第6話 ドンって言ったらストップ

「わぁぁ海だぁぁぁ」



 僕の住んでいる所は、割と山沿いの方だから、簡単に海に行く事が出来ないんだぁ。近くに川はあるんだけど、上流に大きなダムがあるから泳げる様な川じゃないんだよね。


 もちろん、近くには大きなプールがあるから、泳げなくは無いんだけど、やっぱり海ってプールとは全然違うもの。



 車が海岸線近くの有料道路に入ると、左側の窓から遠浅の広々とした海が見えて来たんだ。



「もぅ、アル姉、もうちょっとそっちに寄ってよぉ」



 窓を全開にして外を眺めるアル姉。


 僕はその肩に顎を乗せてから、アル姉を抱っこする様にして、窓の中心部分を確保。



「あぁん、けーちゃん、そいがしたら、私、見えんがんなるにかぁ?」

(翻訳:ああん、けーちゃん。そんな事したら、私が見えなくなるでしょ?)



 アル姉は僕のほっぺに自分のほっぺを強く押し当てながら、窓の中心部分を確保しようとしてくるんだよ。んもぉ。



「アル姉ぇぇっ!」



 僕は抱きかかえてたアル姉の脇の下に手を入れると、こちょこちょ!



「ひゃあっ!」



 アル姉はちょっと変な声を出して飛び上がるんだよ。おっかしいっ!



「けーちゃんやったなぁ!」



 今度はアル姉が僕の脇腹を、こちょこちょ。



「キャハハハハッ」



 そのうち、海の事はそっちのけで、お互いに、『こちょこちょ合戦』のはじまり、はじまり。



「「キャー、キャー、キャハハハハッ」」



 もう、二人で大騒ぎ。



「あぁ、もう危ないから、ダニーちゃん、ちょっと二人を見ておいてね」



 助手席から見かねた母さんが、お姉さんのダニエラさんに仲裁を頼み込んだよ。



「はいっ! 畏まりましたっ!」



 ダニエラさんは、元気よく返事をしたかと思うと、アル姉と一緒になって、僕の脇腹をこちょこちょ!



「キャハハハハッ、やめてー」



 実は、ダニエラさん。二人のこちょこちょ合戦に入り損ねて、ちょっと悔しそうな顔をしていたのを知ってるんだよ。


 ほら、今度はアル姉と二人で、ダニエラさんを、こちょこちょ!



「はぁぁぁぁん……」



 ダニエラさんはちょっとお姉さんだから、こちょこちょされた時の声がちょっと独特っ。


 前の席の父さんと母さんが、ちょっと苦笑いしてるのが可笑しいのっ。


 そうこうしているウチに、車は砂浜の海岸線に到着。


 ここの海は遠浅で、しかも砂浜の海岸線自体が国道になってるから車の乗り入れもOKなんだよ。



 と、ここで一旦停車。


 父さんは、遊泳エリアではもちろん魚釣りできないから、手前の防波堤のところで釣りをするんだって。


 父さん嬉しそうに釣り竿とクーラーボックスを持って、いそいそと防波堤の方へ。



 ここからの運転は母さんが担当。


 車はアメリカ仕様だからめちゃめちゃ大きいけど、砂浜はそれ以上に大きいから母さんの運転でも全然へーきさ。


 しばらく走っていると、ちょっと脇の所で小川のぬかるみにタイヤを取られた車が立往生スタックしているみたい。



「あぁ、すみませーん。ちょっと良いですかぁ」



 道路わきから若い男の人が手を振って、声を掛けて来たんだ。



「はい、はーいっ!」



 母さんは、そのお兄ちゃんに、にっこり笑いながら手を振ると、そのまま通り過ぎようとしてる。


 あぁ……さすが天然が入っているウチの母さん。しっかり小ボケをかましてくれる。



「美穂ちゃん、あのお兄さん達、助けて欲しいがんない?」

(翻訳:美穂ちゃん、あのお兄さん達、助けて欲しいんじゃないですか?)



 後部座席から見ていたアル姉が、見るに見かねて母さんに教えてあげてる。



「えぇ、そうなの? だったらもっと早く言って欲しかったなぁ。車は急には止まれないんだよぉ」



 母さんはどうでも良い事を言いながら、ゆっくり車を停車させると、やおらバックにギアチェンジ。



「ほれっ!」


 ――ガリガリガリ……フォォォォン!



 車はバックのままで、お兄さんの所まで大爆走!


 かっかっかっ母さんっ! 前に進んでる時よりバックの方が速いのはどうしてっ!?


 しかも、ルームミラーだけ見てバックするのは、子供の僕から見てもどうかと思うよ。


 ほらほらほら、後ろのお兄さん、ひき殺しそうになってるもん。


 まさかそんなスピードでバックして来るとは思わないお兄さんは、横っ飛びで僕たちの車を避けてるよ。



「大丈夫、大丈夫っ。『ドン』って言ったらストップだから。それまで大丈夫だからっ」



 と、のたまう母さん。


 母さん、その時は確実に轢いちゃってるから。全然ダメだから……。



 横っ飛びになって、地面に這いつくばってるお兄さんの脇に車を急停車させると、みんなで車を降りて、状況確認。



「どうしましたぁ?」



 どうしました? って母さん。母さんが轢き殺しそうになっただけだよ。お兄さん、横っ飛びしてなかったら、確実に殺ってたよ。確実にねっ。


 尋ねられた大学生っぽいお兄さんは、顔面をヒクヒク引きつらせちゃってて、ちょっとかわいそう。



「どうしたも何も、今、確実に僕の事を轢きそうに……って、まぁそれは良いかぁ」



 お兄さんも、それで良いんだ……。



「わざわざ戻ってもらってすみません。実は車がスタックしちゃったんで、ちょっと牽引してもらえませんか? 実はもう一台来てるんですけど、その車も軽四なんで、ちょっと無理っぽいんですよぉ」



 たぶん国産の軽の四駆だと思うけど、ちょっといい気になって小川を越えようとしちゃったんだね、そのままタイヤが埋まっちゃったみたい


 車の周りで大学生ぐらいのお兄ちゃんたちがワイワイと車を押してるんだけど、全然抜け出せないんだね。


 そして確かにもう一台車が停まってるけど、これも軽四だ。確かにこれじゃあ引っ張り上げられないかも。



「それでぇ、ちょうどの大きな車が通ったもんだから、思わずお願いしよっかなぁって。すみません、こんな事お願いしちゃって」



「んっ? ……?!」



 母さん、食いつく所が間違ってるよ。って言うか、毎回最初にそこに食いつくよね、母さん。



「仕方が無いわねぇ。それじゃが引っ張ってあげようかしら」



 母さんは喜色満面の笑顔で、お兄さんにOKしちゃった。


 本当に母さん「」って言葉に弱いよね。それに、お兄さんは『人好きしそう』な好青年タイプだからねぇ。まぁ、仕方無いか。人助けはしておくべきでしょう。



「ありがとうございます。助かります! ……あぁ、えっと、こちらは弟さん?」



「あぁ、僕は弟じゃなくって……ぐむっつ」



 母さん、突然のヘッドロック止めてよっ! って言うか、まだ僕がしゃべってる途中だよっ。



「いえいえ、弟じゃなくって……そう、甥っ子なんです。そうです、今日は親戚で海に来たんです。そうなんですぅ」



 はじまったよ。母さんの若い子ぶりっ子が……。どうしてそんなに若く見られたいのか全然わかんないけど……、まぁここで逆らうと変に母さんの機嫌を損ねるからなぁ。


 僕は空気の読める小学生だからな。ここは乗っておくか。



「むがむがっ、ぷはぁ。……えぇ、そうなんです。今日は親戚のお姉さんに海に連れて来てもらったんでーす」



 僕はちょっとぎこちないかなぁとは思いつつも、母さんの三文芝居に乗ってあげる。



 これで、来月のお小遣いは、ちょっと増える可能性大だな。



「ははは、そうですか。かわいい良い甥子さんですねぇ」



 お兄さんもちょっと笑顔がぎこちない様な気がするけど、まぁここはスルーで。


 と、そこへ、車の様子を見に行ってたダニエラさんとアル姉が帰って来たんだ。



「美穂さん、彼らダメですね。LSDも付いて無い、安物の軽四駆です。あぁ、すみません、LSDと言うのは、リミテッドスリップデフと呼ばれる駆動系を操作する為の機構の名称です。通常自動車と言うものはカーブを曲がる際に、内輪と外輪でその回転数が変わるのです、ちなみにこれを内輪差と呼びます。この内輪差を吸収するために、自動車にはデフと呼ばれる機構が搭載されています。この機構は、内輪差が発生している事を検知すると、外輪、つまり外側のタイヤの方へ力を分配する事により、よりスムーズにカーブが回れる様に設計されているのです。しかし、ここで問題が発生します。今回の様に、タイヤの片方が泥濘にはまってしまった場合、自動車としては、片輪にトルク、つまり力が掛からない状態になったと判断し、スリップしているタイヤの方へ余計に駆動力を配分してしまうため、結局は永久に力を地面に伝える事ができなくなってしまうのです。ちょうどそれが、現在の状況です」


 ダニエラさんがここまで説明した所で、隣に立っていたアル姉が、家から持ってきた冷たい麦茶を差し出してるよ。


「あぁ、ありがとう、アルちゃん。気が利くわね」


 ダニエラさんはアル姉からもらった麦茶をおいしそうに飲み干すと、やおら話を続けます。


「さて、そこで登場するのがLSDです。この機構が搭載された車は、今回の様に無制限にタイヤに力が加わらない状態になった事を検知すると、自動的にその力配分を制御して、反対側のタイヤへも力が加わる様にしてくれます。そうする事で、有効に駆動力を地面へと伝達する事ができる訳です。更に申し上げますと、オフロードタイプとは言え、現在装着しているタイヤ自体がオンロードの標準タイプの物でしかありません。このタイプのタイヤは通常の舗装路面を想定し、乗り心地を優先するあまり、悪路での走破性は考慮されておりません」


 ここで、ダニエラさんは、「キッ」と横で聞いているお兄さんを睨みます。


「大体、その程度の知識しか無い輩の分際で、川幅は小さいとは言え、浅瀬を横断しようと言う考え自体が甘あまです。しかも運転技術も未熟。更には、泥濘から抜け出そうとしているにも関わらず、同乗の女性達は降りようともしません。人として家畜以下のモラルである上、これらの行動から類推するに、その知能は昆虫レベルであると推察されます。これらの無用な人種を助ける事に何の効果も期待できません。あぁ。もちろん人助けと言う意味において、対価を求めると言うのは間違った考え方であると言えます。しかし、それは人に対してと言う事であって、今回の様にプランクトンレベルの存在に、そこまでの情けが必要なのかと問われれば、その答えは一つであると言わざるを得ません。残念ながら、ここはこのまま放置する事が最善であると具申いたします」


 ダニエラさんはここまでの長い説明が終わると、手に持っていた幅広の白い帽子をかぶり直したのさ。

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