第23話 うたびとはさとる


 タレイアを家に一人置き去りにするのは心配だったが、かといって起こすのも気が引けたので、昏々と眠る彼女に衣をかぶせ、戸締まりをし、アリオンは崖の上の翁と共に山腹を登っていた。

 紺碧の夜空の月はだいぶ水平線に近づいて、どうやら今宵は徹夜だななどと頭の片隅で考える。

 翁とアリオンの間に言葉はない。

 ただ、ざくざくと草をかき分け、枝を振り払い、土を踏みしめ、あるかないかも曖昧な獣道を登る。


 そうしてどれほど登っただろうか。

 岩を迂回し、小川を越え、たどり着いた先は杣小屋そまごやとも呼べないような粗末な木造の小屋だった。

 折った枝を円錐形に組み重ね、外壁一面に泥炭を塗りつけて乾かした小屋。

(いや、小屋なのか?)

 獣を閉じ込めておく檻だと言われた方が納得する。

 中からは獣の糞尿のような、魚の内臓が腐ったような、胸の悪くなるような臭いが漂ってくる。

 こみあげる吐き気に眉を寄せたアリオンの耳に、虫の声に混ざって異質な音が届いた。


 じゅる、じゅり、ずりり、がり、がりがり。


 湿ったものを引きずるような重たく濡れた音、そして何かを硬い物――たとえば爪で壁をひっかくような音。

 アリオンの背中がぞわりと粟立つ。

 中で、何かが、動いている。

 その小屋の脇で村の男衆が二人、生成りの服を着て、厳しい顔で腕組みしていた。

 ここ最近村で見かけなかった顔だ。

 他の島に出ているのかと思ったらここに居たのか、とアリオンは不可解さを覚えながらも得心する。

 笹藪をかき分けて現れた翁に気づいた一人が、顔を振り向けホッとした顔をする。

「豪腕の、やっと来たか……ん? おい、後ろに居るのはまさか」

 松明が向けられ、翁の背後に居たアリオンの姿が照らし出される。

 突然まぶしさに目を細めるた彼の姿に、男衆の動揺が空気を通じて伝わった。

「アリオン! 何でお前がここに……」

「俺が連れてきた」

 狼狽する男衆とは対照的に落ち着き払った態度で、崖の上の翁は答える。

「何故だ!?」

「おい、まさか部外者をこれに連れ込む気か? ただでさえあんなモノを……」

 男衆は一瞬アリオンを見やり、言葉の先を飲み込む。

「何を考えている、豪腕の。こんな場所に、こんな時に連れてくるなど」

「ああ? 逆だろうが。本来、これを仕切るのはこいつの仕事だ。引退した俺じゃねぇ」

「しかし……」

「居るべき野郎を居るべき場所に引っ張り出した。そんだけのこった」

 アリオンは会話から取り残されたまま、男衆たちと翁の顔を交互に伺う。

 分からない。

 分からないが、何か自分に関わる重大な話をされているのは分かる。

 翁は本来「これ」を仕切るのはアリオンの仕事だと言っているが、男衆たちは彼を参加させたく無いようだった。

「安心しろ。約束通り今回は俺がやる。こいつぁただの見学だ」

「しかし……アリオンはみそぎもをしてないだろう」

「んなもん、見とるだけなら後でどうとでもなるわい」

「だが……」

「いや、もう仕方ない。早くしないと日が昇る。このまま進めよう」

「そう、か。分かった。仕方ない」

 アリオンを蚊帳の外に置いたまま話は決着がついたらしく、男衆はうなずき合って小屋へ向き直る。

 己の立ち位置が分からぬまま、常ならぬ空気を感じて立ちすくむアリオンを、翁があごをしゃくって呼ぶ。

「小童。足下に気をつけてこっちに来てみろ。砂以外踏むんじゃねぇぞ」

 言われて、アリオンは小屋の周辺に山にはそぐわぬ白砂が敷かれていることにようやく気がついた。色々と浮かぶ疑問を飲み込み、言われるまま砂だけを踏んで、アリオンは翁にいざなわれるまま小屋へ近づく。

 糞尿、腐った魚の内蔵、硫黄。

 ありとあらゆる悪臭をない交ぜにしたような臭いに頭がぐらぐらするのを堪え、少しでも臭いを吸い込まないように息を止める。

「テメェの目で見てみろ」

 躊躇は一瞬。

 アリオンは掲げられた松明の下へ頭を思い切って突っ込み、小屋を構成する枝と枝の隙間に顔を近づけた。


 中は松明の光がほとんど差さず、粘った闇に占められていた。

 タールのようなどろどろとした黒の中、何か見えぬかとアリオンは目を凝らす。

 その鼻先にむわりと生臭い風が吹き付けた。

 ぶわっ、と汗が全身から噴き出す。

(違う)


 ごぼ。ごぼ、ぼ。ぐ、ふしゅ。ぐ、る、ぐるるるるぅ。


 耳を犯すごろごろという湿った音。強烈な臭い。

 ねっとりと糸を引きそうな生温い風の正体は――。

(これは)

 息、だ。

 今アリオンの目と鼻の先に小屋、否、檻を隔てて何かが呼吸をしている。

 早く、一刻も早く離れたい。

 そう思うのに、アリオンの体は石になったかのように動けない。声が出ない。指先一つ動かせない。

 ひく、とアリオンの喉が震える。

 動けぬまま永遠とも思われる時が過ぎ、次第に闇に慣れてきた目が、ふしゅ、ぐしゅうと息を吐き出すソレの輪郭を掴む。

 最初アリオンはそれを痛んだ里芋だと思った。子供が作った泥団子にも似ている。

 ただし大きい。

 人ひとりの大きさはゆうににある、流れ、滴り、壊れ、崩れ、腐りゆく「泥塊」。

(なん、だ、これ)

 生きているのか。

 こんな物が存在するのか。

 獣か、それとも別の何かか。

 あえぐアリオンの目がふと、「泥塊」の上部にひげ根のような物を見つける。

 特徴ある赤みがかった、細い、まるで髪のような――

「あ゛……あ、が……」

「……まさ、か」

「ぐぁ、げっ……ひ、ぎぎ、げっ……ごぼ、ごぼぼ、ぼ……」

 ここに来る前に翁と交わした会話が稲妻のようにアリオンの脳裏に走る。

 まさか。

 そんな。

 こんな。

「ケフェウス……なの、か」

「ひぎっ、ぎぃいいいっ」

 泥塊――ケフェウスだったもの――「ケガレ」が頭を壁に打ち付け、ミシィと小屋が揺れた。

 びちゃびちゃっ、と飛び散る音がする。

「げっ、げげげげっ、ぎゃははははははははははははははははははははははは!」

 爆発的な哄笑に弾かれたように尻餅をつき、アリオンは蒼白な顔を引きつらせた。

 こみあげた吐き気はなすすべ無く喉をせり上がり、噴出し、アリオンの服の上にぶちまけられた。

「うぇ、ぐぅっ」

 脇を向いて口で手を覆っても、嘔吐は止まらない。

 げえげえと吐いて、吐く物がなくなってもえづき、むせるアリオンに男衆と翁は静かな視線を向ける。

 その目には諦観と哀れみが浮かんでいた。

「もう良いだろう、豪腕の」

「そうさな」

 げたげたと、げらげらと、狂ったように――狂って嗤うケガレを閉じ込めた小屋がミシミシ揺れるのを見ながら、翁が歌い出す。

 それは火の女神へ捧げる歌。

 男衆が松明の火を小屋に付ける。

 乾いた泥炭はあっという間に燃え上がり、枝に燃え移り、円錐形に燃え上がる炎で辺りは昼間のような明るさに包まれた。


 生きながら焼かれる男が煙になってゆくのを見ながら、アリオンは吐き、涙した。


 スキュラに呪われた者へ贈られる火の女神の慈悲。

 これがその正体だった。

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