第25話 幕間―嫁入り

 まだ海の中をずっと漂っているようだった。

 きらきらしい花嫁行列が遠ざかってゆくのを、暗い海の底へ連れ立ってゆくのを。

 ただ一人。

 ひとり。

 独り。


 ごぼごぼと耳元で泡が昇ってゆく音がする。

 ゆらぐ海水。

 泡がパチンと耳元ではじける。


『ケガレ』

『違う』

『こわい』

『大丈夫だ』

『来るな』

『タレイアだ』

『ケガレ』

『捨ててこい』

『嫌だ』

『どうして人間のまま死なせなかった』

『生きていたんだ』

『俺が責任をとる』

『俺がタレイアを娶る』


 ゆらゆらと海水に髪を漂わせながら、タレイアは冷笑する。

 責任? 娶る? 冗談じゃ無い。誰がそんなことを頼んだ。勝手なことをするな。

 あたしが欲しいのは、お前じゃ、無い。


(お前さえ……お前さえ……)


 お前があんな物を見せびらかすから。

 お前が簡単に譲り渡したりなんかするから。

 真っ赤なリボン。私といとしいひとを引き離した――お前のせいで。


 嗚呼、とどす黒く空いた眼窩のままタレイアはうっとりと息を吐く。

 息はあぶくになって海面へするすると吸い込まれてゆく。


 いとしい人。

 あんなにきれいなひと、見たことが無かった。

 水面に昇ってくるあの人の顔、目差し、しなやかな腕が伸ばされた先に嫉妬した。

 すべてに恋をした。

 花嫁行列の賑やかしの一人だって良かった。

 あなたが笑ってくれるなら、あなたの喜びの一つになれるだけでも良かったのに。


『捨てておけ』


 水にしぃんと溶けるような声すらきれいで、胸を締め付けられた。

 捨てないで。

 お願い捨てないで。

 嫌いにならないで。いいえ、嫌ったって良い。

 そんなどうでも良い物みたいに見ないで。

 あたしを、見ないで――あたしだけ、見て。


 タレイアは起き上がり、髪に絡んだままのリボンを乱雑な手で引き抜き、捨てる。

「行かなきゃ……」

 このまま座していたら、自分は望まぬ男の元へ嫁がなければならない。

 きっと一生、そのまま逃げられない。

 出るなら今だ。

 タレイアの目は失われているにもかかわらず、すべての物がはっきり分かった。

 何度も遊びに訪れた、兄のような相手の家。

 散らかりぶりにうんざりして、それでも嫌いでは無かったはずのそれらの光景が、今は自分を囲い込もうとしている男の物だと思うと気持ち悪さに唾棄したくなる。

 こんな場所の空気、後ほんのわずかだって吸いたくない。

 掛けられた衣を鬱陶しげに払い落とし、タレイアは断固たる足取りで外へ出る。

 他の連中――もう仲間とも思えないどうでも良い連中――に見つかると厄介だ。

 夜が明ける前に、船を盗んで出て行こう。

 あの人の待つ海へ。

 砂浜に停めてある船のうちの一つに櫂を積み込み、係留している綱をほどく。

 少女の指に固い結び目は解くのに難儀するはずだったのに、何故か触れただけでするりと自ら解けた。

 重たい木船を押す彼女の体には、力が宿っているようだった。

 その力の名を、彼女は知っている。


 朝靄の立つ海原に、一艘の船がこぎ出してゆく。

 櫂がぱしゃりぱしゃりと水面を打つ。

 波紋が波一つ無い鏡面のような海に広がる。

 少女は笑う。

 幸せそうに笑う。

 ぽっかりと空いた黒い目から広がる闇が、愛する人の証が少女の肌を、指を、髪を黒く染めてゆく。

 いつしか靄は指先すら曖昧になるほどの濃さとなり、少女が出てきた島も見えなくなっていた。

 海面もミルクのように白い。

 ――否、海面が波立ち、うごめき、ざわめいている。

 一匹、また一匹。

 黒い海の底から泳ぎ上がってきた白銀の御使いたちが船を囲み始めているのだ。

 それはゆらゆらと長い身をくねらせ、船と併走するように泳ぎ始める。

 はじめは一、二匹だったそれはみるみるうちに数を増やし、百になり、千になり、海面を白いざわめきで埋め尽くす。

 その御使いたちに囲まれ、導かれるように小舟は進む。



 もう一度。やり直せるなら、もう一度。


 あなたの手を取りに行こう。


 今、会いに行きます。


 嫁ぎに参ります。




「今度こそ、間違えない……愛してます」



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