第24話 うたびとはすすぐ

 あの浜辺で。

 イルカたちに案内された先にあった小さな小さな、岩に囲まれた猫の額のような浜で。

 昼の日差しが燦々と眩しかったあの白い砂浜で、倒れていた妹分を見つけた時。

 もしも時間があの時まで巻き戻るとしたら、俺はどうするだろうか。

 皆を怯えさせて。

 タレイアにあんな言葉を聞かせてしまって。

 スキュラに呪われた者の末路を知って。

 火の女神の与えるものが救済では無く慈悲なのだとこれ以上無く思い知って。


 ああ、だけど。

 だけど、きっと、きっとそれでも俺は――。


 岩の割れ目から吹き出す清水は骨にしみ通るように冷たく、透き通っている。

 しゃらしゃらと落ちる水の玉は黒岩の上に張り付いた苔を湿らせて、アリオンの喉も潤す。

 吐いて吐いて、酸っぱくなった口をゆすいだ水はいつもより甘く感じた。

 水の清冽さと夜の涼しさに身を竦ませながら、窪んだ手のひらに水を貯め、体に着いた灰や吐瀉物を洗い流す。

 汚した服は脱いでしまったので、今のアリオンは下帯姿だ。

 引き締まった伸びやかな体は、泳いでいる最中に波に押されて岩にぶつかった時にできた傷やら、イルカのかみ傷やら、ここまで登ってくる間に草の葉で切り裂かれた足の筋やらで、けっしてきれいとはいえない。

 だが健康で、生命力にあふれた、若い男の体だった。

 教え子であり養い子であるその青年が身を清める様子を腕組みして見守り、崖の上のおきなはふっと息を吐く。

 いつも唇をむっつりとひき結んでいるこの子はわらしの頃から頑固者で意地っ張りだった。

 親兄弟、親族に、出入りの網子まで根こそぎ失った時すら泣かなかった。

 ただ、今のようにぐっと唇をひき結んで、泣きたい気持ちを飲み込んでしまうのだ。

(今も腹ぁ中でいろいろ考えてるんだろうなぁ、てめぇはよ)

 そのひとかけらでも吐きだしゃあ良いものを。

 翁にすら、アリオンは語らない。

 時々翁は思うのだ。

 この子が本当に笑ったり泣いたりできる相手は陸ではなく、海にしか居ないのでは無いのかと。

 こんな感傷的になるなど、酒が頭に回ったか。

 やれやれと頭を振った翁を後目しりめに、アリオンは頭からつま先まで身を清め終わると、水のたまり場で踏み洗いしていた下袴を拾い上げ、ぎゅっとおざなりに絞って、まだ濡れているそれを穿いた。

 その顔に、先刻までの悲壮さはない。

 清い水で苦悩も洗い流したかのような清々とした表情だった。


 夜明けの茜色が縁取り始めた山の端を背景に、若い男が立っている。

 地上でしか生きていけない男だ。

 押しつぶされても、折られても、それでも歯を食いしばって立ち上がってくる負けず嫌いな男だ。

 海に愛された、若いうたびとだ。


 アリオンはすっかり涙を洗い流した顔で、まだ縁がほんの少し赤く腫れている目で、山を振り仰ぐ。

 細くたなびき昇る朝靄に混じって、黒い煙が一筋。

 ケフェウスだったものを焼いた火の名残だ。

 立ち会った男たちはこれから、炭の中の最後の火が消えるまであの場に立ち続けるのだろう。

 そうして人知れず、残った灰を山に埋めるのだろう。

 海に呪いを持ち込むわけにはいかないから。呪われた者は海へ還れない。

 そのことを告げた時、アリオンは「そうか」とだけつぶやいた。

 おおよそ予想はついていたのだろう。

 もう、わめきもしなければ反発もしなかった。ただ、燃える炎に向かって静かに祈っていた。


「ジジイ」

 髪から水を滴らせながらアリオンは静かな声で言う。

 声変わりを終えた大人の声。

 うたびとの修行中にキャンキャンと吼えていた甲高い子供の声の面影はもう無い。

「ケフェウスは帰ってきたかったんだなぁ」

「あん?」

「他の皆は、水に沈んで死んでしまった。ケフェウスも呪われた。それでも、生きて岸にたどり着いて、島に帰ってきた」

 赤い暁光にアリオンの横顔がくっきりと浮かんでいる。

「帰りたかったんだなぁ。きっと、皆、帰りたかったんだ」

 帰った先に行き着くのが一握りの灰になる定めであったとしても。

 生まれ育ったこの島へ。大事な人々の居るこの村へ。

 呪われて正気を失い、泥の塊のようになって人の姿も心も記憶も失っても、なお。

「俺も死ぬと分かったら、きっとここを目指して帰ってくる」

「縁起でもねぇこと抜かしてんじゃねぇ、小童が」

「皆そうだ。川で生まれた魚が海に行って、また川に戻ってくるみたいに皆、帰ってくるんだ」

 海に還った者も、めぐりめぐって、戻ってくるんだ。

 そう言ったアリオンの顔は静かだった。

「火の女神に迎えられて、灰になって、土になって、やがて溶けて水になって、俺たちの所に戻ってくる」

 なあ、じいさん。

 清水で濡れた両手を尊いもののように見下ろして、アリオンは穏やかに笑う。

「俺さ、皆は非難するだろうけど、やっぱりタレイアを連れ帰ってきて良かったと思う」

「……そうか」

 アレを見て、吐いて泣くほど衝撃を受けてなおそう思うのか。

 翁は苦笑いする。

 頑固者め。

「考えたんだ。もう一度やり直せるなら俺はどうする。タレイアが皆から遠ざけられて、あんな泥になると分かって。最後は生きたまま焼かれて、海に還れないと知って。ロアンにも世話かけなきゃ帰れもしない状況で……でもさ、やっぱり俺、同じことするよ」

 タレイアが生きていても、死んでいても。

 最後はやっぱりこの島に、村につれて戻ろうとするだろう。

「あんなさみしい場所で、タレイアが誰にも知られずに土になるんだって思ったら、胸がきゅってするんだ」

 それは駄目だ。

 否定の言葉は優しく柔らかだった。

「皆がお帰りを言わないなら、俺がその分言えば良い。それに、タレイアのおやじさんたちも、タレイアが見つからなくっても苦しむ。見つかっても苦しむ。同じ苦しいなら、一緒に苦しいほうが良い……と、思うんだ」

「……タレイアを娶るっつー話、あれ、本気か」

「うん」

「好いていたのか」

「あー……まあ、な。いまだおしめして泣いてたとか、喧嘩でイエスースを叩きのめして泣かせてたとか、そんな印象ばっかだけど、嫌っちゃねぇよ」

「抱けるか?」

 直截な翁の物言いにアリオンはゲホッとむせて、顔を赤くする。

「どうなんだ?」

「阿呆抜かせ……そりゃ、胸とか尻とか、くる時もあるけどさ。中身はタレイアだぞ?」

「……お前はそう言うだろうよ。このヘタレが」

「あぁっ?! ヘタレだぁっ?!」

「まあ、ケガレが子を産めるわけでもなし……受け口になる気か」

「戻る家が無いなら、俺の責任だろ」

 これは嫁取りではない。

 墓守だ。

 まだ恋すらロクに知らぬこの男に、早々にそんな道を歩ませてしまうのか。

 翁は瞑目する。

 反対の言葉はいくらでも出てくる。だがこの短剣のような曇りなく硬い男は聞くまい。

「じいさん」

「なんだ」

「護ってくれたのに、ごめんな」

「……この阿呆が」


 翁のうめきに、金と赤の混じる光の中で青年は溌剌と笑った。

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