第五話

 キキの首輪の魔法陣の起動式と終了式は簡単だった。

「だが、忘れてはいけない」

 とダベンポートはリリィに念を押した。

「起動した式は必ず終了させないといけない。魔法を動かしっぱなしにしてはいけない。この魔法陣は対象のマナを消費して駆動する、一種の護符だ。だから、起動しっぱなしにしてしまうとその首輪はキキのマナを消費する。跳ね返りバックファイヤーが起こるとは到底思えないほどの小さなエネルギー量なんだが、それでも念には念を入れておかないとね」

「わかりました、旦那様」

 足元から神妙に見上げるキキと共にリリィは起動式と終了式をメモした紙片を大切にポケットにしまった。

「本当はカーラ女史が終了式のいらない完全な護符にしてくれればよかったんだが、効果時間が長いから少々難しいんだ。いずれ僕が護符化するけど、それまでは終了式を忘れないようにしておくれ。なに、終了式を二重に唱えても問題はない。もし心配だったら首輪を外す前に終了式を唱えるように」

 そう言い残すとダベンポートはリリィの準備したお弁当の袋を持って椅子を立った。

「リリィは今日もあの池のほとりで歌うんだろう?」

 にこりと笑いながら訊ねる。

「はい。待っている人たちがいますから」

「ふむ。僕も時間が作れたら行ってみようかな。では行ってくるよリリィ」

「行ってらっしゃいませ、旦那様」

 ダベンポートはインバネスコートを羽織ると、片手を振りながら登院して行った。

…………


 リリィのコンサートは今日も盛況だった。

 いつの間にか、ブランケットを草地に敷いて待っている人までいる。歌う曲は五曲程度だったが、娯楽に乏しい魔法院ではかけがえのない時間になっているようだ。

 リリィの歌い出しはいつも突然だ。歌う前に何かおしゃべりをすればいいのかも知れないが、そんなことは到底できない。

 だからいつもリリィは池の前にキキと着くとぺこりと頭を下げ、すぐに歌い出す。

 だが、今日は一つだけ違うことがあった。

 キキの首輪。

 リリィは池のほとりでキキの首輪を取り替えると、教わった通りに起動式を唱えた。

 これで音速がランダムに変化し、キキの声の音域が劇的に広がる。それはキキを『歌う猫』に変える、大きな変化だ。

〈じゃあ始めるよ、キキ〉

 池の端のいつもの場所で魔法院の聴衆が見守る中、リリィはキキに囁くと静かに歌い始めた。

「🎼────」

 リリィに答え、まるで試すかのようにキキが鳴く。

「♬──」

 まるでオルゴールのような綺麗な音色。音階が変化し、キキの声がリリィの歌声に綺麗に調和する。

「!」

 聴衆が息を飲む音が聞こえるようだ。


〈あの黒猫が、セントラルの『歌う猫』だったのね〉

〈すごい……〉

〈シッ、静かに……〉


 人々の間から囁き声が漏れる。

 だが、すぐに周囲は静かになった。

「──🎶────」

 リリィとキキの歌が場を支配する。

「♪🎶──♬♪🎶────」

 リリィが歌い、キキが答える。キキが大きな瞳でリリィを見上げ、リリィが優しくキキを見つめる。

 一人と一匹の優しいデュエット。

 楽しそうに歌うキキを見て、リリィの気持ちも暖かくなる。

 セントラルで毎晩歌っていたキキ。お歌が上手なキキ。わたしのキキ。


「────‖」


 歌が終わった時、最初聴衆は我を忘れて無言のままだった。

 やがて誰かが拍手を始め、それが周囲に伝播する。すぐに魔法院の池のほとりは暖かい拍手に包まれた。

…………


 その日の夕食は近海産のマダラのポアレ、ケッパーソース添えにした。

 最近歌に費やす時間が長くなって、お料理の時間が短くなっている。勢い、時間が少なくても形になる魚料理に逃げがちだ。

「うむ、美味しいね、リリィ。このソースは何かな?」

「バターソースに行者ニンニクワイルド・ガーリックとキノコを入れて、ケッパーとレモンで酸味付けしています」

「うん、これはいいな」

 幸い、ダベンポートは気に入ってくれているが、たまにはもう少し手の込んだお料理も作りたい。

(今度はオーブン料理にしよう。ポークのアップルローストなんていいかも知れない……)

「あの、旦那様?」

 ふと食事を口に運ぶ手を休めると、思い切ってリリィはダベンポートに相談することにした。

「ん? なんだね?」

「ブラウンさんのことなんですが……」

「ああ」

 ダベンポートはリリィに微笑んだ。

「順調な様じゃないか。先日、隣の席のトーマスが感激していたよ」

「でも、あんまり時間を使ってはいけないと思う様になりました」

「ん?」

 マダラを口に運ぶダベンポートの手が止まる。ダベンポートはリリィの顔を見つめた。

「やっぱり、わたしはハウスメイドです。歌手ではありません。ですので……」

 リリィはきっぱりと宣言した。

「ブラウンさんのところでは本当に歌いたい時だけに歌う様にしたいんです」

「なるほどね」

 ダベンポートは頷いた。

「リリィ、それでいいんじゃないか? 何もプロの歌手と同じ様なことはしなくてもいい。魔法院で練習するときも、待っている連中には勝手に待たせておけばいいんだ。無論、もし罪悪感を感じる様であれば次の予定を伝えても構わないが……」

「ちょっと考えてみます」

 リリィはダベンポートに頷いた。

「しかし、『本当に歌いたい時に歌う』なんてリリィも変わったね」

 ふと、ダベンポートはくっくと含み笑いを漏らした。

「そうですか?」

「そうさ!」

 言いながら両手を大きく広げる。

「考えてもみたまえ。リリィがそう言うって事はさ、君が今では人前で歌うことを本当に楽しんでいるって事だろ?」

「え?」

 思わずリリィは赤面すると下を向いた。勝手に手がエプロンを握る。

「……い、いえ、そんな、こと……」

「ははは、リリィ、そんな顔をしなくていい。これはいい変化だ」

 ダベンポートは明るく笑った。

「楽しくない事はしなくてもいい。リリィが楽しんでいてくれて何よりだ」

 ダベンポートは少し身を乗り出した。

「だがリリィ、そろそろ日程を決めないとね。とりあえず一回はブラウンさんの顔を立てないといかん。その後はもし歌いたくなければ歌わなければいい。何しろ僕が『その日は都合が悪い』って同席できない旨伝えるだけでいいんだから、断るのは簡単だ」

「はい」

 リリィは頷いた。

 その言葉にダベンポートが景気良く両手をすり合わせる。

「うむ、楽しみになってきたぞ」

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