天使が降りた日
篠岡遼佳
天使が降りた日
ある日、誰かが気まぐれを起こしたらしい。
全世界的に、人々の元へ天使が舞い降りた。
人々は熱狂し、しかし困惑した。
天使は別に、万能でも、願望を叶えてくれるわけでもなかったからだ。
神の御使いとしての能力は持っていても、それは日常生活ではささやかに祈ることとさほど変わりはなかった。
天使はだいたい女性型で、神々しさとは無縁の、故郷の幼なじみのような愛嬌のある姿かたちをしていた。
決まっているのは、金髪に、青い瞳、真っ白なワンピース。
舞い降りた裸足の天使たちは、その対象と共に毎日を過ごし、出かける時はふわりと空に舞い上がった。
――キーボードが、不定期にカコカコという音をたてている。
天使は、じっとその背中を見ながら、邪魔にならないよう、
「いいキーボードじゃないと書く気がしない」
というのが主の信条で、彼はそのとおり、ものを書いて生計を立てていた。
テレビというものをあまり見ないかわりに、ラジオが常に部屋の中で響いていた。
「ネタが枯渇したらおしまいだ。入力がないと出力できない」
と、大きな独り言をよく言う。
主は、天使がやってきたことに、あまり注意を払っていないらしい。
最初に挨拶をした時も、さすがに驚いてはいたが、それよりシメキリというものの存在に押しつぶされそうになっていた。
邪魔だから出て行ってくれとも言われた。気が散るという意味ではなく、他人と触れ合うのが面倒くさいらしい。
しかし、天使は神に、「いってらっしゃい」と世界に放たれただけなので、戻る場所が残念ながらない。
そもそも、意識というものが目覚めたのは、その「いってらっしゃい」の言葉が契機だ。おぼろげな現代の知識をピースのように持ち、なんだかいろいろと曖昧なまま地上に遣わされたのは、舞い降りた相手も同じであったようだ。
こと、この島国においては、曖昧をすぐに受容する気質の人間が多いらしい。
天使たちは曖昧なまま日常の一部となり、けれど日常というのは曖昧さが鍵となっているようだった。
キーボードの音が止んだ。
ギィ、と椅子をきしませると、「ありがとう」と主は言った。紅茶に気付いてくれたようだ。
「主さま、お食事はどうされますか?」
天使の曖昧さはここでも発揮され、天使はなんとなくここで家事を引き受けることになった。主は、「それなら居てもいい」とだけ告げてくれた。
「あぁ、ビーフシチューが食べたい。ルーで作るやつ。肉多めで」
「わかりました、がんばりますね」
しかし、わからないことは調べればすぐにわかる世界で良かった、と天使は思っている。主が余らせていた携帯端末で、わからない言葉を引いていく。
なるほど、ビーフシチューとは具がメインの場合が多いらしい。しかし、主はそうではなく、とりあえず牛肉がゴロゴロと入った、家庭料理に近いものを所望しているようだ。これならなんとかなりそうだ。
天使は冷蔵庫とにらめっこして、買い物に出かけ、一通りのものを用意した。
天使にとって、食事は完全に不思議な行為だ。そもそも天使は食事どころか睡眠も必要としない。神がそう作ったからだ。だが、食事というのは、人間の三大欲求のひとつであるらしい。あとは、睡眠欲と、よくわからないけれど性欲というもの。
人間は外部からものを取り込まないと生きていけないというのは、主が「入力がないからネタがない」と言う言葉と似ていて、少しおかしみを感じる。
天使は一つ一つの食材を、丁寧に洗い、剥き、切り分けた。丁寧にするのは、主から最初に教わったことだ。
「食材は逃げないから、ゆっくりやりなさい。包丁は危ないよ」
主が天使に対してそんな気遣いの言葉を告げるのは、まだその一回程度だ。
手順を確認しながら丁寧に作れば、大抵のものは作れるのだ、ということを、その言葉は含んでいた。
しかし、
「あ」
天使は器用ではない。なにしろ道具の扱いについては、生まれたばかりと同じようなものだ。すぐに傷を作る。
その指先からは人間と同じように血が出て、天使はそれへの対処がわからずおろおろした。
「あ、主さま、どうすれば……」
ぽたぽたと血を垂らしながら、主の居る仕事部屋に行くと、主ははじかれたように立ち上がった。とてもめずらしい。
天使が所在なく立ち尽くしていると、無言で救急箱を用意した。
「天使はこんなものも治せないのか」と投げやりに言う。
「私たちに許されているのは、祈りだけですので……」
もじもじとしていると、
「服が汚れる、おとなしくしなさい」
主はそう言って、手際よく止血をし、絆創膏で傷口を塞いでから、ガーゼと包帯で仕上げた。
「食事はどこまでできている?」
「お肉を切るところまでは終わっています。あとはお鍋で煮るだけです」
「ならいい、置いておきなさい」
ふぅ、と息をつき、主は椅子に座った。
「……びっくりさせないでくれ」
「申し訳ありません……血があんなに出たのは初めてで……」
「それはいい、慣れてないのだから。ただ……」
主は、言い淀み、紅茶を口に含んだ。
「……君は、祈りが許されていると言ったね」
天使は瞬きをする。主がはじめて、天使のことを「君」と呼んだ。
「私のことは、どのくらい知っている?」
「いいえ、ほとんど存じ上げません。好きなラジオと、好きな音楽、好きな食べ物、そして文章を書いていらっしゃることしか」
「そうか……」
主は机に向かい、両手を組んだ。
「見てもらいたいものがある」
あたたかい室内とは違い、外は雪が降っている。
天使は少し浮いたまま、それを見た。
石でできたそれを、天使は直感で理解した。
これは、墓石だ。
神の元へいけるよう、人間がおこなう儀式。
主は、自身に降り積もる雪を気にせず、その墓碑銘を見つめた。
「私は天使など信じない。神も信じていない。私が祈り、助けてくれといった時、神は助けに来ず、天使も降りてこなかった。――だが、君はここに居る。そして、祈りを許されている。だとしたら、君たちのすることはなんだ。しがない物書きに料理をすることだけではないだろう」
主は、拳が白くなるくらい、ぐっと手を握り込んだ。
「――祈ってくれ。天から来た君が、祈ってくれ。万能でない天使、願いを叶えられない天使。だったらその代わりに、私と――」
主は真っ白な地面に膝をついた。
天使は主のことが少しわかった。
繊細な人なのだ。祈ることに縋ることもできないくらいに。
「――では、祈ります。あなたのために」
天使は、大きく吸った息を、安らかなれ、と心を込めて歌声にした。
……安らかなれ、肉体よ、魂よ、残された人々よ。
……安らかなれ、音もなく降り積もる雪のように、あなた方へ静寂を送る。
天使は最後の響きを収めると、
主は、瞑目し、コートの襟を強く握りしめていた。
天使は主のその手を、そっと温かい手で包み込んだ。
「――なあ、君は、どこにもいかないかい?」
主は天使と目を合わせると、細い声で尋ねた。
天使は、微笑んだ。
「――望んでくださるなら、ずっと。私と主さまにある、祈りと共に」
天使が降りた日 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka
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