宇宙大帝と夏休みの計画

marvin

宇宙大帝と夏休みの計画

「突然ですが、世界の危機です」

 そう言って僕らの前に割り込んだのは、きりりとした目の女の人だった。

 僕とフースークは徹夜明けの霞んだ目を瞬かせ、暫くぼんやりと女の人を眺めていた。

 正直なところ、ひと晩眺めて過ごしたコンテンツの続き、またエンディング前の変てこな演出じゃないかと疑っていた。

 でも、どうやら本物の来客らしい。

 女の人は僕より少し歳上だろうか、十六、七歳と云ったところ。測ったように切り揃えた黒髪と浅い色の肌、小柄で胸も控えめだ。そこはかなり親近感があった。灰色の瞳に、実用性はよく分からないけれど、縁のない眼鏡を掛けている。

「ええと」

 誰だろう? こんな切れ長の目をした気の強そうな女の人は見憶えがない。元いた世界には、似た人もいたけれど。

「ああ、委員長じゃないか」

 ふわふわと頼りない声が僕の髪を擽った。フーは頭から毛布を被って、僕の頭に顎を載せている。いいかげん、痛いし重い。

「委員長?」

 名前ではなさそうだ。でも、どうやらフーの知り合いのようだ。寝惚けているのか、気付くのが遅い。

 僕とフーは、お気に入りの長椅子に座り込んでいた。飴色をした革張りの大きな椅子だ。目の前には、部屋の壁いっぱいに拡げた三次元モニタがある。今は真っ白なホリゾントだけれど。

 僕はフーの脚の間に陣取って、猫の懐炉の代わりとばかりに、フーに背中を擦り寄せている。だらりと垂れたフーの腕を、背負子の帯みたいに抱え込んでいた。

〈トリニティがこんな所に来るとは、驚きですね〉

 少しぴりぴりとした感じを添えて、アタランテが僕の頭の中で囁いた。

〈あれは私と違って気が短いですからね。さっさと顔を洗って来た方が良いと思いますよ?〉

 委員長、あるいはトリニティは、僕に目を遣り微かに目を眇めた。何となく、僕と一緒にアタランテまで睨まれたような気がする。

 委員長は、眼鏡のフレームを指先でくいと持ち上げた。

「何時だと思っているんですか、あなたたち」

 何時って言われても。

 僕とフーは「だって」と言い掛け、揃って大きな欠伸をした。


 僕はフィンカ。暦としたエルフの女性名を持つ十五歳。でも、アタランテやフーは僕をまだ幼名のフィンと呼ぶ。元の世界を出てから、ガラクティクスに暮らして、まだ一年足らずだ。

 フーことフースークは、ひょろりとした男の人。先の丸い耳と、身体がくすぐったくなるような、黒い黒い瞳をしている。相対的無限財産権とか云う、訳の分からないものを持った地球領主のひとりで、この家と地球の十三分の一はフーの持ち物だ。格好良いけど物ぐさで、実はそれなりに偉い人、らしい。

 ちなみに、アタランテは僕らの身体を整えたり、言葉や知識を補完してくれる共生体だ。身体の中にあるのは小さな小さなボットだけ。本体や人格はデータストリームの中にある。僕らの身体管理と小言が主な役割だ。


「アポイントを取りましたよね?」

 確認ではない。脅迫だ。委員長は腰に手を当て、目を擦る僕らを睥睨した。長椅子の前に立ちはだかって、見下ろす視線の高さが怖い。

 朦朧とする理由を話そうにも、つい今しがたまで眺めていた映像は、委員長の通信容量の所為でコーデックごとストレージに追いやられてしまった。

 フーの倉庫から掘り起こしたコンテンツだ。人がまだ地球だけにいた頃の、古い古い演劇だった。ようやく徹夜でエンディングまで辿り着いたのに。

「聞いてた?」

 僕は見上げてフーに訊ねた。それくらいでは顔は見えなくて、髪でフーの顎を擦っただけだ。頭がぐりぐりして少し気持ち良かった。

「覚えてない」

 フーの声は、まだぼんやりしている。

〈来客はお伝えしましたよ? それが、かのトリニティだとは聞いていませんでしたが〉

 アタランテの声にはどこか棘がある。

「フー、駄目じゃないか」

 僕は上に手を伸ばして、フーの髪をくしゃくしゃにした。

「そこ、ちゃんと座りなさい」

 委員長が憮然と言い放った。

 出し抜けに、固いクッションのような感触が僕を掴んで持ち上げた。フーから身体を引き剥がし、隣に座らせる。

 部屋コンの複合干渉を使って、目に見えない手を作ったのかも。知らない間に家が乗っ取られている。アタランテも刺とげする筈だ。

「資料はお送りしましたが」

 並んで座らされたものの、深く腰掛けると僕の足は床に付かない。僕はフーから毛布を取り上げるついでに、フーにくっついてバランスを取った。

 何故か委員長の目が険しい。

「その様子だと、目を通していないようですね」

 委員長は半眼で僕らを見おろした。勿論、物ぐさなフーがそんな事をしている筈がない。これは完全に叱られる態勢だ。

「ねえ、何だかものすごく怒ってる」

 僕はフーを肘で小突いた。かくん、とフーの身体が傾いで、僕に伸し掛かって来た。重い。

「委員長、フーが寝ています」

 僕は手を上げて委員長に告げ口した。

「アタランテ、フースークのオレキシン濃度を上げなさい」

〈×××〉

 多分、アタランテが悪態を吐いた。僕の聞いたことのない語彙だった。

〈トリニティ、彼の身体管理は私の領域です〉

 どうやら、制御系を委員長に干渉されかけたたらしい。

 共生体は基本的にパーソナルデバイスで、そのドライバも同様の筈だ。僕とフーの二人にアタランテがいるのは、少々、特別な理由があるのだけれど。

 そもそも、僕ら以外にアタランテと話せる人を、僕は初めて見た。目線は端末の演出だろうけれど、委員長にはアタランテが見えるのだ。いったい、何者なんだろう。

 フーの肩を押し返していた僕は、委員長と目が合った。

「ペットの管理もあなたの領域ですか? アタランテ」

 委員長の方も、少し苛立ったような口振りだ。

〈彼女は人です。地球原種以上の身体機能を獲得した稀有な存在ですよ〉

「亜地球原種でしょう。繁殖すれば遺伝子汚染を引き起こしかねません」

〈彼女を去勢せよとでも? あなたの法曹演算には欠陥があるようですね〉

 静かな言い争いが無性に怖い。でも、これは多分、僕についての話だ。

 繁殖云々って、もしかして、僕が子供を産むと云う意味だろうか。随分、勝手な話だ。僕は無暗に子供を産んだりしない。それが嫌で郷を出たのに、どうしてそんな話になるのだろう。

 僕は二人に割って入った。

「心配しないで。僕、フーの子供しか産まないから」

〈は?〉

「は?」

 二人が仲良く声を揃えた。

〈フィン、言っている意味が分かっていますか?〉

「あなたは意味が分かって言っているのですか?」

 二人の異口同音に詰め寄られ、僕はたじろいだ。勿論、アタランテはイメージ的にだけれど。僕は慌ててフーの肩を揺すった。よく分からないけれど、このままだと僕が危ない

「起きてよフー。起きてったら」

 フーが唐突に起き上がる。

「はい、寝てません」

 訳の分からないことを口走った。

「世界の危機が大変なんだよ、フー。何とかしなきゃ」

 出会い頭に聞いた委員長の言葉を思い出して、僕はフーの身体を委員長の方に押し出した。

「世界の危機?」

 今になって気が付いて、僕は委員長をまじまじと見つめた。

 フーの身体が前のめりに床に落ちて、思わず首を竦めるような音を立てた。


 僕らは一旦、それぞれの部屋に逃げ込んだ。朝の身支度と、フーの手当てを兼ねての事だ。

 僕らには少し猶予があった。委員長が本題に移る前に、フーがちょっとした意地悪を言った所為だ。話を聞く条件に、と言われた以上、委員長は飲まざるを得なかった。勿論、不承不承ではあったけれど。

 ところが、いざ身支度の段になり、僕は、フーと一緒の大浴場をアタランテに止められてしまった。いつもそうしていたのに。

〈良い機会です〉

 何が良い機会なんだか分からないけれど、僕は仕方なく独りで顔を洗って部屋着に着替えた。

 着替えはいつもの格好だ。上はタンクトップに緩いシャツ、下はデニム地の短パンと黒の靴下。寝間着にしていたフーのお古の膝丈のシャツは、あまり使っていないベッドの上に放り出した。

〈フィン、ちゃんと片付けなさい〉

 アタランテの小言を聞き流し、僕は委員長について訊ねた。


 アタランテのお勉強タイム(二〇分)


 委員長ことトリニティは、データネットワークの統合体だ。それも、ガラクティクスができるずっと前から存在している。

 勿論、知性はあっても生物ではない。目の前にいるのはコミュニケーショングリッドに過ぎない。アタランテと同じ、疑似人格インターフェイスだ。

 アタランテと委員長の違いは、物理的なユニットがあって、それが人間の身体を模しているかどうか。委員長は、いわゆるウエット端末と呼ばれる類のものだ。

 ガラクティクスには、無生物や組織体の疑似人格が、ごく普通に存在している。少なくとも僕の周囲には。

 当初、アタランテは、こうした存在が僕に理解できるかどうか、懸念していたらしい。

 蓋を開けてみれば、僕にはあまり抵抗がなかった。僕の元いた世界には無いものだけれど、精霊や付喪神と同じだと考えれば理解できた。

 そう云えば、フーと初めて会った時、アタランテの事は精霊と紹介されたっけ。だとしたら、委員長は差し詰め、精霊の女王だ。

 委員長は、フーと同じ地球領主のひとりなのだ。「ひとり」と云う数え方が合っているどうかは別として。

 フーによると、地球領主の半分は何らかの組織人格らしい。その人たちには、たくさんのエイリアスがいて、ガラクティクスの其処かしこにいる。

 エイリアスと云うのは、拡張意識下に複製された個体だ。俯瞰次元を介して無距離、無時間で繋がっている。分身、と云うより委員長のようなウエット端末に近い存在だ。ガラクティクスには、きっと委員長がたくさんいるのだ。姿は違うかも知れないけれど。

 同じ身体と権限を持った人が沢山いて、全員、ひとつの意識で動いている感覚は、さすがに僕にも上手く想像できない。手足どころか、身体の彼方こちらに人格があるようなものだ。

 同じ地球領主でも、何故だかフーにはエイリアスがいない。フーに原因があるみたいだけれど、良くは知らない。フーは世界に独りだ。本当はそれが当たり前だ。

 地球領主には、宇宙の何処かに秘密のサロンがあって、大抵、いつも其処に一人いる。だけど、フーのそうした都合の所為で、十三人の中でも、フーとの接触手段は非常に限られている。

 さっきの委員長は、回線を渡ってこの家までやって来た。それは、委員長がアガスティアに繋がっているからで、云わば職権乱用だ。

 その委員長に、フーは、話をしたいなら直に端末を寄越せと言ったのだ。地球領主のサロンとは、扉一枚で繋がっている。たった一歩の事に過ぎないから。

 それが、フーの意地悪だ。

〈さあ、急いで。来たみたいですよ〉


「いい加減、話を聴いて貰えるんでしょうね」

 顎をつんと逸らしてフーを見上げる委員長は、不機嫌なような、はにかんでいるような、僕から見ても複雑な顔をしていた。

 委員長の見た目は変わらないけれど、質感や実在感、いわゆる物理感は全然違う。肌のぷにっとした所なんて、指でつついてみたくなる。

 三次元モニタの映像も、感覚置換マーカーを使えば触れる事は出来るけれど、やはり現物には及ばない。実物の女子は偉大だ。

「物理端末を寄越せだなんて、少しは警戒したらどうなの」

 腹いせか、早速、委員長はフーに噛み付いている。来ておいて言うのもどうかと思うけれど。もっとも、僕のいた世界も、防犯意識はそんなものだった。

 ぷんすかしている委員長を見ながら、スカートも良いかな、なんて、僕はぼんやり考えていた。

 委員長の上衣は白のブラウスに灰色のジャケット。白い飾り罫の入った袖先が少し長くて、指だけが覗いている。幾筋かプリーツの入ったスカートも、ジャケットと同じ灰色で、丈は腿の半ば。白いソックスと焦げ茶のローファーに至るまで素足だ。

 ちなみに、部屋の中では靴を脱ぐようアタランテに言われ、委員長は憮然としながら従っていた。

 委員長の格好は、一見、固くて事務的な印象だけれど、剥き出しの脚が硬軟併せ持っている印象だ。それがすごく可愛い。

 <あざといですね>

 アタランテは耳打ちするようにそう言った。どうしても棘がある。

「はいはい、世界の危機がどうしたって?」

 フーの対応に、ウエット端末の感情が暴走しそうになっている。

 委員長がまた怒り出さないうちに、僕はフーを引っ張って、改めて長椅子に腰掛けた。

 さっきと変わった事と云えば、僕らの服と委員長が実体になった事くらい。フーはいつもの黒い格好で、結局、何だかまだ眠そうな顔をしている。

 この歳で徹夜はきついとか言っているけれど、そもそもフーは年齢不詳だ。僕より子供に見える時だってある。

 委員長はアタランテに覚醒物質の分泌を促したけれど、フーの身体はそう云うのが上手くいかない。アタランテは本来、フーのものなのに、僕の身体の方が扱い易いと云う。

「他人事みたいに言わないで」

 委員長は僕らの目の前に立って、気を取り直すような吐息から始めた。

 三次元モニタがリンクした。背景の白いホリゾントに、既知世界をマッピングした、よくあるガラクティクスの図版が大きく浮かんだ。

「ほら、此処に」

 銀河の縁の疎らな辺り、俗に云うペルセウス椀の向こう側に、赤いマーカーがポップした。

「大帝を名乗る専制君主が現れます。その所為で、世界は大変な事になるんです」


 人類版図はガラクティクスの統治の下にある。最早それ無しに世界は成り立たない。少数の独立国家さえ、同じシステムの中にいる。

 議院があって、議会があって、議長がいる。表に出ない決議機関があって、諍いや反目もあるけれど、概ねひとつに纏まっている。

 恐ろしい皇帝も、無敵の王様もいない代わりに、アガスティアと云う名の世界シミュレーションがガラクティクスを導いている。

 僕らが大きさだけで帝国と呼ぶ世界より、よほどガラクティクスの方が帝政に近い。

 委員長の指す図版の上に、無数のマーカーが現れては消えた。崩れたトランプタワーのように、四角いタグが目まぐるしく折り重なって行く。とても目では追えない。

「大帝は反ガラクティクスを訴えて拡大し、やがて既知世界の一八.六%を掌握します。経済均衡が失われた星域では、原始的な武力衝突が発生し、多くのリソースが失われるでしょう」

 結構、大きな話だった。寝起きに聴いて良い話ではないような気がする。

 ふと、髪に感じた指先に、隣のフーを盗み見た。フーは気のない目線で委員長を眺めながら、ぼんやりと僕の髪を弄んでいる。退屈なのだろうか。それとも、僕と同じで図版が理解できないのかも。

「私はアガスティアの土と水、そして忌み枝の剪定者です」

 そう言って、吐息を挿む。委員長の目が少し険しくなった。

「何か意見は? フースーク」

「ええと」

 思い当たるものがあったのか、フーは気の抜けた声で答えた。

「僕の影響圏だね」

「フーの、何?」

 よく分からなくて、僕は訊ねた。

〈端的に云えば、領地です〉

 アタランテが僕に囁いた。

 本当は、国よりもっと細かくて多彩な単位だけれど、図版の一部は、フーの影響下にあるグリッドを指している。相対的無限財産権とか云う仰々しい肩書の基盤になる要素だ。

〈辺鄙な場所ばかりですけれどね〉

「あなたがまた何か怪し気な事を始めたのでは、と云うのが、私の中の大方の意見です」

 統合ネットワーク内部の相互補完的な推論ユニットか、あるいは人格端末同士の事なのか。時折、委員長の一人称は複数になった。

「身に覚えがない」

 フーは委員長に両手を挙げて見せた。

「そう」

 一拍ほどの間を置いて、意外とあっさり委員長は頷いた。

「あなたがそんな面倒なことをする理由がない、と云う意見もあります」

 きっと、委員長はそれを確かめに来たのだろう。そんな顔をしている。

 僕の目線が気になったのか、委員長は少しばつが悪そうに目を逸らした。

「そんな大それた勢力なんて、ないと思うけどなあ」

 そう呟いたフーに目を遣って、委員長はつんと顎を反らした。

「せいぜい、あなたの悪趣味な実験場だけでしょう、今は」

 目を眇めるようにフーを睨む。

「ですが、ミドルアースの例もあります。あれの所為で、私たちは帝国以来の混乱に陥っています。あなたが疑われるのは当然でしょう?」

 それは多分、僕のいた世界のことだ。この世界の地球とそっくりだと云うだけで、大騒ぎになったと聞いている。

 もちろん、公には発表されていない。誰も知らないものだから、僕の耳はいつまでたってもアクセサリ扱いだ。

 僕のいた所には、耳の先が丸い人なんて、一人もいなかった。宇宙どころか空だって、誰も飛んだ事がない。なのにこの世界とそっくりだなんて、酷い言い掛かりだ。

「でも、それで誰が困るのさ」

 フーは少し困ったように、委員長に向かって口を尖らせた。

 委員長は、大帝の所為で大変な事になると言ったけれど、フーは端から他人事としか思っていないようだ。

 手の届かない所を気に病むなんて、暇人のする事だ。フーは言う。そんな人は、大抵、足許に蹴躓いて転ぶのだ。そうかな。それなら、フーだって暇人だと思うのだけれど。

 <世界がどうあれ、地球領主の相対的な地位は変わりませんからね。変動すれば却って利を増す事もあるでしょう>

 アタランテが僕に補足してくれた。

 銀河中が戦争になったって、誰が支配者になったって、地球領主に影響するのは少しばかりの力関係でしかない。立っている場所が違うのだ。

 と云う事は、委員長にとっての「世界の危機」も、別の所にあるのだろうか。

 委員長は、心持ちぶっきら棒な声で答えた。

「反ガラクティクスを掲げた大帝は、その基盤である統合ネットワークを廃し、新たな非接触ネットワークを構築します」

 少しの間を置いて、フーが意地の悪い顔をした。委員長が怯んだような表情で頬を赤らめる。

「なんだ、君が困るのか」

 視覚から全天計測器まで、壁画からレストランのメニューまで、委員長の統合ネットワークは、あらゆる情報を吸い上げている。ガラクティクスデータストリームなんて、その中から選り分けて整えた、ほんの一部だ。

 だけど、それとは別のネットワークが確立されると云う事だ。

「ネットワークの瑕疵は世界シミュレーションに重大な影響を及ぼします。不確かな未来は世界の危機です」

 委員長は憮然と、そして、どこか拗ねたような顔をして言った。

〈ですが、大規模な非接触ネットワークなど、今更どうやって構築するのでしょう〉

 アタランテは懐疑的だ。

 眼鏡のフレームをくいと上げ、委員長は僕を一瞥した。正確には、僕の中のアタランテだ。アタランテはフーの中にもいるのに、僕だけ睨まれるのはちょっと理不尽だと思う。

「解りません」

 ひっくり返りそうになった。散々、大帝の危険を煽っておいて。

「いっそ、大帝に訊いてみたら?」

 僕は投げやりに言った。

「できません」

「どうしてさ」

「大帝が誰だか解らないからです」


 トリニティのお勉強タイム(一時間二五分)


 アガスティアは統合ネットワークに基づいた人類版図の世界シミュレーションだ。ガラクティクスを含む世界は、その未来図に沿って動いている。

 勿論、未来は確定していない。でも限りなく確定に近い。アガスティアの示す未来は、ワールドスケールやタイムスケールの大きなものほど、予測精度が高くなる。そのスケール差が未来の変動剛性だ。

 ただし、リソースさえ許せば、極小範囲に絞る事で明日の献立だって予測できるらしい。勿論、そんな事に世界シミュレーションを使う人はいないけれど。

「そうですよね」

 委員長は腰に手を当て、フーをじろりと睨み付けた。やった事あるんだ。

 ちなみに、ガラクティクスの何処かに本物のアガスティアの樹あるらしい。擬態粒子でできた、とてつもなく大きな大樹の姿で、人類版図が具現化されているそうだ。根、幹、枝、葉のそれぞれがガラクティクスの世界を模していて、若葉と落葉に趨勢を見ることが出来ると云う。

 アガスティアの高精度な未来予測に合わせて、人の生き方も大きく変わった。フーが言うには、それが僕の違和感の原因らしい。僕とは「あたりまえ」が違うのだ。

 アガスティアが未来を確定して見せることで、人は結果効率と云う考え方を優先するようになった。それは、無駄な行為を省く事だ。

 結果を変える事ではなく、結果に至る過程を効率化する事。それこそが努力だと云う考え方だ。この世界の基準的な道徳観とも云える。

 委員長は戦争を例にして、僕に解説してくれた。アガスティアのおかげで、大きな戦争は勝ち負けが最初に決まってしまうからだ。

 大抵、戦争を止めると云う結論には至らず(止められるなら、そもそも戦争になっていない)、その場合、双方で利益と被害の最適値を決めるのが、この世界の戦争だ。現実の被害でリソースを失うなんて無意味だからだ。

 それなら、軍隊なんて要らない? そうすると、最初から勝ちはない。形ばかりの軍隊でも、弱ければ当然、負けてしまう。世界シミュレーションは、あくまで現実に基づいている。

 勿論、実際は、細かな予測修正や経験の加味があったりして、もっと複雑らしいけれど。

「変なの」

 僕がそう思うのは、そんな未来を担保しているのが、アガスティアだけだからだ。この世界の人たちは、それを何とも思わないのだろうか。決まった未来に対する諦めや納得は、いったい何処へ行くのだろう。僕は、そこがもやもやする。

 それこそが、人類版図が八〇〇年の試行錯誤で築いた、この世界の「あたりまえ」なのだとフーは言った。一言で云えば、従属だ。委員長は苦い顔をした。僕にはない感覚だ。

 だけど、それはもう、綻んでいる。

 アガスティアの大樹が根を張るのは、あくまで人類版図の、それも統合ネットワークの上だけだ。ガラクティクスの外の世界、ガラクティクスよりも大きな世界なんて、想定されていない。ほんの八〇年前まで、誰もがそう信じていたからだ。

 そんなこと、なかった。帝国との接触が覆してしまった。

 帝国は、人類版図の何百倍、もしかしたら、何千倍も大きくて古い世界だ。ガラクティクスなんて片隅の箱庭に過ぎない。

 何万年単位の情報の欠落を埋める術なんてある筈がなく、帝国の趨勢に対してアガスティアの世界シミュレーションは成り立たない。故に、ガラクティクスは未だ、手に負える範囲でしか帝国に門戸を開けないのだ。

 幸いな事に、帝国との大規模な接触は、インフラの特性上難しい。接触はまだ辛うじてガラクティクスの制御範囲内にある。

 ところが、その不確かな世界の門番が、よりによってフースークなのだ。幸い中の不幸だ。どうやら、この世界でフーだけが、誰より帝国に詳しくて、よく分からない影響力を持っている。

 その所為で、フーの所にはいつも事件がやって来る。アガスティアが帝国が関係すると考えた事件だ。いつも面倒事を押し付ける、フーはそう愚痴を零している。


「そう云う事?」

 やたらと長い前置きだった。二時間掛かってやっと分かった。これもいつものパターンだ。

 僕は半分呆れて委員長を見た。結局、いつもの面倒事じゃないか。少しスケールは大きいけれど。でも、それなら最初からそう言えば良いのに。

「正確には」

 眼鏡のフレームをくいと上げて、委員長は目を逸らした。

「アガスティアは帝国の関与を否定していません」

 僕は暫く委員長の眼鏡を見つめて、何を言っているのか理解しようとした。

「は?」

 ちょっと、諦めた。

〈勝手に帝国の所為にした、と云う事です〉

 アタランテが小馬鹿にしたように囁いた。勿論、委員長にも聞こえている。

「この不確実性に見合うスケールの変動要素は、帝国の他にありません」

 僕とアタランテに向かって言い放ち、また眼鏡のフレームをくいと上げる。

「眼鏡、合ってないの?」

「眼鏡は関係ない」

 すぱーん。

 委員長がいきなり、張り扇で僕を叩いた。痛くはないが、吃驚して竦んだ。いつの間にストレージから張り扇を再現したんだろう。

 前にフーと張り扇で遊んだ事あって、その時この部屋に隠しておいたのだ。用法まで一瞬で見つけるなんて、統合ネットワークは侮れない。

「委員長は、帝国と大帝が何か関係あるって言うんだね?」

 僕は頭を押さえて口を尖らせた。確かに、名前に似た所はあるけれど。

「それ以外、考えられません」

「アガスティアは言ってないのに?」

 僕の反論に、委員長はたじろいだ。所在無げに張り扇を抱いて、僕を睨む。

 僕は、はたと手を打った。

「じゃあ、僕たちで大帝を見つけようよ」

 委員長が虚を突かれて僕を見つめる。

「何をいきなり」

「大帝を見つけて、やっつければいいんだよ」

 すぱーん。

「てっ」

「暗殺は方法として不適切です」

 そんな怖い事、言ってない。

「フーはどう思うの?」

 二人揃って、フーに目を遣る。

 すぱーん。

 委員長が問答無用でフーを叩いた。

「はい、寝てません」

 喋らないと思ったら、寝てたんだ。

 フーの隣で委員長のお説教を聞きながら、総合ネットワークの疑似人格って、結構、怒りっぽいんだ、なんて、ぼんやり考えた。

 インターフェイスに人格を搭載している訳だから、情動もフィードバックされているだろう。ウエット端末なら、なおさら情報量が多い筈だ。性格だってユニークになるのかも知れない。

 アタランテの場合は、年期が人格を成形したらしい。フーとの付き合いは思いのほか長くて、人格だけで云えば、委員長よりずっと、ずっと先輩だ。

 その分、アタランテには、人に近いと云う自負があるのかも知れない。統合ネットワークを相手に対等に遣り合っているのも、その所為だろうか。

 どう感じるかなんて受け手の問題だ、なんてフーは言うけれど、わざわざ生身の委員長を寄越せと言ったのは、きっとフーもそう感じているからだ。

 すぱーん。

 とは云え、いい加減、委員長から張り扇を取り上げないとフーが危ない。何だか、委員長は叩くのが楽しくなって来ているみたいだ。

「いいだろう」

 フーが言った。

「面倒だけど、身の潔白を証明しようじゃないか」

 張り扇を頭に載せたまま、フーは委員長を見上げて言った。

「大帝の特異点は何処だ」

 フーに問われて、委員長は怯んだ。誤魔化すようにつんと顎をあげ、背景の図版に目線を遣った。

「タウドッグ」

 惑星の名前だ。

「そこに歯医者は?」

「歯医者? そんな専門医はいません」

 フーが出し抜けに長椅子から腰を上げた。フーに寄り掛かっていた僕は、そのままシートに横倒しになった。フーのお尻を見上げる格好だ。

「じゃあ、今からそこに行って確かめよう」

「は?」

 委員長がぽかんとしている。僕だってそうなった。

「さあ、準備して。扉の前に集合だ」

 フーが調子外れの鼻歌を歌いながら歩いて行く。何から訊こうか整理がつく前に、フーは僕らを振り返った。

「君たち、水着を忘れるなよ」

 ひらひらと手を振って部屋を出て行く。統合ネットワークさえ遅延するほどの唐突さだった。

「水着って」

 委員長が呟いた。そっちの事? それなら僕が知っている。

「胸に大きく名前を書いたボディスーツだよ。紺色とか白とか」

〈それは違います。違いませんが、いけません〉

 アタランテが冷ややかな声で否定した。前にフーの倉庫で見たのはそんなだったのに。


 銀河外縁の惑星タウドッグ。さして特徴のない入植地だ。固形殻は概ね起伏がなく、地表の九割九分は浅い海洋に覆われている。

 そもそも生物のいない惑星だから、海棲形態の入植者は少ない。陸地がないため、惑星各地に半浮遊型のコロニーが点在し、移動と結合を繰り返している。それがタウドックの都市形態だ。

 海中の産業微生物から資源を濾し取るのが主な生業で、大半は機械化されている。開発の余地はあるけれど、自立しているため希求性がない。

 惑星全土のコロニーを束ねているのは、タウドッグの電磁気特性に特化した、常時変動型のローカルネットワークだ。非接触型ではないけれど、その素地はあるかも知れない。

 惑星外の情報回線となると、これが非常に細くて遅い。俯瞰次元中継基地なんてひとつもなくて、高次元パケットが未だに主流だ。

 タウドッグは、自立しているが、孤立している。アガスティアの恩恵も薄い。ガラクティクスでは、こう云う場所を田舎と呼んでいる。

 委員長の言う「世界の危機」は、そんな田舎から始まるらしい。


 僕らの出発は、いつもの通り倉庫から。たくさん並んだ大きくて黒くて四角い板は、帝国製のトランスポータだ。僕らは単に扉と呼んでいる。どんなに離れた場所だって、一歩で行き来する事ができる、便利なインフラだ。

 俯瞰次元の遥か延長線上にある技術らしいけれど、原理も何も、僕にはよく解らない。委員長にそう言ったら、眼鏡のフレームをくいと上げて、嫌な目をした。

 僕らは渋る委員長を半ば拉致して扉を潜り、一路、辺境のタウドッグを目指した。さすがに田舎だけあって、最寄りの扉から速い宇宙船に乗っても、三日は掛かるらしい。

 相変わらずよく分からない手段で船を手に入れて、僕ら三人は物理空間を蛙のように跳んで行った。


 トリニティのお勉強タイム(六時間を三日間)


 委員長は腹いせとばかりに、僕を捕まえて特別講義という暴挙に出た。頼みの綱のアタランテは、むしろ委員長に協力的だった。とんでもない裏切りだ。

 勉強は主に、統合ネットワークの事、アガスティアの事、そして、俯瞰次元の事だった。

 データリンクで良く聞くけれど、俯瞰次元そのものは、通信規格の事じゃない。物理的な距離と時間に全く影響を受けない、二点あるいは三点の同一特異点のことだ。

 虚空工学の最北端で、物理学と論理学と哲学の詭弁。云わば、現実を騙して生み出した代物だ。そう言ったのは、講義の横で茶々を入れるフーだけど。

 名前の由来は、物理世界を俯瞰する視座だから。正式名称は長すぎて誰も憶えてくれないらしい。考えたのは猫だ。芝虎で、中身は偏屈な年寄りの猫。猫? 委員長はアーサクイン博士と言っていた。猫なのに博士だ。

 僕の知っている俯瞰次元は、フーに貰った黒い腕輪の中にある。実は、その素子ひとつで惑星経済が賄えるほどの値段だそうだ。これは今、僕とアタランテのデータリンクとして使われている。

 この俯瞰次元における情報素子交換、アサンプションエンジンで成り立つ通信規格を指して、俯瞰次元通信と云う。これをハブにして、ガラクティクスを網羅する零距離零時差ネットワークが成り立っている。

 例え銀河の端と端でも、遅延なく情報が行き来する。勿論、幹線だけだけれど。

 ちなみに、数理次元の外にある事から、アザーと呼ばれた時期があって、大昔の無線通信規格を捩って、アザートゥースと呼ばれた事もあるらしい。これは余談だ。


 昼夜のない宇宙船の中は、大抵、だらだらと過ごしてアタランテに叱られるのが常だったけれど、今回は委員長が加わった所為で、殊更、管理が強力になった。

 勉強時間もそうだけど、寝起きに伝統の宇宙体操をしたり、食事もお風呂も、時間がきっちり決められている。

 相変わらず、僕とフーのお風呂は別々だ。委員長とアタランテは、風紀とか二次性徴とか訳の分からない話をして、僕を煙に巻こうとしている。

 何だか、はっきりしない。踏み込むのに躊躇している感じがする。いい加減、そんな二人の態度も面倒になって、僕は話を聞き流していた。

 だけど、僕のフー不足もいよいよ限界が来て、僕は夜中にフーのベッドに潜り込もうとした。

「フィンカ」

 寸前、委員長がフーの部屋に乗り込んで、枕を抱えた僕の手を引いた。

「あなたはもう二次性徴が発現しているのだから、駄目です」

「知らないよ、そんなの。アタランテも何とか言ってよ」

 アタランテは微妙に間を置いて、溜息混じりに囁いた。

〈もう子供じゃありませんからね。私もお勧めしません〉

「フィンって呼ぶ癖に、ずるいよ」

「さあ、来なさい」

 僕は足を踏ん張って、委員長の手を引き返した。

「もう、だったら委員長もフーと一緒に寝ようよ」

 委員長は、ひゃとか何とか声にならない声を上げて後退った。そんなに慌てる事?

 たたらを踏んだ拍子に、委員長は足許に放り出してあったディスクを踏んでしまった。

 気付いて、ディスクを拾い上げる。掌ほどの大きさで、真ん中に穴が開いている。片面は虹色のきらきらだ。

「これは」

 委員長はディスクを指先て恭しく掲げ、鼻からむふーと息を吹いた。

「古代の物理メディアではないですか。どうしてこんなものが」

 顔を真っ赤にしてあふあふ言っている。

 そのディスクは、僕がフーの倉庫から持ち出したものだ。先日の僕らの徹夜の原因でもある。続きを観ようと思って持って来たのだ。

 中には平たい動画と音声のコンテンツしか入っていない。大昔の物だけあって、大きさに見合わずもったいぶったメディアだ。

「細部まで再現されていますね。しかもデータまで」

 委員長はディスクに目を凝らして叫んだ。見えるんだ。

 フーによると、人がまだ他所の星にも行けなかった頃、世界ネットワークがやっと途切れ途切れに繋がった頃のコンテンツらしい。定職のない人が自由に作ったから、ニートフレックスなんて名前が付いているのかも。

 持ち込んだのは、恰好良くて可愛い女の子の探偵が、得意の推理でばったばったと犯人を薙ぎ倒す物語だ。たぶんそうだったと思う。

「観ましょう」

 委員長が言い切った。目が座っている。

「寝る時間じゃないの?」

 鼻息に気圧されて僕が言うと、委員長は胸を逸らして応えた。

「未来は変えられませんが、予定は変えられます」

 それって、ずるくない?


 案の定、予定を少し寝過ごして、僕らはタウドッグの繋留都市に着いた。午後を少し回った辺りだ。幸い、都市の一帯は日が長い。陽が沈むのはまだまだ先だ。

 僕らは、場所を選ばない小型のシャトルに乗って来た。空から行く先を見下ろすと、大きな五角形のパネルが寄り集まって、ひとつの街を作っていた。

 タウドッグの半浮遊都市は、パネルごとに特化した役割があって、目的や気候に合わせて組み合わせを変えるらしい。

 僕らが駐機したのは、端のパネルのそのまた縁だ。大きな施設は何もなく、フレキシブルフレームで囲われた自然公園のドームが、幾つか点在しているだけだった。

 人目に付かないのは大切ですね、なんて委員長は言ったけれど、周りには結構人がいた。皆、何だかカラフルで半裸だった。

「フースーク?」

 全天モニタの光景に微妙な顔をして、委員長が問い掛けた。けれど、既にシートにフーはいない。ハッチの前で外装を展開していた。

 声を掛ける間もなく、フーの開け放したハッチから、空調も戸惑うほどの熱気が飛び込んで来た。これはきっと、僕らをシャトルから追い出す算段だ。

「うわ、やっぱり船内でいいや」

 当のフーが外気にたじろぎ、立ち竦んでいる。僕はフーの背中を思い切り押して、シャトルの外に追い出した。

 目の前に拡がる光景は、どこまでも空と海がくっついていた。ぐるりと見渡すと、遠くの街に途切れるまで、全部が蒼と碧の二色だった。足が届くほど遠浅の海辺が何処までも続いていて、小さな露営マットが転々と浮かんでいる。反撥コートの裸の人が、海豚のように跳ねていた。

 海の色は僕の元いた世界より碧い。これは、散布した産業微生物の色だそうだ。ここの生態系は、一から人の持ち込んだもので出来ている。

「海だ。海だね」

 僕は少し薄めの空気を胸いっぱいに吸い込んで叫んだ。潮の香りが少し蓮華草っぽいのは気になるけれど、確かに水辺の匂いだ。今すぐ水に触れたくて、僕は無性にそわそわした。

 そんな僕を見て、通りすがりの人がくすくすと笑った。指先ほどのシェイプシート貼っただけの人や、身体の一部に視覚妨害を施しただけの全裸の人たちだ。水着と下着はどこが違うのか、なんて僕と委員長の疑問には意味がなかった。此処はお風呂か。

「ちょっと待って。まだ行かないでフィン」

〈そうです。準備体操が先ですよ〉

「そう云う問題じゃありません」

 委員長の表情は不安気だ。僕が勝手に飛び出して行かないように、腕を掴んでいる。

 片方で僕を捕まえたまま、委員長は僕を引き摺るようにフーに詰め寄った。

「大帝の事を調べるんですよね? 此処からローカルネットワークに接続を? それとも、原始的な聞き込み調査? あと歯医者がどうとか」

 そう云えば、そうだった。

 フーは駐機場に着けたコンテナを開けて、中を引っ掻き回していた。上着を脱いで放り出し、シャツを白に染め替えている。

 コンテナの縁から覗いているのは、折り畳んだ露営マットや浮き輪、派手な色のパラソルだった。ええと、潜入捜査にはもしかしたら必要かも。

「もう解決したんじゃないかな」

 振り返ったフーは、これ以上ないほど呑気な顔をして言った。

「何を言っているのですか」

 委員長の反応は至極真っ当だ。怒りを通り越して半泣きになっている。

 でも何だろう。

 何だか、変だ。

 僕は不意に閃いた。

 大帝の支配する未来は、此処ではなくアガスティアで生まれた。それが全てだ。

 アガスティアは、起こり得る総ての未来をシミュレーションしている。その素材は、統合ネットワークの提供するデータと、枝葉末節を落とした変動性の低い道筋だ。

 ここに、二つの恣意がある。選択は委員長の、トリニティの意思だ。

 帝国のような不確定要素はデータの欠落だけれど、それ自体に意思はない。だけど、沢山の可能性の中から大帝を生み落とし、支配者へと育成する未来には、それなりの意思が必要だ。

 だとしたら、それは誰の意思だろう。

 僕は無意識に足を止め、委員長の手を振り解いた。

「大帝は、統合ネットワークの中にいるんだ」

 僕の突き付けた指先は、頭の中で雷鳴が轟くほどの、劇的な演出を伴っていた。筈だ。

「大帝の正体は、委員長だ」

 僕はむふーと鼻息を吹いた。

 委員長は暫し凍り付いて、呆然と僕を見つめ返した。

「いやいや」

 徐に顔の前で手を振って言う。

「そんな事ないから」

 不意に、フーが吹き出して、委員長の肩を叩いた。

「フィンの名推理はともかく、確かめてごらん」

 ともかくとは何だ。僕はフーに向かって口を尖らせた。

「ですから、そんな」

 委員長は、そこで言葉を失った。統合ネットワーク本体の混乱か、ウエット端末は人間味を欠いた制止状態に陥ってしまった。

「どうして」

 呼吸や瞬きが戻っても、頬はまだ凍り付いている。情動表現のフィードバックが反応容量を超えているのかも知れない。

 委員長の接続した未来に、大帝は存在していなかった。

 アガスティアの示した未来は、始まる前に終わっていたのだ。


「委員長、これも持って行って」

 シャトルの影でフーが手を振る。委員長はフーの指したパラソルを抱えて、係留した露営マットに運んで行った。

 統合ネットワークの混乱はまだ少し続いていて、委員長は半ば呆然としたままだ。まるで人形のように、反射だけで動いている。その所為で、フーにいいように使われていた。

 チャンスとばかりに水着に着替えさせたり、荷物を運ばせたり。やりたい放題だ。

 委員長は白のクルスホルター、僕は黒のタンクトップとボトムの水着に着替え済みだった。周りの人に比べると、布地の面積は随分と大きいけれど。

 僕は浮かべたマットの上に、遊び道具を並べていた。フーが日陰から出て来ないものだから、僕の好き勝手に積み込んでいる。

 僕は委員長の抱えたパラソルを受け取ろうとして、手を差し出した。

 動かない。委員長を見上げると、真っ赤になって震えていた。

「フースーク」

 叫んで駆け戻って行く。パラソルを持ったまま。仕方なく僕も追い掛けた。

「勝手に、勝手に、勝手に」

 委員長はパラソルを放り出し、フーの首を絞め上げた。

〈自業自得ですね〉

「どっちのさ?」

 アタランテの冷ややかな囁きに返して、僕は委員長を宥めて引き離した。

「説明してください」

 ようやく落ち着いたものの、委員長の機嫌はまだ直らない。ウエット端末にどんな情動表現を返したら良いのか、混乱しているのかも知れない。

「もう解ってるだろう。犯人は捕まえた?」

 フーは日陰に座り込み、委員長はその前に仁王立ちだ。僕はフーの横に腰を下ろして、二人に訊ねた。

「犯人って何? 大帝のこと?」

「大帝をでっち上げた犯人。大方、危機管理対策か革命シナリオだろう?」

 委員長は少し怯んでそっぽを向いた。

「現在、特定管理コードの一つを容疑者として分解捜査しています」

 つまり、統合ネットワークの中のプログラムと云う事だろうか。

「そんなこと、あるの?」

 僕は、たくさんの小さな委員長が喧々囂々しているところを想像して、ちょっと和んだ。

「隙あらば最悪の状況を作り出そうとする研鑽機能だね。普通はちゃんと管理されている筈なんだけど」

 フーは気怠げに言った。要は委員長の機能の一部だ。免疫力を高めるために、わざと飼っている黴菌と云ったところ。単一存在故の多様性の維持機能だ。

「此処には、有限速度の単回線通信しかない。もしかしたら、ブラックホールをリレーして、もっと遅延させていたかも。わざと時間差を作り出して、予測された未来の対抗策を立てていたんだね。なかなかに狡賢い。 勿論、現場に行けば簡単にバレるけど」

「解っていたなら、わざわざこんな所まで来る必要はなかったでしょう」

 委員長が屈み込んでフーを睨んだ。顔が近い。僕より少し谷間がある。僕はちょっとだけもやもやした。水着の所為かも知れないけれど。

「僕に解っても、君には判らないんだよ」

 フーはひらひらと手を振った。

「同じ場所から見ても、同じ答えしか見えないだろう? そんなの証明できないよ。俯瞰次元で繋がった君が此処に来ないと、解決しなかったんだ。何せ、君自身の問題だから」

 あやすようなフーの答えに、委員長は言葉を失くした。

「アガスティアの世界シミュレーションは、予測であって予測ではない。ガラクティクスにとっては従うべき予定だ。君は世界を壊しかけたんだよ。自覚する事だね」

 大人みたいなフーの言葉に、委員長は蒼褪めて視線を落とした。

 考えてみれば、フーが説教している相手は、この世界の根幹システムだ。今更ながら、フーが何者なのか、良く分からなくなって来た。

 ふと、考える。大帝を創り出したそのプログラムは、委員長を出し抜く事が役割だ。そこにも意思はあったのだろうか。だとしたら、それは誰の意思だろう。

 振り払うように小さく首を振って、僕は委員長に声を掛けた。

「そんなの気にするの、ガラクティクスの人だけだよ。未来なんてもともと見えないんだもの。分からなくてあたりまえでしょ?」

 僕がそう言うと、委員長は幾分調子を落ち着けて、僕に応えてくれた。

「フィンはそう。でも、この世界のあたりまえは違う。未来が見えないなんて、どっちを向いて歩けば良いか分からない」

 僕にはやっぱり、納得できない。

 フーの手が僕の髪を梳いた。

「アガスティアの未来がフィンの導になる時も来るよ」

 指を滑らせて、僕の頬をくすぐった。

「献立に迷った時とか」

 僕はフーを見上げて溜息を吐いた。どうして、フーはずっと格好良いままでいられないんだろう。僕は立ち上がって、委員長の手を取った。だって、まだ準備の途中だ。

「解決したなら、遊びに行こう」

 僕に引かれて、委員長は躊躇いながらも歩き出した。

「アガスティアは今日の御飯の事も教えてくれるの?」

 委員長を露営マットに引っ張って行きながら、僕は委員長に訊ねた。

「私のシミュレーションによれば」

 委員長はそう言って、眼鏡のフレームをくいと上げた。

「今夜は三人でディナーですね」


 ◆


 委員長も一緒の数日の後。

 身体管理のオーバロードでアタランテが拗ねると云ったハプニングもあったけれど、僕らは十分すぎるほど休日を満喫して帰途に付いた。まあ、毎日が休日みたいなものだけれど。

 ところが、だ。僕は帰りの船の中で、再び委員長とアタランテに拉致されてしまった。またぞろ、僕の不用意な「フーの子供を産む」発言が二人の物議を醸したらしい。

 僕に女の子の自覚が足りないとか何とか。二人は結託し、僕に特別講義を受けさせると言い張った。こんな時だけ息が合っている。仲が良いのか悪いのか分からない。

「男子は出て行きなさい」

 呆気に取られたフーを無理やり追い出して、委員長はキャビンに鍵を掛けた。

〈どうやら郷での教育は不十分だったようですね。これから、二次性徴についての補完講義を行います〉

「今回は特別に、一般教材も使用します」

 アタランテの宣言に続いて、委員長がリストを拡げた。よく知らないけれど、恋愛ドラマや僕がまだ見ちゃ行けないと云われたレーティングのコンテンツだ。

 結論だけ言うと、二人は僕に、その、色々大切な事を教えてくれた。正直、頭に血が昇って、二、三度意識が遠退いたけれど。

 だけどそれから暫くの間、僕はフーの顔が見られなくて、ずっと部屋から出られなかった。

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宇宙大帝と夏休みの計画 marvin @marvin

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