雲製作所

阿呆漏斗

雲製作所

 そこの窓外に見える果て無き大洋の、その果てとでもいうべき場所には孤島があって、そこに雲製作所というのがあった。誰が何と言おうとそうなのだ。五月雨のもとになる雲も、夏の青い大空にどんと構える入道雲も、いつか見た薄紫と夕暮れが美しいグラデーションになっているのも、全てそこから出来ていたのだ。

 もう数十年前のことになる。小さな子供だった私の趣味は、庭の木の根元に寝そべって雲を眺めながらぼんやりすることだった。そうしているのと、何もすることがないんやったら掃除でも手伝ってくれ!と怒号が飛んでくるのが殆どセットだったが、それは好きではなかった。とはいえ遠くに近隣の子供達の作る喧噪がうるさくて、ろくに考え事は出来なかったように思う。その中で唯一まともに浮かんだ考えは、こうしてぼんやりとしている自分と死人の間には大して差がない、というものだった。寝ているのが木の根元でも木の下でも変わりなさそうだった。それは死にたいのではなく、死んでも構わない、というものだったと思う。ぼんやり起きてぼんやり食事してぼんやり寝る、その生活には意義が見えなかった。しかし、登った木の上から下を見下ろしたり、大根を切る包丁の刃が手に当たったりすることに自分はなんとなく怯えていた。それだけだった。

 その頃、授業で世界には未発見の島や、人類未踏の地域がまだあるのだと、学校の先生が言っていた。それを偶然聞いた私は或る日の暇な午後、近くの港の隅に誰のものともつかない木舟を見つけて、オール代わりの木の棒と軽薄さをもってぼろ舟に乗り込んだのだった。その日は風もビュウビュウ吹いていて、舟を岸につないでいた縄を外すと苦も無く陸を離れることが出来た。瞬く間に沖に出て、程なく町も見えなくなった。そうなってからようやく当てがないことに気付いたが、どうしようもないのも同時に解っていた。もう漕ぐ気力も無くなって、私は木船から雲を見てぼんやりしようとした。潮騒は穏やかなはずなのに子供達が騒ぐのよりも煩かった。その内、見ていた雲が段々と大きく黒くなっていき、土砂降りの大雨が降り出した。服が濡れ、舟に水が溜まってくるともう自分はもうどうにでもよくなって、傾いた舟から静かに海に入り沈んでいった。


 おお、起きたか。早速だが君に見てほしいものがある。

 目が覚めると私はログハウス風の邸宅の寝室にいるようだった。声の主は、目の前にいる白衣の研究者らしき人だろう。声も出で立ちも中性的で性別は判らなかったが、ここでは、彼、と呼ばせて貰う。焦げ茶の髪を肩のあたりでざっくばらんに切った、細身で眼鏡の少し曇った人だった。手の爪が荒れていたが、あれは自分で齧ったのだなと同じ癖を持つ私には断言できた。彼はさっきの一言だけ言うとすぐ背中を向けたので、私もついていくことにした。ついた先は書斎、いや、入り口付近こそ書斎のように天井まである本棚が並んでいたが、その奥は棚に器具類の雑然と並んだ研究室だった。その一番奥の窓のすぐ側に彼が待ち構えていた。彼は一瞬私の方を見やると、少し口角を上げ、窓に向き直ると外へ腕を伸ばし持っていた丸底フラスコの中身を大胆にも海へ注ぎ込んだのだ。そして、シュウシュウと湯が沸くような音がし始めた。

 ほら、見てみるといい。

 唖然としていた私はそう言われ我に返り、同じ窓から外を見た。どこまでも海である。あー、真下だ、丁度崖んとこに寄せて建てられているのさ、この家。そう隣から聞こえてきたので真下を見ると、どういうことだ、いつの間に天から神が降りてきたのかと思った。寄せては返す白波が、否、海原そのものが光り輝いているのだ!それも、薄緑になったり、白藍になったり、檸檬色になったり、桜色になったりするのだ! 手違いで天国にでも連れていかれてしまったのかと錯覚した。しかしまやかしではない、幻覚だったとしても滅多に見ないような光景が、真正のものとして目の前に確かに現れたのである。

 はあ、上手くいった……ああ、そういえば説明がまだだったか。

 そう彼は言って窓際を離れ、大量の紙が置いてある机のそばの椅子に腰掛けた。こんな絶海の孤島に客人が来るなんて想定していなかったから、その辺のでかい本をいくつか重ねてその上に座ってくれ、と付け足して。彼の言ったことを要約すると、まずここが雲製作所という研究所のような施設であり、彼は化学者で遥か昔から雲を作ることを仕事にしていた。本来雲は雨になることが出来るものの雨すなわち水から雲には自然には変化しない。そして降った雨は海に流れ込むのみで、自分がこうしていなければ日本列島は沈んでいる。今まで海水に自分が調合した薬品を混ぜて雲にしていたが一度雲にするのみで、それが最近の研究で水に一定条件で蒸発する性質を付与することが出来るかもしれないとなった。それをさてこれから使おうとしたところに丁度私が来たからついでに見てもらった、という。

 それでは最早ここに居る意味はないのでは、と口から漏れてしまったが、彼はただくくくと笑んで、自分はまだここでやりたいことが沢山あるのさ、と言った。いいかい、化学には夢と浪漫が詰まっているのだ!と立ち上がって語り出した彼は興が乗ったらしく長々とした講釈を身振り手振りさえ交えてその場で始めてしまった。眼鏡は曇っていたのにその目が爛々と光っていたのがわかった。彼に曰く化学は日常に根付きながら奥が深く無限の可能性を秘めている、というのはかろうじて分かったが後はさっぱりであった。しかし、それが彼にとって一等楽しいものであることは誰にでも十二分に伝わっただろう。ここで暮らすのは幸せか、と敢えて愚問を投げかけると、迷いのない返事が来た。

 「幸せだとも!」


 そこから島を発ったのは覚えている。気付けば私は自宅の布団の上で家族に囲まれていた。曰く、砂浜で倒れていたのだと。どうしたものかと訊かれたから海の果ての小島と雲製作所の話をしたが、皆信じようとせずに顔を見合わせ笑うばかりだった。唯一、一番下の弟だけは私の話を興味深そうに聞いて信じてくれた。正直、自分でもあれが本当だったかは判らない。布団の上家族に囲まれていたのだから海に出たのは間違いないだろう。しかし、あの光り輝く波が舟から落ちて昏睡していた中での一時の夢だと言われれば、否定のしようがない。孤島に居る感覚やその空気もほとんど忘れてしまったが、それも元から無かったのと同じだといえる。それでも自分にはあの体験は本物だったのだ。

 だから要は、雲というものはかつてはあの場所で作られていたものであり、現在はそこで職務を全うした彼が気儘に研究をしているということだ。これを自分は今も信じている。あるいは、縋っている。今日も空を流れる雲とあの思い出に救われてここにいると思っている。決して冗談ではない。その証拠に、自分は天気予報士が天職だったのだ。

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