㊵【深夜の散歩とハサミとイケメン】
深夜……それは日常のすぐそばに存在する異世界。
空には煌々と銀色の月が輝くも、その光は地上に届くことなく、世界は暗闇に覆われる。
昼に活動する生物たちは眠りにつき、夜に生きる者たちが闇の中から這い出てくる。
眠っている人間たちは知らない、毎夜の闇の中、世界を揺るがす戦いが行われていることを……
●
「うーん。こんな感じかなぁ。でもなんか弱いんだよなぁ」
私の名前は春野ハナ。
デビューしたばかりの少女漫画家。
でも遅咲きだったから、そんなに若いわけではない。
デビューが遅かったのは、なかなかぴったりとした作品が書けなかったから。
デビュー作のタイトルは『血まみれドッグス』。
美形の狼男兄弟が深夜の都会を舞台に大暴れするアクション漫画だ。
だがいきなり展開につまずいてしまった。
実は私は怖いものが大の苦手なのだ。
なんでこんな設定で書いてしまったんだろう?
書きたい絵はあったけれど、ストーリーがまったくリンクしないのだ。
●
アイデアに詰まった私は深夜の散歩に出かけた。
真っ暗な道、誰も歩いていないビル街、点滅している信号灯。
見上げると月が瞬き、頬を撫でる風はひんやりと冷たい。
夜だ。確かに昼間とはまったく違う景色だ。
「だけど、なんにも思い浮かばないんだよなぁ。なんか降ってくるとか落ちてるとかないかな」
●
しばらく歩くと、公園にたどりつく。
昼間は子連れやカップルでにぎわっているが、こんな時間では誰もいない。
喧噪の代わりに、暗闇と沈黙だけが立ち込めている。
その中で水銀灯の明かりに浮かび上がるようにベンチが一つ。
そこに男の人がいた。
三十歳前後だろうか、たぶんちょっと年上。三つ揃えのスーツを着て、缶ビール片手に月を見上げている。
座っているけど、背が高いのは一目でわかる。
整った顔立ちなのに、どこか柔らかい印象。
有能なサラリーマン風だが、どこか自由さを感じる落ち着いた佇まいだ。
(なんか恐ろしくカッコいいな、この人……)
それが要三郎さんの第一印象だった。
(まさに『血まみれドッグス』のクールな兄にぴったり!)
それが第二印象だった。
●
「あー、キミさ、ひょっとしてハサミ持ってない?」
その彼はわたしにいきなりそう聞いてきた。
なんとも想定外、珍しい声のかけ方だった。
「あの……」
「やっぱりハサミなんて持ってないよな」
「いえ、持ってます!」
「え?ホントに?」
うん。実はたまたま持っていた。というか、たまたま買っていてそのままポシェットに入れっぱなしになっていたのだ。
「ちょっと貸してくれない?」
あたしはトコトコとベンチに近づいて、ポシェットのハサミを渡した。
彼がさりげなくハンカチを引いてくれたので、おとなしくその隣に腰掛けた。
●
「実はちょっとした賭けをしていたんだよ。このネクタイをどうするかってね」
彼は自然なウィンクをしてみせた。
いや、ほんとカッコいい。なんというか色気があるのだ。
まさに私の書きたかったキャラクターそのものだ。
クールな外見と物腰、でもその中に詰まっているのは色気と男気。
完璧だよ、このハンサムさん。
「まさかこんな深夜にハサミを持っている人と出会えるなんてね。これは天啓だね」
彼はそう言ってパツンとネクタイの先を切った。
「天啓、お告げですか?」
「オレはさ、なんでもいいから『立派』になりたかったんだよね。何か人の役に立つとか、人の希望になれるとか、そういう立派な人間に」
またパツンとネクタイを切る。
「だけどさ、オレは育ちも良くないし、あんま頭もよくないからさ、結局ネクタイを自分から巻いちまった」
またパツンとネクタイを切る。端切れが落ちて、ネクタイはだんだんと短くなってゆく。
「ゴルフ、釣り、麻雀、酒、立派になりたきゃ覚えろってさ。ホントバカみてぇ」
パツンパツンと切り捨てていき、最後に首元にスッとハサミを差し込むと、ついにネクタイがすべり落ちた。
「オレは誰のものでもない。首輪なんて必要ない。キミのハサミがそれを断ち切ってくれたんだ」
●
「これかっ!」
思わずそう叫んだのは私。
完璧にアイデアがおりてきたのだ。
首輪だ!
首輪を切ることで兄は本来の力を発揮するんだ!
それを切るのは弟の役目。
首輪から解き放たれた兄はクールから解き放たれて獰猛な狼の本性を現す!
なにこれ完璧!
「……首輪から解き放たれた獣は夜の闇を駆け抜け、敵の喉笛に食らいつく!」
「え?なに?何の話?」
どうやら独り言を言っていたらしい。
でも、そんなこと気にしてる場合じゃない。
もうアイデアが、書きたいシーンが次から次へと浮かんできて止まらない。
早く帰らなくちゃ!一枚でも多く、イメージが鮮やかなうちにスケッチしないと!
●
「ありがとうございましたっ!天啓だったらむしろあたしの方です!」
「あのさ、オレの話聞いてた?」
「いえ、あんまり。すみません。わたし夢中になるとこうなんです。ということで帰ります!」
「え?あの、ハサミ返すよ」
「それは記念に差し上げます!」
「いや、ちょっと待ちなよ、礼を言いたいのはこっちなんだから」
だがもう私はすたすたと歩きだしていた。
とにかく今は早く帰って漫画を描きたい!
こんな気持ちになったのは本当に久しぶりだった。
●
それから公園を出るとき一度だけ振り返った。
彼がハサミを持った手を振っているのが見えた。
その姿はぼんやりとしていたけれど、本当にカッコいい人だった。
私はそのままぺこりとお礼のつもりで頭をさげた。
もう会うこともないだろう。
カッコいい人だったけど、住む世界が違う。
と、夜風に乗って彼の言葉が聞こえてきた。
「オレの名は要三郎!また会いたいな!」
「あたしは名乗るほどのものではありません!」
私はそのまま公園を後にした……
○
「それで、そのあとおじいちゃんとどうやって出会ったの?」
と聞いてきたのはサクヤちゃん。
「なんと漫画誌の編集さんになっておばあちゃんのことを探してくれたの」
「なにそれすごい!」
「盛り過ぎだよ、ハナさん」
と言ったのは要三郎さん。
「当り前よ。なんたって漫画家ですからね、ふふふ」
二人ともすっかり歳を取って、白髪も増えて、皴も増えた。
それでも私の目に映っている要三郎さんはいつもカッコいいあの頃のスーツ姿、水銀灯の下でハサミを振っていたあの日の姿だ。
「でもさ、おばあちゃんてその頃からそうだったんだね」
「なに?そうだった、って」
「今風に言うなら、おじいちゃんこう言ったと思うな『おもしれー女』って」
たしかに。
終わり
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