㊼【ササクレの夜】
痛っ。
指先からの鋭い痛みにまた目が覚めてしまった。
タオルケットの繊維に引っかかったささくれのせいだ。
ベッドランプをつけなくてもわかる。
「ササクレ」
せっかく眠りかけていたのに……
目が覚めると昼間あった嫌なことをまた思い出した。
パート先のスーパーでのこと。親から離れた子供がパンのコーナーにいて、げんこつでパンをつぶして遊んでいたのだ。もう見つけた瞬間に子供を引き離して『ダメだよ』と優しく注意したものの、今度はギャン泣きされて、親にクレームといういちゃもんをつけられてしまったのだ。親はネチネチ文句言うわ、つぶしたパンは買い取らないわ、リーダーには怒られるわ、でさんざんな目にあったのだ。
どこをどう考えたって私は悪くないのに、謝らなくちゃいけなくなった。
それがとにかく悲しくて悔しくて。
うまく眠れないのはそのせいだ。
壊れたレコードみたいに、そのシーンが何度も胸によみがえる。
剥くたびに傷口が深くなる、まるで……
「ササクレ」
今は深夜の二時をまわったところだろうか?
ベッドサイドのカーテンを開けると、真っ白な月が煌々と輝いていた。
「はぁぁ、やっぱり眠れないな……」
「どうしたの? 眠れないの?」
明るさに目覚めたのだろう、北乃君がもぞもぞと向きを変えながら聞いてくる。
ちゃんと起きてくれたのはうれしいんだけど、彼も明日は会社なのだ。
ま、あたしもそうなんだけど、この不眠クラブに付き合わせることもない。
「ちょっとね。大丈夫、寝てていいよ」
「そう? なんかあったら起こしてね」
「ありがと」
足音を立てないようにそっと居間のテーブルに移動する。
テーブルには引き出しがついていて、その中にハンドクリームが入れてある。
これもやっぱり音をたてないようにして開き、中からそのチューブを取り出そうとしたとき、
「痛っ」
なんか刺さった。
「はぁ。こういうのもササクレっていうんだよね……」
これで三つ目のササクレ。見ると引き出しの木材の角が剥がれて鋭く尖っている。ちょうどそこに手を刺してしまったのだ。補修しようとして、ずっと放っておいた私が悪い。
「まぁ、眠れないことだしね……いっちょやりますか」
引き出しには瞬間接着剤が入っている。そのうち補修するだろうと入れっぱなしになっていたものだ。そのほかの道具もそろっている。
まずはめくれていた剝片に接着剤をつけて元通りに張り付ける。さらに盛り付けるように接着剤を塗りたくる。乾いたころ合いを見計らって、今度はやすりがけだ。接着剤を平らに削りながら、周りの高さに合わせてゆく。そっとそっと慎重に、目の細かいやすりに変えながら表面を整える。
次は……本当ならニスを塗るところだろうけど、あいにくと手持ちはない。その代わりに透明マニキュアで仕上げることにする。タオルで木の粉をぬぐってから、めくれていた全体に塗布する。これもやっぱり厚塗り。仕上げにもう一度やすりで表面を整えれば完成だ。
気づけば一時間近くたっていた。でも仕上がりには大満足。なんかやすりをかけてツルツルにしただけで、心のささくれも取れたみたい。
「うん。やっぱり私は悪くなかった。間違っているのはあの人たちの方」
引き出しの中のハンドクリームを指先にたっぷりぬると、痛みも少し和らいだ。
なんか心地のいい疲労感に眠気も戻ってきた。
それからベッドにもどって北乃君の手をそっとつなぐと、あくびが出た。
「戻ってきた?」
「うん。眠くなってきた。ごめんね、起こしちゃった」
「大丈夫。そういえばさ、パンダの夢を見たよ」
「え?」
「なんか耳元でしゃべるんだよ、笹クレ、笹クレって……」
あ。それあたしの独り言のせい。
まさにササクレの夜だった。
おわり
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