第六話

 時は加速した。

 ブラウン老人との難しい交渉は全てダベンポートが代わりにしてくれた。報酬、拘束時間、公演の頻度……。

 特に公演の頻度についてはダベンポートが持ち前の交渉力を発揮した。いや、ひょっとしたら交渉というよりは恫喝と言った方が良いのかも知れない。

「うちにはリリィを行かせる理由が特にないのですよ。そこまで困窮してはおりませんでね」


 基本的に交渉は郵送で行われたが、たまにブラウン老人からテレグラムが届く事もあった。慌てるリリィに対し、ダベンポートは

「落ち着きなさいリリィ、ここは僕に任せておきたまえ」

 と言ってちゃんと場を納めてくれた。

 おかげで今ではリリィの公演は不定期、気が向いた時に歌うとまでにハードルは下げられていた。しかも出演料は一回でリリィの月収に匹敵する。

「よろしいのですか、旦那様」

 一度心配になって、リリィは訊ねた。

 だがダベンポートは

「なに、まだ不十分だ。ブラウン老人にはもっと払ってもらおうじゃないか。連中だって赤字になるまで頑張りやせんだろう」

 と楽しそうに笑うだけだ。


 半日お休みを頂いて、舞台にも一度行ってみた。汽車に乗って二十分。セントラルは汽車なら遠くない。

 ブラウン・カンパニーの小さなテントは相変わらず王立芸術劇場の隣に立っていた。今公演中の歌劇は『遠くの街から来た娘』、ブラウン・カンパニーのオリジナルのようだ。

(どうしようかな?)

 リリィはハンドバッグに入ったブラウン・カンパニーの『いつでも無料』サイン入りチケットを見つめた。これさえあればいつでもブラウン・カンパニーの歌劇は観ることができる。

 舞台の中の様子がどうなっているかは見てみたい。

 だが、また拉致監禁されては敵わない。それに、舞台の様子はきっと演目によっても変わるだろう。

(うん。このチケットは旦那様と一緒の時だけに使おう)

 リリィはそう決めると、被ってきた白い大きな帽子を目深に被り直して足早にブラウン・カンパニーのテントから立ち去った。


+ + +


 公演の前にはダベンポートにも歌を聴いてもらいたかったので、リリィはブローチの起動式と終了式をダベンポートから教わった。四角い石もダベンポートに返したので、これさえあればダベンポートは席でもリリィの歌を聴くことができる。

 少し押し付けがましいかなとも思ったが、ダベンポートは喜んでくれた。

「ありがたい! 実は結構忙しくてね、なかなか席を離れられないんだ。これがあると大変助かる。これでリリィの歌が聞ける」

 四角い石の起動とブローチの起動は別々に行う。なので、忙しければダベンポートは聴かなければいいだけだ。リリィがブローチを起動しても、受ける側がいなければ何も起こらない。

 それから毎回、歌う時にリリィは律儀にブローチを起動するようにした。最初にキキの首輪を起動、それからブローチを起動。

 どうやら毎回ダベンポートは席で聴いてくれているようで、池のほとりで歌った晩には必ず感想を聞かせてくれた。

「リリィ、今日の歌もよかったね」

 ダベンポートはリリィ自慢のポークローストを美味しそうに食べながらリリィを褒めてくれた。

 リリィのポークローストは切れ目を入れて開いたポークの塊の中に炒めたリンゴやマッシュルーム、玉ねぎなどを押し込み、切り口を木綿糸で閉じてじっくりとローストしたお料理だ。ジューシーに焼かれたローストを大きなお皿に移し、切り分けるとお肉からは透明な肉汁が溢れでる。ローストにはアプリコットのソースが添えられ、これが肉汁と混ざると絶品だ。このソースにポークやパンを浸しながら食べる料理はダベンポートのお気に入りの一つだった。

「ありがとうございます。何か、気になった事とかはありませんでしたか?」

 全てにおいて自信の持てないリリィはおずおずとダベンポートに尋ねた。

「あるわけがない! 素晴らしい歌声だったよ、リリィ」

 いささか贔屓目な気もしたが、ダベンポートはそう太鼓判を押してくれた。

「これならいつでもブラウンさんのところで歌えるんじゃないか?」

…………


 変化はもう一つあった。

 ブローチを起動するようになってから、池のほとりのコンサートの聴衆の反応に変化が生じたのだ。

 以前はどちらかと言うと興奮気味だった聴衆が、今ではうっとりとリリィの歌に聴き惚れている。目を瞑って静聴している人、うっとりと体をゆっくり揺すっている人……

 会場も静かで気味が悪いほどだ。

(なんかみんな、悪いおクスリを飲んでるみたい……)

 歌いながらリリィは不思議に思った。

(今まではそんなことなかったのに……。ひょっとしてブローチ?)

 確かにブローチは今まで起動していなかった。

(このブローチはマナを震わせるって旦那様が言っていた。だとしたら、その震えるマナの影響をみんなも受けているのかも知れない)

 なんとなく怖くなって、その日の夕方、リリィはダベンポートが帰ってくるなり疑問をぶつけてみた。

「ひょっとしてあのブローチ、魔法の麻薬みたいに効くってことはないですよね」

「うん?」

 コートを脱いだダベンポートが不思議そうにする。

 リリィはインバネスコートをコート掛けにかけながらダベンポートに聴衆の様子の変化を説明した。

「最近、ブローチを起動しているんですけど、そう言うときに限って、歌を聴いている人がなんだか陶然としているんです。まるでお酒か麻薬を飲んだみたいに」

「ふむ」

 ダベンポートは顎に手をやると考えこんだ。

「基本的に人間のマナ感受性は低いんだよ。ほとんどの人がマナの存在なんて気にしないで暮らしてる。でも振動してマナが励起していたらどうなんだろうな?」

「励起?」

「まあ、言ってしまえばマナが元気になって活動しているってことだ。ひょっとしたらそれで影響を受けているのかも知れないなあ」

「あの、ひょっとしてそれって危ないことなんじゃ?」

「いや、危ないってことはないと思うね。しばらくぼーっとするかも知れないが、せいぜいその程度のはずだ。……ふむ、しかしそれは面白いな。ひょっとしたら催眠や暗示に使えるかも知れない。良い人体実験だ」

 ダベンポートの思考が横に逸れる。

「旦那様、それはあとで考えて頂くとして、今はブローチの安全性を保証したいんです。舞台で歌ったことが原因でみんなが歌中毒になったりしたら困ります」

「うん、それは確かに困るね」

 ダベンポートはしれっと頷いた。あまり困ってはいない様子だ。

「ちょっと研究してみるよ。初期の研究で安全性は保証されているはずなんだ。そう心配しなくてもいい。リリィはいつものように歌えばそれでいいと思うよ」

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