第四話
『これがあれば舞台に登っても怖くはない』
確かに旦那様はそうおっしゃった。
その日の夜。頂いた赤いブローチを眺めながら、リリィはベッドの中で窓から射す明るい月明かりを浴びていた。
(綺麗な赤……)
その石はまるで高級なルビーのような深い赤色を湛えていた。大きな真紅のブローチ。妙に細かいところにまで気を配るダベンポートの手製だけあって、アクセントのリボンは付け替えられるようになっている。リボンを工夫すればコサージュにも使えそうだ。
(これを着けて舞台に上がる……)
ちょっと想像しただけで怖くなって、リリィはギュッと目を閉じた。
でも、旦那様に恥を掻かせてはいけない。もうブラウンさんとも約束しちゃったもの。頑張らなくちゃ。
足元でキキが寝息を立てている。
リリィは枕元にブローチを置くと、明日のために目を閉じた。
…………
翌日からリリィはいつもそのブローチを身に着けることにした。そうすると何となく心が落ち着く。舞台のことを考えるだけで胸がドキドキするのだが、そのブローチを触ると不思議と安心することができた。
(そうだ、キキ)
舞台に上がる時にはキキに
(練習しておいた方がいいかな?)
何か良さそうな紐はないかしら?
リリィは午後になってから、キキを連れて魔法院前の池に向かった。やると決めた以上はちゃんとやらないと。そのためにはまず歌の練習もしなくちゃ。
キキの
リリィは革紐の両端を器用に縫って手首を通すループと首輪を通すループを作った。縫ったところには亜麻糸を巻いて補強にする。
「ちょっと窮屈かもしれないけど、我慢してねキキ」
リードを持って散策路をキキと歩く。キキはリードを迷惑そうにしていたが、逃げ出すような様子はなかった。しぶしぶリードを引きながらリリィの隣を歩いている。
池で練習しようというのは良い考えに思えた。魔法院の中には住宅が点在しているため、どこで歌っても迷惑になってしまう。その点、魔法院の前の大きな池なら聴いているのは鳥と魚しかいないし、誰かのご迷惑になることもないだろう。
「魔法院の対岸だったら魔法院の人にも迷惑にならないよね?」
念のためにキキと確認する。
「ウニャン♪」
キキがいいと言うんだから大丈夫だろう。
リリィは勝手にそう解釈すると、池のほとりに作られたベンチの一つに腰掛けた。
すぐにキキがリリィの隣に飛び乗る。
「あれ? でも何を歌えばいいのかしら?」
そういえばブラウンさんから演目を聞いてない。
夜にブラウンさんにお手紙を書こう、そう決める。
リリィはちょっと考えてからいつもキッチンで歌っている曲で練習することにした。この歌ならキキも慣れている。
リリィは胸元のブローチに指を当てた。
ダベンポートの説明ではこのブローチは『マナを使った糸電話』みたいなものらしい。このブローチと昨日ダベンポートが持っていた四角い石、この両方をマナが繋ぐ。
「リリィにこれは預けておくよ」
とダベンポートは昨日の夜、四角い方もリリィに渡してくれていた。魔法が起動していなければ何も聞こえないはずなのに、ダベンポートは何か余計なことに気を回したらしい。
(別に旦那様にならいつ呼ばれてもいいのに……)
今その四角い方の赤い石はリリィの小さなタンスに厳重に保管されている。魔法が働いていないから何かが聞こえる訳はないのだが、念の為だ。
ブローチに触って少し安心した。少し深呼吸してからそっと歌い出す。
「♩────」
大きな声が出せない。こんな小さな声では舞台では客席に届かない。
「♫────」
と、すぐにキキがその歌声に加わった。音階は狭いが、リズムはぴったりだ。
キキに勇気付けられるように、リリィはもう少しお腹に力を入れて声を大きくした。
「♬────」
(そうだ、舞台の練習だったら立たないと)
リリィはベンチから立ち上がると、片手をお腹に当てた。こうするともう少し大きな声が出せそうな気がする。
「♬────」
リリィとキキのデュエットに徐々に熱がこもりだした。池の前にいることを忘れ、お腹に力を入れて歌をうたう。その隣でキキが伸び上がるようにしてリズムを刻む。
「🎶────」
いつの間にかにリリィは恥ずかしさを忘れていた。歌に我を忘れ、キキと歌で対話することに没頭する。
「🎶────」
勝手に身体がリズムを刻み、それに合わせてキキも揺れる。歌がリリィを満たし、やがてリリィが歌になる。
「🎶────‖」
最後のパート。
歌の終わりと共に息を全て吐き出し、深呼吸する。
パチ……
パチパチ……
パチパチパチッ
パチパチパチパチッ
不意に、周囲から拍手が巻き起こった。
「え?!」
びっくりして振り返る。
気がつくと背後にはたくさんの人が集まっていた。
魔法院の教員、職員、それにメイド仲間……
「え? え?」
一気に顔が赤くなる。
死んでしまいたい。
そんな様子を見ながら、メイド仲間の一人がリリィに声をかけた。
「リリィ、歌が上手だねー! びっくりしちゃった」
「え、そんな、ごめんなさい……」
「謝ることないよー、楽しかった」
「そうだよ」
知らない魔法院の職員の人が同意した。
「明日も来てくれるんだよね?」
「そうだよ、明日も聞かせて!」
「僕たちも明日時間をとってまたここに来ますから」
人々が口々にリリィを励ます。
「はい……わかりました」
リリィは人々に頭を下げると、明日もここで歌うことを人々と約束した。
+ + +
噂はどうやら瞬く間に魔法院中に知れ渡ってしまったようだった。
それから後もリリィは毎日キキを連れて同じ場所で歌をうたっていたが、毎日観衆が増えていく。
曲目のリストは数日経ってからブラウン老人から郵送されてきた。どれも知っている、最近流行っている歌だ。これなら歌える。
リリィはブラウン老人の曲目リストに従いながら徐々に歌のレパートリーを広げていった。
最初は一曲、やがて二曲、そのうちに三曲……
だんだん歌う曲が増えていく。
それに来てくれる人たちの暖かい言葉が嬉しい。
いつの間にか、リリィは毎日そこで歌う事を楽しみにするようになっていた。
そんなある日の夕食後。
『リリィー、ちょっと来てくれるかい?』
キッチンでお皿を拭いている時にリリィはダベンポートに呼ばれた。
「はい」
お皿を拭く手を休め、すぐにダベンポートの書斎に上がる。
「なんでしょう、旦那様?」
徐々に聴衆が増えているのにダベンポートが何も言わないことを密かにリリィは心配に思っていた。
いつか叱られてしまうのではないだろうか?
家事をしないで歌をうたっていると言われはしないだろうか?
むろん、家事は全て卒なくこなしている。歌う時間を作るために仕事の手順を考え、支障が起きないようにはしているつもりだ。
だが、勘が鋭いダベンポートが何も言わないことは何か不気味だった。
「リリィ、そういえば僕は君に大切なことを教えていないことに気づいたよ」
ダベンポートは笑顔でリリィを書斎に招くと、キキの首輪を片手でぶら下げてリリィに見せた。
歌うためのキキの首輪。カーラ女史が作った、魔法陣が埋め込まれた首輪だ。
「あ、それ……」
「そう、キキの首輪だよ。これの起動の仕方を教えないといけないと思ったんだ」
言いながらダベンポートはニンマリと笑った。
「リリィ、最近池の前で歌の練習をしているんだろう?」
いきなり核心を突かれドキッとする。
「は、はい……」
小さく縮こまる。
「何もそんなに
そうか、やっぱり旦那様は知っていたんだ。
「練習するんだったら、キキも本番に合わせないとね」
ダベンポートはそう言うとリリィにその首輪を手渡した。
「その首輪の魔法陣は護符と同じような式が書かれている。今日は遅いから、明日の朝、朝食の後にその魔法陣の起動式と終了式を教えてあげよう。リリィ、明日からはその首輪をキキにつけて練習してごらん? きっともっと聴衆が増えるはずだよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます