馬車を停めた。

「さあ、行こうかね、リリィ」

 ダベンポートがリリィの手をとってエスコートする。籐籠を下げたリリィはダベンポートと共にブラウンカンパニーの楽屋口をくぐった。


+ + +


 テントの中はまだ暗かった。一応最小限の瓦斯洋燈ガスランプが点いていたが、薄暗い感じだ。これが本番になれば、客席側の照明は消され、舞台だけが明るヴェルスバッハマントルを使った瓦斯洋燈ガスランプで明るく照らされるようになる。

 リリィはブラウン老人に会う前に舞台の様子を眺めてみた。舞台の書割や背景バックドロップ、小物などは変わっていたが、オーケストラピットの位置は以前と同じだ。

 キキはどこで歌うんだろう?

 舞台を見渡すと、真ん中に白いギリシャ風の柱が作られていた。その上で黒い猫が歌えばきっと映える事だろう。

「やあリリィさんや、よく来てくれた」

 舞台の袖からブラウン老人が両手を広げて歩いてきた。いつものように赤い派手な服をきている。

「さあ、もう時間がない。衣装合わせとお化粧に行ってはもらえまいか。ダベンポートさんには特等席を用意した。オーケストラピットの真後ろの最前席だ。ここなら安心してリリィさんを見ていられると思うよ」

「それはありがたい」

 ダベンポートはブラウン老人に礼を言った。

「リリィどうする、キキは僕が預かっておこうか?」

「いえ、連れて行きます」

 リリィは籐籠を両手で抱えた。

「キキが怖がるとかわいそうだから……」

「ふむ、そうだね。じゃあキキをよろしく頼んだよ」

…………


 前回と同じ衣装合わせ、同じお化粧。

「リリィが来るって言うから前回の衣装を参考にして作っておいたんだけど、これでも大きいわねえ」

 衣装係が待ち針を打ちながら衣装のサイズを直す。

「本当にあなたはコルセットいらずね。羨ましいわ」

「いえ、そんな事……痩せっぽちなだけです」

「いやだ、自慢? リリィは細くてスタイルが良いんだもの。殿方が放っては置かないわ!」

 オーケストラの音合わせが始まった。

 舞台の方からクィンテットの楽器を合わせる音が聞こえてくる。

 その音に、キキがビクッと身を強張らせる。

「キキ、大丈夫よ」

 リリィは膝の上の籐籠の中のキキに話しかけた。

 キキは少し怯えた様子だ。あのような大きな音を聞いたことがないのだろう。

「よし。衣装はOK。あとはお化粧と髪型だけね」

 舞台のお化粧は濃い。リリィは好きではなかったが、そうしないと舞台で映えないのだという。派手に頬紅を叩き、アイシャドーを施してアイラインを引く。口紅は桃色だったが、それでも濃い目だ。

「今日は猫を可愛がる深窓のお嬢様って設定だから、髪型は少し控えめにしましょうか?」

 ヘアデザイナーはリリィの綺麗な蜂蜜色の髪に丹念にブラシを入れてツヤを出すと、その髪を後ろで緩いシニヨンにまとめた。

「あの、これを……」

 リリィは赤いブローチを衣装係に差し出した。

「お守りなんです。これを首のあたりにつけてもらえませんか?」

「まあ、真紅のブローチ! 綺麗だわ」

 衣装係が目を見張る。

「うん、大丈夫。今日の衣装は白だから映えると思うわ。あら、リボンが変えられるじゃない。じゃあ、ちょっと他のリボンを探してきましょう。ちゃんと後であなたにあげるわ」

 衣装係の女性はそう言うと、裏にリボンを探しに言った。

「ウニャー!」

 籐籠の中でキキが何か文句を言っている。もう出たくて仕方がない様子だ。

 おかしいな。おしっこは出かける前にしたし、これくらいなら我慢できる子なのに。

「あ、首輪」

 ふと、リリィはキキにまだ首輪をしていないことに気が付いた。

「キキ、ちょっと早いけど付けちゃおうか?」

 リリィは手にしていたキキの首輪に起動式を唱えると、籐籠を薄く開けた。

 その時。

 思いも寄らない強い力でキキが扉を押す。

 気が付いた時にはキキは籐籠から飛び出していた。

「あ、キキ、ダメ!」

 だがキキは言うことを聞かない。慌てるリリィを尻目に、キキは脱兎のごとく衣装部屋を飛び出して行った。

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